あしたの鉄人

戦々恐々の日々

あの頃の梅雨明け 1

 
 大学一回生の頃、僕は大学の敷地内に建つ古い寮に住んでいた。

 この寮は台所も風呂もトイレも共同で、一人に与えられる空間がわずかに三畳程度と言うまるで刑務所の様な建物だった。

 寮費が月に一万円。実家があまり裕福ではない学生や遠征費が嵩む運動部の学生が、この寮で大学生活を送っていた。

 寮生は五十人弱いたと思う。その人数に対し電話が一台しかない。

 しかも電話は玄関にあり、女の子と長話なんかしていよう物ならあらゆる方角から罵声を浴びせられ、嘲笑の的となる。

 何をするにも誰かと顔を合わさねばならず、集団生活にプライバシー等と言う物が皆無だと言う事を思い知らされる毎日だった。

 日々、遠ざかってゆく“キャンパスライフ“と言う瀟洒で甘美な言葉。

 寮生の誰もが想像していた未来と、己が直面している現実との落差に戸惑い、愕然としながらも宴会や麻雀に没頭し何とか日々をやり過ごしていた。


 その日、僕は夏の遠征を前に激しさを増す野球部の練習に疲れ果て、ふらつく足取りで何とか寮の自室まで辿り着いた。

 もうユニフォームを脱ぐ気力さえない。

 そのまま三畳一間に倒れ込む。

 当然、エアコン等あろう筈もなく畳がすぐに汗で濡れていく。

 ドアも窓も全開にしているのに、室内の温度は下がる気配すらない。    

 時折、廊下を通る仲間が僕に声を掛けてくる。しかし曖昧な返事しか返せない。

 横になりながら、リンゴジュースをパックのまま貪る様に飲む。

 みるみる細胞の隅々までが潤ってゆく様な感じがする。

 暫くそうして寝転んでいると、漸く体力が少しずつ回復してきた。

 畳の上に転がっていた夢枕獏の“荒野に獣慟哭す”を手に取り、読み始める。

 そうして活字の海を漂っている時に、誰かが僕の部屋にずかずかと上がり込んできた。

 体を起こすと情報学部のコーヘイと福祉学部のナベが立っていた。

 コーヘイは手に安酒がたっぷりと入った巨大なペットボトルを握っている。

 「コーヘイ。そんなもん先輩に見つかったらえらい事になるぞ」と言うと

 「知るか!」と言いながらコーヘイが畳の上に腰を下ろした。

 直ぐに長身のナベも空いているスペースに座り込む。

 「その酒、先輩に見つからへんかったやろな」と念を押すと、

 コーヘイが先程と寸分違わぬトーンで「知るか!」
と繰り返した。

 この安酒は寮の新入生歓迎会の折りに先輩達が、なけなしの金を叩いて僕達に用意してくれた物だ。

 歓迎会の日に北海道出身のフクちゃんが、先輩達に飲まされ過ぎて救急車で運ばれると言う春の大学あるあるの様な騒動が起こった。

 そのどさくさに紛れて僕達は、この安酒の巨大ペットボトルをくすねたのだった。

 そんな盗品を寮内で、堂々と持ち歩くなんて正気の人間がやる事ではない。

 案の定、コーヘイもナベも既に酷く酔っている。

 気がつくと狭い部屋には、もう酒の臭いが充満していた。

 先程から二人とも何かを捲し立てている。

 しかし酔いにまかせた二人からは、断片でしか話の内容が伝わってこない。

 どうも要領を得ないので僕も酒を飲む事にした。

 酔っ払いの話しは、酔って聞くのが礼儀と言う物である。

 巨大なペットボトルから湯呑みに酒を注ぎ、それをコーラで割る。

 一気に飲み干すと、安酒特有の口当たりが悪く荒い味が口内に広がり、喉から胃までの軌道が急激に熱を帯びた。

 練習で疲れている所為かすぐに酔いが回り出す。

 何故か痺れた頭の方が、二人との会話は噛み合った。

 「寮長が、買った車を見たか?」

 「見たよ。それがどうかしたんか?」

 我が寮の寮長、武井さんがアルバイトで貯めたお金で念願だった車を手に入れた事は僕も知っていた。

 寮の駐車場から、古ぼけた軽自動車に乗って颯爽と走り去る武井さんの姿を何度か目にした事があったからだ。

 最も、颯爽と走り去った武井さんの車が体育館横の駐車場に入って行くのを見て、歩いた方が早いだろうなと思ったし、

 アメフト部で鍛え上げた巨体を嬉しそうに軽自動車に押し込む武井さんを見て、普通より大分、燃費悪くなっているんだろうなとも思ったりした。

 「寮長、あそこまでして何であんな車しか買えねぇんだ!」

 「気の毒すぎるだろ!」

 また二人の語気が強まり出す。

 二人が“あそこまでして”と言う言葉には、僕も心当たりがあった。

 武井さんは寮の中でも倹約家として有名で、車を買うために大学の外にもあまり遊びに行かず節約していた。

 少し前に野球部の練習が長引いた事があった。

 もうとっくに日は暮れて、大学中の電灯も少ししか点いていない。

 寮に帰ろうと学食の前を通りかかると、人の気配がした。

 幾台か並んだ自動販売機の前に、分厚い身体をした男がうずくまっている。

 何をしているんだろう?

