あしたの鉄人

戦々恐々の日々

中村文則と言う流れ

 

 何とか“お盆休み”に辿り着いた時、僕はやっぱり疲れ切っていた。

 

 日常を、熟すだけで疲れた等と言っている自分は何ともみっともない限りである。

 

 上半期は、本当にありがたいくらい仕事が忙しく、家庭の方でも、やっておかねばならない事が手に負えないくらいあった。

 

 当然の事ながら、時は待ってくれる筈もなく、ふと我に帰ると季節が変わり始めている事に気がついたりする。

 

 四季にすら振り落とされそうになっている自分に、危機感を覚えた僕は何とか夏に追いつこうと必死になった。

 

 焦る必用はない。

 

 僕には、夏を体現するための切り札が二つあるのだ。

 

 早速、一つ目の切り札である“甲子園に高校野球を観に行く”を行使する事にした。

 

 数日前、嫁さんが友達と甲子園に行くと言った時には、僕はネットを小まめにチェックし、何とか内野席のチケットを手に入れる事に成功した。

 

 履正社高校、一回戦の内野席のチケットだ。

 

 “転売したろかぃ!”とも何度か思ったが、何とか踏みとどまり、リビングの机の上にそれを置いておいた。

 

 それから数日間は、心なしか嫁さんの機嫌が良かった様な気がする。

 

 自分が甲子園に行くのに再度、あの億劫な作業を繰り返す気にはなれず、とりあえず、職業訓練学校時代の友人を誘って阪神電車に乗った。

 

 就職してもう三回目の夏だが、毎年、夏は職業訓練学校時代の友人達と甲子園に足を運んでいる。

 

 案の定、甲子園に着いてみると外野席しか空いていなかった為、僕達は、強烈な紫外線を浴び続けながら高校野球を観戦する事になった。

 

 僕は学生時代、野球部に長くいたため、若い時は甲子園に足を運ぶと、どっぷりと感情移入する事ができた。

 

 しかし今は、年を重ね過ぎた所為かオッサン同士、会社の話しや住宅ローン選びの話し、嫁さんの話し等をうだうだ話しながら、チューハイや麦茶を飲みつつ野球を観ている。

 

 世間話の最中に試合に動きがあると、それを止めて、野球に集中し急に高校球児の活躍に胸を打たれたりする。

 

 夕方まで試合を観戦し、炎天下で焼かれた体を冷却するために毎年、梅田辺りで友人達と酒を飲んでから帰る。

 

 この一日で、もう僕は十分に今年の夏を味わった様な気になれたのだが、まだもう一つの切り札が残っていた。

 

 もう一つの切り札とは、中村文則氏の小説を読む事である。

 

 僕は、中村文則氏の新刊が発売されたらすぐに買って読むと言う様な熱心な読者ではない。

 

 中村文則氏の本は、僕にとってはなかなか重い印象を受ける物が多く、読んでいる最中や読後にその重力に自我が引っ張られたりする為、手軽に読もうとは思えなかったりするのだ。

 

 ただ四季の中で、何度かは無性に中村文則作品に触れたいと言う衝動が沸く。

 

 それが夏である場合が多く、いつしかこの季節に中村文則作品を読む事で、僕は夏が来ている事を実感する様になっていた。

 

 僕が中村文則作品に出会ったのは、もう随分と前でまだ二十代の頃だったと思う。

 

 当時、交流のあった年上のバンドマンが「中村文則って言うカミュみたいな文章を書くヤツがいる」と僕に話したのだ。

 

 この男は、自分がバンドマンである事に呑み込まれ、あえて毛色の異なる発言や行動を試みるしんどい男だった。

 

 そう感じていた僕も、わかりもしないカミュの“異邦人”なんぞを読んだりしていたのだから恥ずかしい限りである。

 

 芸人を志していた僕も、バンドマンと言う立ち位置に固執する彼も、形から入れば、自分の将来も形付けられてゆくと信じて疑わなかった。

 

 鋭そうな物に触れてさえいれば、自分も先鋭化されてゆく様な気がしていた。

 

 “異邦人”の中で、アラビア人を射殺した男が、裁判で動機を尋ねられて「太陽が眩しかったからだ」と答える有名な場面がある。

 

 それをよくわからないまま、何だか格好良いと感じていた青臭い年頃に、僕は中村文則のデビュー作「銃」に出会ったのだった。

 

 この「銃」を、最初に読んだ時の自分の何かを根こそぎ持っていかれる感じは、読書を長年続けていてもなかなか味わえる物ではない。

 

 ある大学生が、偶然に拳銃を拾ってしまい、その拳銃に魅せられ、振り回され、蝕まれてゆく。

 

 その心情の移り変わりが、延々と描かれる。

 

 決して目にする事ができない人の内面を、白日の下に晒せる所が、小説と言うメディアの唯一無二な武器だと僕は思っている。

 

 その武器を存分に発揮し、人間をとことんまで掘り下げる中村文則氏のスタイルに若き日の僕は、強く魅了された。

 

 また「銃」の主人公である大学生は、とてもリアルで、大学時代の自分や友人達と重なる部分が多く、とても感情移入する事ができた。

 

 「銃」の後に出た「遮光」も、出版されてすぐに読んだ。

 

 「遮光」の主人公は、人に自分をよく見せようとやたらと腐心する若者で、この若い心理にも深い共感が沸いた。

 

 「遮光」の主人公は、自分が憐れに見られないために虚言を繰り返す様になってゆく。

 

 その欲求は、加速してゆき、交通事故で自分の彼女が亡くなってしまった事をなぜか周囲にひた隠しにする。

 

 主人公は、何とか自分の虚言と真実の溝を埋めようと彼女の遺体から指を切り離し、それをホルマリン漬けにして持ち歩く様になる。

 

 この難解な心情の変化を、人はこうなってもおかしくないと言う範疇の中で見事に、中村文則氏は書き切ってゆく。

 

 「遮光」を読んでいる最中に、人によく見られたいと言う欲求は誰にでもあるが、そのために虚言まで吐く様になると、何も得る事等できないんだなと実感したりもした。

 

 この「銃」と「遮光」の二冊を、僕は今まで何度も読み返している。

 

 それからも中村文則氏は、コンスタントに作品を発表し続けた。

 

 僕は、それを自分の欲求が向いた時期に追う様に読んだ。

 

 当然の事ながら、時を重ねる中で中村文則作品は変化してゆく。

 

 その変化の中で、僕には余り響かない物も多々あった。

 

 よく“若くして作家とし成り立ってしまうと、社会人や組織の描き方が甘くなる”と言われるが、それを中村文則氏の著作から顕著に感じる事もあった。

 

 それに加えて、初期の中村文則作品では、あれだけ感情移入できた登場人物達が、作品を重ねる度に特殊になり過ぎ、余り僕には共感できないと言った事が増えてきたりもした。

 

 僕は、長年、お笑い芸人と言う職業の中で生きていて、ネタを見たり、作ったりする時に“常識人”と“狂人”との対比の重要性を叩き込まれてきた。

 

 その所為か、余り身近に感じる事のできない登場人物ばかりが出てくる様になった中村文則氏の著作を見難いと思う事が増えていったのだ。

 

 それでも何冊かに一度、「何もかも憂鬱な夜に」の様にやっぱり、僕の心を強く打つ物もあり、中村文則作品を読まなくなると言う選択肢は僕の中には生まれなかった。

 

 中村文則氏は、本を出す度に必ず何らかの実験や挑戦をし、それが成功を納めようが、失敗に終ろうが、構わず前進し、次作に生かしてゆくと言う強烈な向上心を持っている様に思える。

 

 だから例え今作が自分にハマらなくても、次作ではやってくれると言う一方的な信頼関係を、築く事ができる希有な作家だと僕は思っている。

 

