いつか
切れ間なく薄い雲が、空を覆っている。
その下で波が揉み合い、飛沫を上げていた。
そんな曇天の中を、巨大な船が進んでゆく。
遠ざかって行く船には、僕の友人が乗っていた。
大学時代から、旅に出る事にこだわって来た彼はこの日、ユーラシア大陸への長い旅に出て行った。
当時、僕は養成所を出たばかりで、劇場に所属するための公開オーディションを受けていた。
そのオーディションは、月に一度しかない。
後の日々は、ひたすらアルバイトに明け暮れる。
自分が何をしに大阪に出てきたのか、見失いそうになる日々を僕は送っていた。
そんな自分に比べ、あらゆる障壁を超えて大海原に旅立って行く彼は、恐ろしく格好良く思えた。
あれからもう十年以上の時間が流れた。
彼とは二十代後半まで、ぽつりぽつりと連絡を取ったり、会ったりしていたが三十代に入ってからは、それも途絶えた。
“ある時期、ある目的のために、共に力を尽くして生き切ったあとで、まだダラダラと結びついていると言うのは気持ちが悪かった”
これは沢木耕太郎の“リア”と言う短編の中にある一文である。
この感覚は僕の中にも強くあり、人に冷たく映ろうがどう捉えられようが、過ぎ去った時間を共有した人達と、まだ惰性で関わっていたいとは余り思えなかったりする。
彼もそう思っている筈だ。
それに自分の守るべく家族や仕事を持ちながら、そこに時間を割く事はなかなか難しい。
たまに飲みに行ったり、いつかまた結びつけたらその時はまた共に時間を過ごせばいい。
そう思っているうちに、彼と会わなくなってもう十年近くが経っていた。
今年の春、彼が奈良に引っ越してきた。
いつかまた…と思っていたそのいつかが不意にやってきたのだ。
それから僕達は何度か大阪で飲みに出掛けた。
会わなくなった時間の途中で僕も彼も結婚し、あの頃に限りなくあった自由は失われていた。
若い頃は自分が信ずる物にだけ、自分の人生を使い切ってしまえばいいと本気で思っていた。
彼とは昔、よくそう言う話もした。
しかしここまで生きてきて今、僕はそう思っていない。
自分の家族を守り、慎ましく生きてゆければそれで十分だと思っている。
人には、自分の身の丈にあった生き方と言う物がある。
彼とまた会う事になった。
彼の家族を紹介してくれると言う。
僕の嫁さんも彼に紹介したかったのだが、あいにく嫁さんは仕事で、それは次の機会に見送りとなった。
待ち合わせの時間に天満橋に行くと彼と奥さんと一歳半になる息子さんが、僕を待ってくれていた。
大学を出て二十年近くが経ち、彼がここに辿り着いたのかと思うと何か感慨深い物があった。
彼の奥さんの笑顔は慈愛と母性に満ち溢れていて、彼が手にした物が何物にも変えがたいと言う事が伝わってくる。
彼の息子さんを僕が抱くと不機嫌に手足をばたつかせた。
「ごめん。じっとしてられないんだ」
目を細めながら彼が言う。
一所に留まる事を良しとせず、旅に出続けた彼がそう言った事が何か可笑しかった。
この子もいつか曇天の中、ユーラシア大陸に旅立っていったりするのだろうか。
今度は彼に僕の家族を紹介したいなと思った。
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