 不審に思った僕は、自販機の光に浮かび上がる男の動きを目で追った。

 男は低い姿勢で自販機の間を緩慢に動き、何かをしている。

 どうやら人気のなくなった学食で、自販機の釣り銭口を漁っているらしい。

 男が何をしているかもわかったし、その男が寮長の武井さんである事も同時に知ってしまった。

 自販機の虚ろな光に照らされる武井さんの顔は真剣だった。

 僕は気づいていないふりをして、その場を離れた。

 何故か僕には、武井さんのその行為が浅ましい物に思えなかった。

 武井さんとほぼ同じ状況に、自分がいる所為かもしれない。

 寧ろ目的や目標の為なら、あらゆる手段を尽くす武井さんに僕は好感を持った。

 そんな武井さんは、一時の人の視線や非難を意に介さない図太い人でもあったのだ。

 そこまでして武井さんは、中古の軽自動車に行き着いた。

 その車が、どうかしたのだろうか?

 「武井さんは苦労して中古の軽なのに、親に買ってもらったいい車、乗り回してるヤツもいるんだぞ!」

 「そんな事が許されていいのか!」

 二人が酒の勢いとは言え、ここまでまくし立てるのには理由があった。

 長野と言う土地すがら、車がないと生活範囲はかなり制限される。

 だから僕達も大学に入ってすぐに車を買うために貯金を始めていた。

 しかし日々の生活にすら窮している僕らが、数年でそこそこの車が買える貯蓄等できるわけもなく

 武井さんが買った中古の軽自動車は、僕らのそう遠くない未来を暗示していた。

 そして大学には入学早々、親や祖父等に買って貰った新車を乗り回している学生達も少なからずいた。

 田舎の私立大学である。裕福な家庭の子息も多かった。

 僕達が大学に通っていた90年代、この国の衰退はもう始まっており、一億総中流と言う言葉に亀裂が入り人を分け隔てる格差が徐々に広がりつつあった。

 僕達は何かに負けたのだろうか?

 同じ大学に入り、まだ何の勝負にも参加していない時点から差がついている。

 そんな不条理をすんなり受け入れるには、僕達はまだ若過ぎた。

 酒が入っている所為か僕も冷静さを失い、沸々とした怒りがどこからともなく沸き上がってくる。

「大体、俺達は大学の名を売るために毎日、毎日、練習してるんだ!そんな俺達がなんでこんな事に!」

 野球部の僕とスキー部のコーヘイが怒りをぶちまけると、社会福祉研究サークルのナベが何故か激しく同調した。

 もう全うな議論ができない程、僕達は酩酊していた。

 僕達の話はあらゆる方向に傾いたり、迷い込んだりしながらも、何かきっかけがあると車の話題に戻った。

 「こんな事を政府や大学当局がなぜ許しているのか!?」

 三畳の部屋に学生運動にまで発展しそうな程のエネルギーが充満してゆく。

 別にいい車に乗っているからと言って大学生活が充実する訳でもないし、中古車に乗っているからと悶々とした大学生活がいつまでも続いていくわけでもない。

 可愛い彼女でもできれば、そんな状況なんて物は一変する。

 また大学を卒業した後に待ち受けるあらゆる局面では、与えられてきた者は脆く、掴み取ってきた者はしたたかだったりするのだ。

 そんな事を知る由もない僕らは永遠と怒り続け、そろそろ臨界点を迎えそうなエネルギーをどこに放出するべきか、その落とし所を考えあぐねていた。

 「あいつらはコンパに行く金もあるのに、俺達はエロビデオすら自由に見られない!」

 酒を飲み始めて、三時間が経過した頃、漸く話題は大学生の男達にとって健全なゾーンに着地した。

 「そう言えば、紫陽花寮の寮長さんはすごい巨乳らしいよ!」

 「マジけ!?」

 ナベが放ったその一言は、酒でぼやけた僕の思考回路を更に痺れさせた。

 紫陽花寮と言うのは、僕らが通う大学に隣接する女子短期大学の寮の事だ。

 うちの大学の男子学生は何故か同じ大学の女子学生との交際より、隣の女短の女学生との交際を求める傾向にあった。

 心なしか女短の子達の方が、うちの大学の女学生より華があるように僕達には映っていた。

 それから一時の間、僕達は巨乳と言う言葉を連呼する事に情熱を注いだ。

 誰からともなく

 「今から紫陽花寮の寮長さんの巨乳を拝みに行こうぜ!」

 と言う何かに縛りつけられた僕達を解放してくれるであろう画期的な提案がなされた。

 少し前には、学生運動が始まりそうな程の物騒なエネルギーが部屋に充満していたのだ。

 今夜、何かしらの行動を起こさないと気が済まない様な精神状態に僕達は突入していた。

 長野の夜空の大気は、今日も澄んでいた。