 中村文則作品を読み続けて、十年以上の月日が流れた。

 

 その間には、僕にも様々な変化があり、中村文則氏も売れっ子作家となった。

 

 そんな中で、去年の初夏にある出来事があった。

 

 ある人気番組の“読書芸人”と言う企画で芸人さん達が、中村文則氏の新刊「教団X」を絶讚したのだ。

 

「十年に一度の衝撃を受けた」

 

「様々な知識が、小説の中に組み込まれていてそう言う事だったのかとわかった」

 

 芸人さん達が“教団X”の感想を口にするのを聞いて、僕は嬉しくもなったが、身勝手に心配になったりもした。

 

 この番組の視聴者と、中村文則氏の読者層とは、マッチしない様に思えたからだ。

 

「せめてゴロウデラックスで言うてや…」と内心で呟いてしまった。

 

 しかも“教団X”は、中村文則氏の今までの著作と比べても、格段に長い。

 

 僕は、その時点でまだ“教団X”を読んでいなかったのだが、中村文則氏が“教団X”の中で様々な新たな試みをした事は想像がついた。

 

 メディアで中村文則氏を知った人達が、初めて手にするのが“教団X”と言うのは、どうなんだろうか。

 

 うちの嫁さんまでも、番組を観て“教団X”を読みたいと言い出した。

 

 こうして僕は、去年のお盆休みに実家に帰る列車の中で“教団X”を読んだのだった。

 

 執拗に繰り返される性描写や、多用される参考文献からの引用は今までの作品にはなかった物で、やっぱり中村文則氏は自分の先を見ようと、様々な挑戦を“教団X”の中で行っていた。

 

 今までになく登場人物も多種多様で、しかもどの人間も特殊で、基準点となる人間が全く出てこないので、濃い人物達がお互いの個性を潰し合っている様にしか見えなかった。

 

 太平洋戦争の描写や解釈は、方向が偏り過ぎていて、この時代を扱うにしては雑すぎるなとも思った。

 

 ただやっぱり、人間を真摯に掘り下げ様とする中村文則節は貫かれていて、十分に没頭できる所があったのも事実だ。

 

 如何せん、人気番組での絶讚と言う情報があったため、“教団X”へのハードルが上がってしまっていて、なかなか冷静に判断をつける事が僕には難しくなってしまっていた。

 

 案の定、あるサイトで“教団X”のレビューを見てみると「番組で紹介されていたので読んだが全く面白くなかった」と言う酷評の嵐が吹き荒れていた。

 

 それに対して僕は、強烈な怒りを覚えた。

 

「余多ある本の中から、どう言う理由があれ“教団X”を手に取ったのは自分やないかい!そんなもんは自己責任で、それを面白くないの一言で片付けるとは、どう言う事なのか!」

 

 そんな感情が突発的に沸き上がり、後味が悪くて仕方がなかった。

 

 一度、失敗したり、人の過度の期待に答える事ができなかったりすると、全否定されるのが今の世の中の流れらしい。

 

 この国は、あらゆる面で余裕を失ってしまっている。

 

 今年も、お盆休みに嫁さんと実家に帰る列車の中で中村文則氏の新刊を読んだ。

 

 “私の消滅”

 

 中村文則氏が、“教団X”の中で試みていた事が、“私の消滅”では見事に結実していた。

 

 僕の心は強く揺り動かされたし、中村文則氏が“教団X”の流れを、ぶれる事なく“私の消滅”に繋げて、昇華させている事が嬉しかった。

 

 “私の消滅”は、発売されてすぐにある文学賞を受賞した。

 

 あらゆる挑戦を続け、何処かのタイミングでそれを必ず結実させる中村文則氏の姿勢を、僕は支持する。

 

 これから先も夏が来る度に、僕は中村文則作品を読み続けてゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

  

 

キン肉マン

  

 うだる様な暑さの中、保護具を着けて作業している所為か、時間に常に追われているためか原因はよくわからないけれど、ここ最近、ずっと頭が潤けている様な気がする。

 

 仕事の事も、家庭の事も考えねばならない事案は、僕の脳髄の容量から溢れ出る程、あると言うのに、意識はずっと漫然としている。

 

 この秋に、長野で家族だけの結婚式を挙げる事になっていて、その後、すぐにマイホームを購入する予定である。

 

 式の準備と物件探しで休日の時間と、僕の身心が削られてゆく。

 

 その過程で、様々な人と交渉したり、雑多な情報やデータを収集せねばならず、余りの重圧と億劫さから全てを突然、放棄してやろうかと言う気さえしてくる。

 

 数年前まで自分の未来を考える事は、濁り切った河川の底を覗く様な物だった。

 

 今でも、決して澄んではいないんだろうけど、自分の全てを使って、その濁りを何とか濾過してゆかねばと言う気概はある。

 

 どれだけ追い詰められようが、疲弊しようがここで全てを投げ出すわけにはいかないのだ。

 

 会社で仲良くして貰っている人達や、職業訓練学校時代の友人達、大学時代の友人達も、自分の家庭を持っている。

 

 家族を守るために、疲れ切る事もあるだろうに皆、そんな事は一切、表に出さずに日々を送っている。

 

 だから一緒に酒を飲んでいると、ふとした瞬間に“この人も強いんだなぁ”と思う事が多々ある。

 

 先日、深夜にテレビ画面を眺めていると、不意に僕が好きな芸人さんが出てきた。

 

 その時も僕は疲れていて、干上がった意識の中でただ視線を画面の方に向けていた。

 

 経緯はよくわからないのだが、その芸人さんが恋愛に否定的な男達に向けて吠えている。

 

「それはオッパイに興味がないんやない!オッパイを揉むための戦いから逃げてるだけやんけ!」

 

 余りの馬鹿馬鹿しさと、確かな熱量に押されて僕は爆笑し、一瞬にして画面に釘付けとなった。

 

 半分、寝かかっていた嫁さんも笑いながら「何、言ってんの?」と呟いて、上半身を起こした。

 

 深夜に疲弊した人間を、一瞬にして自分の方に向かせるその馬力と熱意が、何だか格好良かった。

 

「サボテンでさえ人を好きになんねんぞ!」

 

「それは、オッパイ揉めへん事を社会のせいにしてるだけやんけ!」

 

「負けるとわかってても、その戦いに参加せなあかん時があんで!」

 

 笑いながらも、魂の込もった叫びが酷く心地良かった。

 

“どんな強敵にも、逃げずに戦う”

 

 幼少の時に見ていた僕の“ヒーロー”も、ずっとその姿勢を貫いていた。

 

 番組が終わったのでテレビを消して、寝る前に少しだけ今日、買った本に目を通す。

 

ダ・ヴィンチ 中村文則大特集”

 

“謀略の太平洋戦争 ~長期戦に引きずり込まれ、残忍な悪役にされた日本~”

 

キン肉マン大解剖”

 

 会社の帰りに京橋で、今日はこの三冊の本を買った。

 

 どれを読もうかと逡巡していると、それを見ていた嫁さんが「あんたの趣味がようわからへんわ」と言った。

 

 確かに嫁さんの言う通り、僕が買ってきた本には全く統一性がない。

 

 先程の芸人さんの雄叫びが、気分を高揚させた所為か、僕のヒーローである“キン肉マン大解剖”を選んだ。

 

 超人オリンピック編、七人の悪魔超人編、黄金のマスク編、夢の超人タッグ編…

 

 小学生の頃、胸を熱くさせたキン肉マンと正義超人達の戦いを振り返る企画。

 

 そして中盤に、当時の少年ジャンプに掲載されたカラー原稿のまま“タイムリミット30分の巻”が丸々、収録されていた。

 

 幾多の戦いの中から、この“タイムリミット30分の巻”をチョイスする所が堪らなかった。

 

 ウォーズマンの必殺技、パロスペシャルでキン肉マンは絶体絶命のピンチに追い込まれてゆく。

 

 しかし火事場のクソ力で何とかそれを破ったキン肉マンが、最後のニページで必殺技キン肉バスターを繰り出しウォーズマンを倒す。

 

 このテンポの良さと迫力は、三十年近くを経た今でも全く色褪せる事はない。

 

 当時、小学生の低学年だった僕が通っていたスイミングスクールから家に帰ってくると、幼稚園児の弟が母に抱きついて泣いていた。

 

「どうしたん?」と聞くと、弟が泣きながら「ウォーズマンラーメンマンの頭をベアクローで刺した」と言った。

 

 弟はウォーズマンスクリュードライバーラーメンマンの側頭部を抉る場面を、テレビで見てしまいショックを受けて泣いているらしかった。

 

「ほんまに残酷なマンガやで」と母が吐き捨てる横で僕は、次にウォーズマンと戦う事になったキン肉マンの身を案じたものだ。

 

 急に懐かしくなり、小学生の頃に祖母に全巻買って貰ったキン肉マンを本棚から引っ張り出す。

 

 もうぼろぼろになったキン肉マンの横にまだ真新しいキン肉マンが置かれているのに気がつく。

 

 キン肉マンは僕が小学生の頃に一度、三十六巻で終わっている。

 

 しかし五年前に復活し、なんと二十数年ぶりに三十七巻が発売されたのだった。

 

 僕はそれを買ったのだが、直ぐに読む気にはなれず本棚に置き、そのまま読まずに忘れてしまっていた。

 

 ちょっと読んでみようかとキン肉マンの新編に手を伸ばす。

 

 表紙裏に書かれた作者、ゆでたまご先生からのメッセージにいきなり心を打たれた。

 

“あの男が活躍した79年~87年、日本は本当に元気でした。少年達もあの男を見て笑い、あの男を見て泣き、本当にパワーに満ち溢れていました。翻って現代、日本はすっかり元気がなくなりました。あの頃の少年達は大人になり、実社会の中で少し疲れ気味です。あの頃の少年達、そしてその子供達に元気を出して欲しい。そのためには、アホでドジだが友情に厚いあの男の再登場しかない!”

 

 確かに衰退国となったこの国の社会で、何とか足掻いているキン肉マン直撃世代の僕達は、疲れているのかもしれない。

 

 その僕達を元気づけるためにキン肉マンが復活してくれると言うのか。

 

 そこから僕は、キン肉マンの新編を貪る様に読み始めた。

 

 正義超人、悪魔超人、完璧超人が平和協定を結んだ直後に宇宙から来襲してくる真・完璧超人軍。

 

 襲って来る真・完璧超人軍に真っ先に向かってゆくジェロニモスペシャルマンカナディアンマン、何故か同じ場所にいるテリーマンは傍観しているだけ。

 

 案の定、一瞬にしてボコボコにされるジェロニモスペシャルマンカナディアンマン

 

 正義超人一のナイスガイ、テリーマンは叫んでいるだけで助けに行く気配すらない。

 

 何もかも、あの頃のままだ。

 

 懐かしさが、込み上げる。

 

 ここでキン肉マン率いる正義超人軍団が現れ、真・完璧超人軍との対抗戦に突入するのがいつものパターンだ。

 

 しかしなんと真・完璧超人軍を倒そうと現れたのはバッファローマン率いる七人の悪魔超人達だった。

 

 このまさかの展開にいきなり僕は、心を鷲掴みにされてしまった。

 

 今までの二十数年のフリを、見事に裏切るこの展開。

 

 何しろ、ステカセキングやミスターカーメン達が、悪魔超人特有の“ケケケケケ”や“カカカカカ”と言った奇怪な笑い声を上げながら、真・完璧超人軍と熱い戦いを繰り広げるのだ。

 

 純粋に面白くて仕方がない。

 

 相変わらず、あれ?こいつ前、死んだんちゃうんかい!と思う所や、バッファローマンよ、お前は正義超人に付いたり、悪魔超人に付いたり、信念ないんかい!とツッコミ所は満載だ。

 

 矛盾だらけで伏線が一つもないとよく揶揄されるキン肉マンだが、作者のゆでたまご先生は雑誌のインタビューで「面白ければ何でも良いんです」と大らかに答えている。

 

 それ所か「今の漫画家は、細かい伏線に縛られてかわいそうだ」とも語っている。

 

 僕達の世代のフェイバリット漫画は、小さく纏まる事を良しとせず、熱量や大らかさが如何に人生を充実させるかを教えてくれる。

 

 僕も疲労が濃いとばかりは、言っていられない。

 

 火事場のクソ力で、この秋に控えている様々な戦いを乗り切ってゆこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広島 2

 

 何故、僕が急に“広島に行こう!”と思い立ったのかと言うと、それには嫁さんとその御両親が深く関わっている。

  

 お義父さんの趣味は、世界遺産巡りだ。

 

 これは歴史に少なからず興味を持つ、僕にとっては、とてもそそられる趣味だった。

 

 これが芸術観賞とかだったら、誘われても理由をつけては断っていたと思う。

 

 アートと言う物に、僕は酷く疎く、高尚過ぎて退屈なイメージしか抱けなかったりする。

 

 話題になっているアートアクアリウムも、嫁さんと足を運んではみたものの、“幻想的な金魚の群れ”とやらにすぐに飽きてしまい「よくこれが金になると思ったなぁ」と口走って、嫁さんに睨まれたりした。

 

 とにかく僕は嫁さんと結婚してすぐに、お義父さんの世界遺産巡りに同行する事となった。

 

 嫁さんのお兄さんは、“世界遺産巡り”に興味がないらしく、お義父さんの趣味に全く興味を示さないらしい。

 

 そのため僕が同行する事を、お義父さんはとても喜んでくれていた。

 

 数ヵ月前、姫路城に行った後、恒例となったご当地の名産で一杯やっている時に「次は何処へ行こうか?」と言う話になった。

 

 ちなみに姫路城は人で、ごった返していて、城に入るまでに二時間近く並んだ。

 

 酷く疲れてしまったけれど、職業訓練学校時代の知り合いが、姫路城の補修工事に関わっていて、その時に3DCADを見せてもらった事があったので、それを実際に見れて僕はとても満足していた。

 

 駅前の居酒屋で姫路名物のおでんをアテに酒を飲み、僕は良い気分になっていた。

 

「次は広島に厳島神社でも見に行こうか?」とお義父さんが言った時に、いつもの様にビールを飲んでいた嫁さんが急に反応した。

 

「広島に行くんやったら、原爆ドームも行かなあかん!日本人としてちゃんと見とかなあかんで!」

 

 何処でスイッチが入ったのかよくわからなかったが、嫁さんは急にこの酒席には合っていない熱量でそう主張した。

 

 「じゃあ、そうしようか」とお義父さんもすぐに納得し、その場で広島旅行が決まった。

 

 お義父さんには、この時に“モン・サン=ミシェル”にも誘われたのだが、流石にこれはお断りさせてもらった。

 

 フランスに僕を誘う時も、広島に僕を誘う時もお義父さんの態度に全く変わりはない。

 

 この辺が海外に慣れている人の感心させられる所で、僕みたいに国外に出た事がない人間にしてみたら外国に誘われただけであたふたしてしまう。

 

 何しろ去年、社員旅行で北海道に行った時も旅行前の数日は、期待と不安が入り混じり、僕の心はふわふわと浮遊を繰り返す始末だった。

 

 しかし海外旅行とは、また質の違う動揺がこの広島旅行決定時に僕の内面に広がっていた。

 

 僕は高校の修学旅行で一度だけ“原爆ドーム”を訪れた事がある。

 

 僕は当時、田舎の余りガラが良いとは言えない高校に通っていた。

 

 理由は良く覚えていないのだが、何故か野球部だけ旅行中、別行動をさせられて、顧問の教師が僕達にぴたりと寄り添い、監視の目を光らせていた。

 

 そんな中でも教師の目を盗み、今、考えたら言うのも憚られる様な小さな悪さをし、皆でけたけたと笑っていた。

 

 しかし原爆ドームを訪れた時にその雰囲気が、一変する。

 

 広島平和記念公園内にある平和記念資料館を見学し、被爆者の方のお話を聞いて僕達はショックを受けて沈黙した。

 

 悪さはしても所詮、田舎の何も知らない青臭い高校生で、初めて目にした原子爆弾被害の余りの凄惨さと生々しさに僕達は驚愕し、恐怖した。

 

 特に僕は、平和記念資料館に展示されている熱線の影響で、焼け爛れた皮膚が腕から垂れ下がってしまった様子を再現した蝋人形の残酷さに心を折られてしまった。

 

 そこで思考停止に陥ってしまい、後は何も見ない様に心掛け、足早に資料館の外に出た。

 

 この光景がトラウマとなったのか、長野に帰って暫くの間、赤い照明に浮かび上がる蝋人形の姿が、僕の夢に出てきたり、ふとした瞬間に脳内を横切ったりした。

 

 この蝋人形は、残酷過ぎると言う理由で平和記念資料館から何度も撤去されそうになっている。

 

 しかしその度に、被害の実相を伝えるのに必要だと言う人達もいて、議論がなされている。

 

 あの修学旅行で原爆ドームを訪れてから、もう何十年と言う時間が流れた。

 

 僕も、もういいオッサンである。

 

 近い将来、父親と言う立場にもなろうとしている。

 

 自分の子供に、この国でかつて何があったのか正確に語り継いでゆく、義務と責任があると思う。

 

 そのため気が重くなろうが、どうだろうが大人として確りと“原子爆弾投下”と言う史実と向き合わねばならない。

 

 広島駅で僕と嫁さんは、愛知からやってきた嫁さんの御両親と合流した。

 

 まだ午前中と言う事もあり陽射しはそれ程、強くはない。

 

 僕達はすぐに路面電車に乗り、平和記念公園に向かった。

 

 路面電車から、広島市内を寸断する幾筋もの河川が見える。

 

 原爆投下から数日、熱傷の苦しみから逃れようとした人や水を求めた人達が、この河川に殺到し、水面には数え切れない遺体が浮いていたと言う。

 

 京橋川を渡って暫く行くと、原爆ドームまであと約一キロの距離となる。

 

 爆心地から一キロ圏内では十人中、八人が原爆投下当日に死亡したとされている。

 

 しかし当然ながら、現在の原爆ドーム周辺にそんな雰囲気は微塵もない。

 

 街は活気づいていて、観光都市らしく、配置良く建物が立ち並ぶ。

 

 その時に僕は、アメリカ人の友人達と話している時と同じ感情をまた抱いた。

 

 それは、本当にこの街の上空で核爆発があったのだろうか?

 

 と言う自分の知る史実と今、目にしている現実が余りにも解離していて、とても繋げて考える事ができないと言うものだ。

 

 僕達は路面電車を下り、平和記念公園の敷地内を進んだ。

 

 外国人観光客の姿が多い。

 

 比較的、アジア系の方は少なく、ヨーロッパかアメリカから来たと思われる白人の方が多く歩いていた。

 

 すぐに“原爆ドーム”が見えてきた。

 

 鉄柵で囲まれた“原爆ドーム”は、損傷が激しく、あの夏から酷く時間が経った今では、それが“原爆”によるものなのか、老朽化によるものなのか判別をつけるのは難しかった。

 

 “原爆ドーム”には、古代遺跡の様な神々しさが漂っていて、そこにいた誰もが沈黙し、ただただ遠巻きにその偉容を仰ぎ見ていた。

 

 周辺の小さな森は、なかなか他の場では味わう事ができない静寂に包まれていた。

 

 “原爆ドーム”は世界遺産の中でも、人類の“負の遺産“とされている。

 

 それを様々な国籍の人達が、同時刻に見上げて、この小さな森の静寂を共有する。

 

 それは何か普段、余り考える事ができない、平和の尊さを身に染み込ます様な時間だった。

 

 嫁さんは、感情が昂ったのか静かに涙を流していた。

 

 僕達は、丁寧に平和記念公園内を見学し、最後に“平和記念資料館”を訪れた。

 

 資料館に入ってすぐに僕が、高校生の頃に見て思考停止に陥ってしまった蝋人形が展示されていた。

 

 やはり近いうちに、この人形が撤去されると書かれている。

 

 この事について議論した嫁さんや、会社の同僚は撤去する事に反対の様だった。

 

 しかし十代の頃、蝋人形に強い衝撃を受け、その後、様々な展示物を冷静に見られなくなってしまった僕は、撤去もやむ無しではないかと思う。

 

 広島の各所で撮られた何枚もの、立ち上るきのこ雲の写真。

 

 有名な原爆投下、三時間後に御幸橋で撮影された写真。

 

 その中央では、酷く火傷を負った少女が黒炭の様になってしまった幼児を、茫然と抱きしめている。

 

 爆心地直下で一瞬にして、消滅してしまった人の石段に残された影。

 

 そして原爆で犠牲になった方々の膨大な遺品。

 

 焼けてしまった小さな靴の下、プレートに刻まれた以下の説明文を読む。

 

《県立広島第一中学校1年生の一彦さん(当時12歳)は、建物疎開作業の待機中に校舎内で被爆した。自宅で被爆した母親の綾子さん(当時37歳)は、外にいたため無事だったので、ひとりで一彦さんを懸命に捜し歩いた。8日朝にようやく中学校のプールのそばで、顔に大火傷を負って息絶えていた我が子を発見した。綾子さんは、あたりに散らばった木片を集め、たった一人で息子を火葬した。数日後、妹の扶美子さん(当時10歳)を、火葬した場所に連れていった時に、扶美子さんが偶然この靴を瓦礫の中から、「佐々木」の名前で確認して見つけた。底に穴が空いた靴を、一彦さんは自分で厚紙を入れて、履きつづけていた》

 

 我が子の遺体を発見し、自ら一人で火葬せねばならない母親の心中…

 

 それが自分の嫁さんだとしたら…

 

 もう耐久範囲を、とっくに超えてしまった所為か、僕の意識は酷く虚ろになり、思考が暈けて纏まりを失ってゆく。

 

 冷静になろうと回りを見渡すと、日本人も外国人も皆、沈痛な表情をしながら、スマホで展示物を熱心に撮影している。

 

 その行為を目にした時、この時代の何か重要な部分が歪んでしまっているのではないかと急に背筋が寒くなった。

 

 広島平和資料館には、何度かの改装により、生々しく凄惨な被害を伝えるゾーンの要所に、冷静で科学的にあの日、広島で何が起こっていたのかを検証しているゾーンが設けられている。

 

 そこで僕は自分が如何に放射能と言う物を、誤解していたのか知る事ができた。

 

 生死の境界線が曖昧になりながら、何とか感情の浮沈に振り回されず、全てを丹念に見学して僕達は資料館の外に出た。

 

 入館してから、すぐに時間感覚が消失してしまい外に出た時には、もう正午を回っていた。

 

 そこには、静かな広島平和記念公園の景色があった。

 

 緑が見え、広島の街並みがあり、その上に蒼さを増した初夏の空が広がる。

 

 この時程、平和の尊さに感謝した事はない。

 

 米国のケリー国務長官は、「全ての人がここを訪れるべきだ」と語っている。

 

 自分の子供が、日本の歴史を正確に理解できる年頃になった時に再び、僕はここを訪れようと思う。

 

 それから僕達は、船で宮島に移動した。

 

 厳島神社では、古来より続く、日本の景観の美しさを体現した。

 

 そこで宮島名物の穴子を食べながら、酒を飲んだ。

 

「やっぱり何でも、自分の目で見ないとダメだ」とお義父さんが、いつも言う感想を口にした。

 

 世間知らずの僕に様々な物を、見て考える機会を与えてくれているお義父さんには、また尊敬の念が沸いた。

 

「次は長崎の軍艦島に行きませんか?」と誘ってみたが、「行かない。あっこは、興味ない」とあっさりと断られてしまった

 

 お義父さんのツボを僕は、全く理解できていないらしい。

 

 平和である事の尊さを感じながら、広島で飲んだ酒は酷く旨かった。

 

 

 

  

 

 

 

  

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

広島 1

 
 新幹線の窓越しに見える空の色が濃い。
 
 まだ午前中のためかそれ程、外気は熱を帯びていない様だった。
 
 僕が向かっている広島市内も、今日は涼しいのだろうか。
 
 あの日の広島は、湿度の高い蒸し暑い日だったらしい。
 
 七十一年前の八月六日、広島市内は僅か一キログラムのウラニウムが引き起こした核分裂によって消失した。
 
 僕が後方に飛散してゆく景色を目で追っている今頃、当時の広島市内では核爆発によって生じた衝撃波と爆風が、何もかもを破壊し尽くしていたのだ。
 
 この国で生を受けた以上、一度は真剣に向き合わねばならないのが原爆投下と言う、胸を抉られる様な史実だと思う。
 
 一度、ここらで確りと考えねば。
 
 そう腹を決めて、新幹線で広島に向かってはいるものの、幾度も気が重くなり、それを粉らわすために、持ってきた本に手を伸ばす。
 
 しかし手元にあったのは、中村文則氏の新刊で、これはまた違った意味で重かった。
 
 こんな気分になるのなら、オードリー若林氏の“社会人大学人見知り学部”を持ってくるべきだった。
 
 若林氏の不器用ながらも、決して格好つけたり、背伸びしたりしない、あの等身大でぶつかってくる潔い文章が今、無性に読みたかった。
 
 何かしらで気を散らしたい気分だったが、ここまで来て何を避けているんだろうと思い直す。
 
 すぐにケータイを弄り、数ヵ月前に広島を訪問したオバマ米大統領の演説に目を通してみる事にした。
 
 何度かそれを読んでみたが、世界で最も影響力のある人物が、公の場で本音を語るわけもないし、自分の言葉を紡ぐ筈もない。
 
 そこから何かしらを、感じ取ると言うのはなかなか難しかった。
 
 かと言ってその裏に隠された物を、読み取れる程の知識も度量も僕は持ち合わせていない。
 
 ただ一つだけ思ったのは、戦争相手が最早、国家ですらなくなったアメリカ合衆国は、もうこれ以上、たった一人の人間をも、敵に回すわけにはいかなくなっていると言う事だけだ。
 
 数年前の僕なら、この演説に対して「何を他人事みたいに言うとんねん!」と無駄に血を沸騰させていたに違いなかった。
 
 長年、僕にとってのアメリカ人と言うのは、日本を手玉にとったルーズベルトであり、WBCの時に、西岡のタッチアップが早いと難癖をつけてまでアウトにしたあの醜い審判だった。
 
 奴等は国益や利害のためなら、どんな手でも使ってくる。
 
 己の価値観を絶対的正義だと決めつけ、潤沢な国力と圧力によって、他国にも自分達のナショナリズムを強引に押し付ける。
 
 それが全米国人の国民性だと本気で思っていた。
 
 今時、この国では少数しかいないであろう完全なる反米主義。
 
 アメリカに対し、そんな偏ったスタンスを僕はずっととり続けてきた。
 
 しかしそんな僕の強固な偏見が、解ける日がやってきた。
 
 就職して半年ほど経った頃、僕は数人のアメリカ人と一緒に仕事をする事になったのだ。
 
 しかも数日で終わる様な仕事ではなく、数ヵ月間、同じチームで協力して仕事を進めていかなくてはならない。
 
 国籍で人を判断し、ろくに話した事もない癖に敵愾心を抱く。
 
 冷静に考えてみると、僕は僕でやはり視野の狭い、何もわかっていない奴だった。
 
 何十年も、そんな偏った思想を抱いていたのにアメリカ人と一緒に働き始めて一ヶ月も経たない内に僕は彼らと打ち解けていた。
 
 それは彼らが、協調性に溢れたとてもいいヤツだったからだ。
 
 僕の英語力は惨憺たるものだったが、若い通訳の子が常についてくれていたし、同僚にハーフの子もいて、その子が間に入ってくれたお陰で何の問題もなくコミュニケーションをとる事ができた。
 
 打ち解けてくると僕が適当に話しても、彼らは僕の言ってる事を理解してくれたし、逆に僕も通訳を挟まなくても、彼らの言っている事が何となくわかる様になった。
 
 一緒に汗水流して、同じ仕事をすると言うのは人と人との距離を急激に縮める。
 
 最も、彼らは僕なんかよりよっぽどテキパキと仕事をこなしていたし、とても熱心に働いていた。
 
 ある朝、親しくなった二人のアメリカ人がニヤニヤしながら僕に近寄ってきた。
 
 「何?」と僕が言うと「ユーは有名なコメディアンだったらしいな」と言って二人は爆笑した。
 
 会社の誰かが、僕の職歴を二人に話したらしい。
 
 “ジャパニーズフェイマスコメディアン”と言う単語が聞き取れたので、すぐに意味は理解できた。
 
「ノー!フェイマス!!」
 
 と僕が全力で否定すると彼らは、またオーバーに笑い出した。
 
 “おちょくってんのか!”と腹も立ちそうなものなのだが、彼らの陽気さと底抜けの明るさには、そんな小っぽけな感情を霧散させるパワーがあった。
 
 一緒に飲みに行った時は、テキーラで喉から胃袋を焼かれて悶え苦しむ僕を尻目に、彼らはお店のお姉さんに声を掛けていた。
 
 会社関係の宴会で何とか盛り上げねばと僕が空回りした時には、誰かが仕込んだのか彼らが「スベッテルヨ!」と声を張り上てくれた。
 
 すると場は爆笑に包まれ、一気に空気が変わる。
 
 これは何度、どこで試みても鉄板で味をしめた僕達は事ある毎に、この絡みを投下した。
 
 彼らは、よっぽどこの絡みが気に入ったのか、最後の方は僕が何か言う度に「スベッテルヨ!」と連呼する様になった。
 
 多少、面倒くさくも感じたが、凄く楽しくもあった。
  
 仕事中に彼らの姿を見ていると、僕の祖父の世代は「本当にこの人達と憎しみあったのだろうか?」と言う不思議な思いが沸く事があった。
 
 もっと言うとガダルカナルペリリュー島、硫黄島で双方、甚大な死者を出す凄惨な殺し合いをしたのかと。
 
 そして本当に彼らの母国は、軍事施設でもない市街地に原子爆弾を投下すると言う、許される事のない愚行を犯したのだろうか。
 
 もちろんそれらは全て事実だ。
 
 しかしそんな真実を曖昧にしてしまう程、生身で触れ合った彼らは当然ながら一人の人間だった。
 
 僕は、そんな当たり前の事にすら気づけない狭い世界で生きてきた。
 
 しかも七十年前ではなく、この国や地域の距離が緩く密接になった現代でだ。
 
 お笑い芸人と言う職業を、あきらめて暫くは僕は自分が思っていた以上の喪失感を味わう事となった。
 
 その思念は強烈で、無意識の内に僕の何かを蝕んでゆき、以前より無気力になったり、ガッツが失われた様な気がした事があった。
 
 しかし就職して、なかなかできない様な経験を積ませてもらったお陰で偏見は払拭され、いつの間にか喪失感も振り払われていた。
 
 あと三十分程で新幹線は、広島に着く。
 
 僕は、喫煙室で煙草を吸いながらLAに帰った彼らの事を思い出していた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

浅草キッド2

 
 ライブが始まった瞬間、僕は自分が酷く緊張している事に気がついた。
 
 思考なのか、感情なのかよくわからないがとにかく自分の中の何かが浮わついている。
 
 それはライブが始まったからではなく、夕刻に会社のゲートをくぐった瞬間くらいからずっと続いていた様な気がする。
 
 自分のこの感情が、よくわからなかったし言葉で巧く伝えられない気分と言うのがあるのだと言う事を久しぶりに実感した。
 
 この薄暗く狭い劇場の中に、自分が深く関わってきた人達が余りに多くいる。
 
 隣に嫁さんが座っていて、後方には相方や後輩の奥さんがいて、回りに僕が芸人だった頃を知っている人達がいる。
 
 そしてこれから舞台には、何年も一緒に戦っていた後輩達が出てくる。
 
 この状況を、どの様に捉えればいいのだろうか。
 
 急に過去と言う胡乱なモノに、自分の何かを鷲掴みにされた様な気がした。
 
 舞台の上で後輩達のネタが始まった。
 
 あぁ… やっぱり凄いわ…
 
 一瞬にして僕は呆け、口を半開きにして只、舞台の上を凝視した。
 
 気がつけば、客席の誰もが笑っている。
 
 勿論、僕も声を上げて笑っていた。
 
 知らず知らず自分の本音を、頭蓋骨の外に放り出し、これは金を稼ぐためなんだと自らに言い聞かせ毎日をやり過ごす。
 
 そんな時間の中で生きているうちに、最近の僕は自分の感情ですら、もうよくわからなくなってきている。
 
 しかし後輩達がやっているネタを見ていると脳が瞬時に揺すられ、無意識のうちに自分は声を上げて笑う。
 
 本音も建前もない。
 
 真実の感情が何も気にする事なく、発露する。
 
 お笑いをライブで観ると言うのは、こう言う感覚だったのかと今更、理解できた様な気がした。
 
 後輩達のセンスと練度の高さに驚き、ちゃんとした芸と言うのは人の心を強く動かすのだと言う事を再認識させられた。
 
 ライブの合間に流れてくる音楽は、僕が彼らと一緒に舞台に上がっていた時に使われていた物だった。
 
 それがまた、僕の意識を過去へと誘う。
 
 過去、このライブを観に来てくれていた人達は皆、今の彼らの芸に心を奪われ、同時に数年前を懐かしんだ筈だ。
 
 それは中々、金銭に繋がらずともあきらめる事なく、自分達の道筋を信じて日々、芸を高めている彼らだからこそ出来る事だと思う。
 
 ライブは、あっと言う間に終局近くまで進んでいた。
 
 こんなに様々な感情が凝縮された時間を味わったのは、久しぶりの事だ。
 
 ライブの最終、“浅草キッド”が流れる中、客席に向かって頭を下げる後輩達を見て不覚にも涙腺が弛んでしまった。
 
 それから僕は暫く放心し、劇場を出て、嫁さんと心斎橋の街を歩いた。
 
 嫁さんが何事か僕に話掛けてきたが、全く上の空で受け答えすらおぼつかない。
 
 そんな状態に陥った僕の扱いに、嫁さんは慣れたもので「先に帰ってるから相方さんと飲みに行っておいで」と言ってくれた。
 
 劇場の前まで戻ると相方がいたので、そのまま昔、僕がよく通っていた焼き鳥屋に飲みに行った。
 
 狭い店内のカウンター席に二人で座る。
 
 もう十年以上前、ここでバイトしていた子の事を好きになった事を思い出した。
 
 少しでも好きになったら、僕は必ず告白する事に決めている。
 
 それは「告白もできない奴は男にあらず!」と口癖の様に言っていた母の影響が強い。
 
 ここの子には見事にフラれた。
 
「一人にフラれるのも二人にフラれるのも同じじゃい!」とわけのわからない高揚感に襲われた僕は数日後、この焼き鳥屋の近くの美容院の気になっていた子にも告白したりした。
 
 焼き鳥屋の子も、美容士の子もよく僕達のライブに来てくれた。
 
 今日、観に行ったあのライブだ。
 
 美味い焼き鳥をアテに酒を飲み、相方と今日のライブの話をした。
 
「やっぱりあいつら凄いな」と二人で何度も口にした。
 
 相方とこうやって、差しで酒を飲み、あのライブの話をする。
 
 とても幸せな時間だった。
 
 ほんの数年間であったが、二人で同じ夢を追って、同じ苦境や僅かな喜びを味わったのだ。
 
 相方には、幸せになって欲しいと心から思っていた。
 
 後輩達のライブの話が一段落着き、話題は相方の今後の事に移っていった。
 
 僕は相方は、お笑いに関する仕事に就いた方がいいんじゃないかと思っている。
 
 相方の性格を考えると、あまり企業への就職は向いていないだろうと思うからだ。
 
 それを相方に話してみたのだが、どうも判然としない
 
 久しぶりにコンビを組んでいた頃を思い出した。
 
 僕と相方は人生観が大きく異なる為、話がなかなか巧く噛み合わなかったりするのだ。
 
 相方は「お笑いの作家になるんやったら、もうそう言う話が来ている筈だ。そう言う話が来ないと言う事は、自分は作家になるべきではないんだ」と言う。
 
 これが昔から変わらない相方の生き方であった。
 
 僕は、待っていてチャンスが来た経験がないので何か事を成す時は、多少、強引でも何とか自分でアピールし、己で掴み取ってゆくしかないと思っている。
 
 どちらが良いとか悪いとかではなく、生き方が大きく違うだけなのだと思う。
 
 そのため昔から、僕と相方の議論は何処にも辿り着かず、お互い歩みよらずでよくわからない方向を漂い始める。
 
 僕も相方も、もう若くなく、今まで自分なりのやり方で生きてきたのだから今更、なかなか方向転換はできない。
 
 相方が何か話がくるのを待つと言うなら、もうとことんまで待ち続けるしかないのではないかと思った。
 
 ただ話していて、彼が本音を語っているのかどうかわからなくなる時が度々あった。
 
 これは真なのか虚なのか。
 
 どうも判別がつかず、相方が何故、僕と話す時にまで、そんな事を言う必要があるのか全く理解できなかった。
 
 これも昔からの事である。
 
 本心や嘘なく真実だけを、等身大で伝えないと結局、人には何も伝わらないんじゃないだろうか。
 
 それとも繊細な彼の本心を僕が、巧く捉え切れていないだけなのだろうか。
 
 嫁さんが「あなたは優しいのかもしれないけど、人の気持ちがわかる人じゃない」と何かある度に言う。
 
 やっぱり僕の方にも、至らない所があるのだ。
 
 そんなすれ違いも含めて、久しぶりに相方と差しで飲んだ事はとても楽しかった。
 
 二人で話していると今日、ライブに出演した後輩から電話が、かかってきて「打ち上げにきませんか?」と僕達を誘ってくれた。
 
 僕達は、せっかくだからと後輩達が打ち上げをしている会場に向かった。
 
 ライブの後、疲れているだろうに僕達に気を使ってくれるその心使いが嬉しかった。
 
 会場の居酒屋に行くと、後輩達が飲んでいた。
 
 今日、ライブをやった後輩達は酒を飲めない人も多く、馬鹿騒ぎする事なく、しっとりと飲んでいた。
 
 それも昔からの事で、その空気感が酷く懐かしかった。
 
 会社の体育会系全快の飲み会も良いが、久しぶりに味わったこの雰囲気は、何か帰ってきた様な感覚があった。
 
 ただ静かに飲んでいると言っても、何か僕がしょうもない事を言うと皆、全力で反応してくれ面白くしてくれる。
 
 普段、「芸人してたんやから何か面白い話しろ!」と荒すぎるフリが、そこら中から飛んできて誰も援護してくれず、宴会中、何度も憤死している僕にとっては、心から安心できる飲み会であった。
 
 他愛もない話をし、ケタケタと笑っているとチケット売りの事が話題に上った。
 
 手売り分のチケットを一枚も売っていない後輩がいると言う話になったが、何かその事も有那無那に終わってしまった。
 
 その時に、この後輩達は同じ仕事をするチームとして機能しているのだろうか?と言う強い疑問が沸いた。
 
 だからと言って、チケットが売れなかった後輩を叱責しろとか吊し上げろとか言っているのではない。
 
 そんな事をしてもチームに亀裂が入るばかりだ。
 
 何故、その子がチケットを売る事ができなかったのか?
 
 何故、今日のライブは集客が悪かったのか?を掘り下げて考えて、皆で議論する必要があると思うのだ。
 
 内容が良かったからと集客面から目を反らすのはアマチュアの考え方である。
 
 彼らは、今日のライブで報酬を得ているわけで利益が出ない事を無視できない筈だ。
 
 これが企業であれば、優良な商品が作れるのに全く売れないとなれば何度でもミーティングは開かれるだろうし、商品が売れる様になるまで、皆、議論を尽くすだろう。
 
 ネタを考えたり、練習は目一杯するが、集客の事に疎く、何も策を打たない。
 
 確実に集客が見込めるライブに様々なチャンスが転がり始める事を彼らだってわかっている筈なのだ。
 
 決して口に出すまいと思っていたが、酒の勢いと彼らへの心配も相まって、思わずその辺りの事を口走ってしまった。
 
 勿論、微妙な空気が流れたが、毎度の事ながら僕はそんな事は気にならない。
 
 次回、それで今回より少しでも集客が良くなればそれでいいと思っている。
 
 終電の時間が迫っていたので店を出る事にした。
 
 帰り際、相方が打ち上げ代として、多額の現金を後輩に渡していた。
 
 それは誰が見ても、相方が無理をしているとわかる金額であった。
 
 幹事の後輩が戸惑っている。
 
 相方が現役の時なら、この行為は理解できる。
 
 芸人は借金してでも、後輩のために金を使わねばならないと思うし、僕も先輩達にそうしてもらってきた。
 
 しかし相方は、もう引退している。
 
 相方が後輩達に、そこまでしてあげたいと言う気持ちは痛い程、わかる。
 
 ただ後輩達は、そんな事を望んではいない。
 
 後輩達は皆、相方にもう引退したのだから自分の生活を考えて、等身大で自分達と向き合ってほしいと思っているのだ。
 
 シビアな話になるが、それでも多額の金を置いていきたいと思うなら、後輩達に気を使わせないくらい金を稼いでいなければならないと思う。
 
 相方が変わっていない事が何か嬉しくもあり、それでもやっぱり心配ではあった。
 
 そのまま終電に乗って、僕は帰った。
 
 様々な事があったが、やっぱり昔の仲間達と会えた今夜はとても充実していたし、楽しかったと思う。
 
 明日からまた僕は僕の戦いを全うしてゆかねばならない。
 
 そのためのパワーを、昔の仲間達から貰った。
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 

浅草キッド1


 今日は、自分にとって特別な物になる筈だった。

 仕事を終えて、足早に最寄り駅に向かうとまた雨が降り始めた。

 梅雨時期なのだから仕方がない。

 そうは思っても、普段と違う日だと位置付けた今日くらいは気持ち良く晴れて欲しかった。

 なかなか何でも、思い通りにはいかないものだ。

 思えば今日は、仕事も有休をとらせてもらうつもりでいた。

 しかしそれも叶わなかった。

 この一年間、断続的にやらせてもらってきた仕事が今、最終局面を迎えていて、そんな時に「用事があるから休ませてもらいます」なんて事は通用しない。

 仕事終わりの疲弊した心身を、引き摺る様にしてミナミの街に向かう。

 ミナミに行くには、天王寺駅で乗り換えをしなくてはならない。

 僕の生活圏内からはキタの街に行くよりも、よっぽど手間と時間がかかる。

 もちろん明日も仕事はあり、余程の事がない限り、平日にミナミの街に向かう事等ない。

 これから僕は、ミナミにお笑いのライブを観に行こうとしていた。

 このライブは、僕がまだ二十代の頃に仲間達と始めた物で、それから十五年以上経った今も、様々な人達に引き継がれて続いている。

 長く続いている事が、良い事なのかどうかは僕には判断がつかないし、自分はもうその場から離れていったのだから何かを言える立場ではない。

 ただ今日のライブに出演する人達とは一時期、とても濃密な時間を過ごした。

 そんな彼らのライブがある今日を、僕は特別なものと位置付けていた。

 しかしそんな僕の感情は今日のライブに出る後輩達には一切、何の関係もない。

 こっちが勝手に過去に囚われて、思い入れているだけの事だ。

 僕や様々な人の過剰な思いに縛られず、後輩達には自由に戦ってもらいたかった。
 
 どんなライブでも、若い世代が過去をぶち壊し、好き放題、暴れ回っているくらいの方が、よっぽど観ていて面白いし健全だと思う。

 心斎橋で嫁さんと合流し、今日のライブがある会場に向かった。

 嫁さんは、後輩達への差し入れを買って来てくれていた。

 何も言っていないのに、こう言う気配りをしてくれるので、嫁さんにはいつも助けられている。

 劇場の入り口に行くと、今日のライブのためにお客さんが出してくれた花が飾られていた。

 ずっと変わらず、このライブのお客さんは暖かいなとも思ったし、そんなに思い入れがあるのかと驚きもした。

 劇場の入り口で開場を待っていると、誰かに声を掛けられた。

 振り返ると僕がまだコンビを組んでいた時代の相方が立っていた。

 相方の横には、今日の出演者である後輩の奥さんもいた。

 二人に僕の嫁さんを紹介する。

 その時に不意にこの前、みんなで家に集まった時の会話が頭に過った。

 皆、相方の事を心配していた。

 相方が芸の世界から身を引いてから、もう一年が経とうとしている。

 その間、彼がこれからの身の振り方について、何らかの動きを起こしたと言う話は全く聞こえてこなかった。

 年齢が年齢である。

 彼はもう三十代後半に差し掛かっている筈だ。

 その年齢での停滞は、彼の人生にとって致命傷になりかねない。

 皆が心配するのも無理はない。

 もう一つ、僕や皆が心配したのは彼がこのライブに囚われ過ぎているのではないかと言う事だ。

 僕にも皆にも、そして彼にもこのライブがかなりのウエイトを占めていた時期が確かにあった。

 しかしそれから数年が経って皆、それなりに前進している。

 このライブがとても小さく、ここで学べる事や出会える人に限界がある事に皆、気づいている。

 以前居た場所から進み、自分の世界が拡大した時に初めて、元の地点の狭さと窮屈さを実感する。

 彼はちゃんとそれを実感できているのだろうか。

 あるいは彼にとっては、まだここが主戦場として存在しているのだろうか。

 そう思うと何か物悲しい気持ちになった。

 劇場の中に入ると、やけに空席が目立っていた。

 その事を、気にすまい気にすまいと思えば思う程、“集客”と言う俗物的な言葉が、僕の頭の中に何度も浮上してくる。

 別に満員にならなくてもいい。

 しかしもう少し客席を埋められたんじゃないかなとは思う。

 この客入りでは、次回はもうないかもしれない。

 昔みたいに自分達で会場を押さえて行うライブではないのだ。

 会社を通して行うライブで、客が入らないとなれば、それなりの判断を下されても文句は言えない。

 劇場の椅子に座りながら、そんな取り留めの無い事を考えていると、場内が暗転となり、ライブが始まった。




 
 

 
 

 

 


 

  

 
 



 
 


 

 


家長


 湿気が纏わりついてくる不快な季節である。
 
 仕事中、滴り落ち体表にこびりついてしまった汗を、一刻も早く洗い流そうと、部屋の扉を開くとリビングから微かにテレビの音が聞こえた。

 今日、嫁さんの仕事は休みだった様だ。

 直感的にまずい事になったと思った。

 嫁さんが休みだったとなると、何らかの連絡が僕の携帯にあった筈である。

 しかしあまり携帯を見る習慣のない僕は、その連絡をよく見忘れてしまう。

 会社の人達と話をしていても、夫婦間の軋轢の上位には必ず、この連携ミスがランクインしてくる。

 帰り道、不意に飲みに行く事になっても皆、最も平穏に事が納まるタイミングを見計って、嫁さんに連絡を入れねばならない。

 この連絡を忘れでもしたら、家庭内に火種が燻り続けたりするのだ。

 何も気兼ねする事なく、何も気にせず飲みに出掛ける事ができた独身の頃が酷く恋しい。

 やべぇと思いつつ、玄関からリビングの扉までの僅かな距離で頭を回転させる。

 当然の事だが何も思いつかない。

 “知らんわ。貴様が俺みたいな男を旦那に選んだんやないかぇ”

 と急に帝国海軍将兵の様な思考が頭を掠める。

 開き直ってリビングの扉を開くと、嫁さんが何処かへ出掛ける準備をしていた。

「おぇ!休みかいな!」

 と理由のわからないテンションで僕は嫁さんに声を掛けた。

 嫁さんが冷ややかな視線を向けてくる。

「何で携帯、見いひんの?何回も言うてるやん」

「ごめん。暑さで頭がボーとしててん。熱中症になりかけやな。ダハハハ…」

 適当な事を言って、この場をいなす。

 こんな時に暗い空気を漂わせるのは御法度で、ましてや逆切れするなんてのは、論外である。

「もう!早く準備してよ!」

「え!?何処かへ行くの?」

 その言葉に釣られて、嫁さんが、これから何処へ行くのかを説明し始めた。

 僕は何とか素早く話題を変える事に成功した様だ。

 嫁さんの大学時代からの親友が、僕達の住んでいる団地の別棟に住んでいる。

 それもあって幾つかあった引っ越し先の候補の中から、この団地を選んだのだ。

 嫁さんの親友は月に何度かは、うちを訪れ僕達と一緒に食事をする事が習慣になっていた。

 神経質な嫁さんのストレスが、ピークに達し様とする時に、彼女が来てくれて巧く発散させてくれる。

 またうちを訪れる度に、料理が得意な親友のお母さんが必ず何かを僕達に差し入れてくれた。

 今年の正月には、重箱で御節料理までいただいた。

 そのお返しとして、僕達は実家に帰った時や旅行に行った時に、必ずお土産を親友の御家族に届ける様にしている。

 大学時代から知っている娘の親友が、結婚して同じ団地に引っ越してきた事を、彼女の御両親はとても喜んでくれている様だった。

 今夜は、急に親友の御家族が、嫁さんと僕を食事に招いてくれたらしい。

 僕は急いでシャワーを浴びて、嫁さんと親友の家に向かった。

 同じ団地内なので二分も掛からず親友の家に到着した。

 親友の御両親と僕が直接、会うのは今日が初めての事である。

 何故か僕は、とても緊張していた。

 嫁さんの御両親に緊張するのは当たり前である。

 しかし嫁さんの親友の御両親に会うのに緊張すると言うのは、よくわからなかった。

 御家族は僕達を暖かく部屋に迎え入れてくれ、結婚のお祝いまで頂いてしまった。

 僕は恐縮仕切りで、しかし嫁さんの親友の御両親とどんな話をすれば良いのか、全く掴めずにいた。

 皆でテーブルを囲み、軽く酒を飲みながら親友のお母さんが作ってくれた料理を食べる。

 料理はとても美味しく、終始、和やかな空気が流れていた。

 嫁さんと親友の大学時代の武勇伝が、主に話題となっていた。

 親友のお父さんは無口らしく、余り積極的に会話に参加する人ではなかった。

 嫁さんと親友とそのお母さんが、主に盛り上がり、僕と親友のお父さんとが端の方でぽつりぽつりとお互いの仕事の話等をしていた。

 しかし気を抜いていると、話題は嫁さんの親友の結婚話へと流れてゆく。

 嫁さんの親友はとても綺麗な人なのだが、まだ結婚されていない。

 三十代に突入し、まだ結婚する気配がない娘さんの事を御両親はとても心配されている様子だった。

 嫁さんの親友は家に来た時に、結婚していない事への重圧に耐えられないとよく洩らしている。

 だから話題が、そっちに流れて行きそうになると、嫁さんと僕で何とか話の方向転換を図り、それを阻止した。

 結婚なんて人それぞれタイミングがあり、様々な事情や縁で、時間がかかる人もいれば、速い人もいるだけの事だと思う。

 これだけ価値観が多様化した世の中なのだから、別に結婚せずとも良いし、結婚したからと言って幸せになるとは限らないのだ。

 そう思うのだが、娘が結婚しない事に不安を抱く御両親の気持ちも十分に理解はできる。

 何度か話題を変えたりしていたのだが、それも虚しく、いつの間にか親友の結婚の事がこの場の主題となっていた。

 僕はその話題にどう切り込んでいいか全く掴めず、親友の旗色が悪くなると、何とかそれをフォローする役に回った。

 気にしている事を言われるのが、よっぽど嫌なのか親友の口調も、急激に厳しさを増している。

 嫁さんと親友とその御両親の酒瓶を空けるペースはどんどんと上がってゆき、議論は際限なくヒートアップしてゆく。

 僕なんかが口を挟める余地等、あろう筈もなく僕はひたすら美味い料理を食べる事に没頭していた。

 議論が熱くなり、いよいよ臨界点に達し様とする時に、物静かだった親友のお父さんが口を開いた。

 相変わらず物静かな口調だったが、その言葉には、家長としての威厳と凄味が満ち溢れていた。

 乱れていた場の空気が、一気に引き締まり、皆が冷静さをとり戻す。

 僕の父親も、嫁さんのお父さんも親友のお父さんも団塊の世代の男である。

 戦後すぐに生まれ、高度経済成長、バブル、その後の日本の衰退を全て社会人で経験した世代。

 まさに我が国の良い時も、悪い時も味わい尽くした世代だ。

 その団塊の世代父親達には、有無を言わせぬ迫力がある。

 僕は近い将来に父親になりたいと思っている。

 しかし何か自分の自信が揺らぐ様な出来事があると、自分は人の父親になれるのだろうかと不安が襲ってきたりもする。

 また自分が思い描く父親像と言う物が、いまいち掴めなかったりもするのだ。

 そんな時に自分が接して来た団塊の世代の人達を思い返すと、惚やけて虚ろだった輪郭が鮮明になる。

 僕は、団塊の世代の様な父親にはなれないのかも知れない。

 生きてきた時代が違い過ぎる。

 しかしここと言う時に家族をまとめ上げて、それを守り抜いていける父親に成りたいとは強く思う。

 夜も更けた頃、僕達は丁寧にお礼を言って親友の部屋を出た。

 嫁さんは酷く酩酊していて、殆んど家まで担いで帰った。

 仕事で疲弊した身体には、堪えたがこれも家長としての仕事だと思う事にした。