あしたの鉄人

戦々恐々の日々

家長


 湿気が纏わりついてくる不快な季節である。
 
 仕事中、滴り落ち体表にこびりついてしまった汗を、一刻も早く洗い流そうと、部屋の扉を開くとリビングから微かにテレビの音が聞こえた。

 今日、嫁さんの仕事は休みだった様だ。

 直感的にまずい事になったと思った。

 嫁さんが休みだったとなると、何らかの連絡が僕の携帯にあった筈である。

 しかしあまり携帯を見る習慣のない僕は、その連絡をよく見忘れてしまう。

 会社の人達と話をしていても、夫婦間の軋轢の上位には必ず、この連携ミスがランクインしてくる。

 帰り道、不意に飲みに行く事になっても皆、最も平穏に事が納まるタイミングを見計って、嫁さんに連絡を入れねばならない。

 この連絡を忘れでもしたら、家庭内に火種が燻り続けたりするのだ。

 何も気兼ねする事なく、何も気にせず飲みに出掛ける事ができた独身の頃が酷く恋しい。

 やべぇと思いつつ、玄関からリビングの扉までの僅かな距離で頭を回転させる。

 当然の事だが何も思いつかない。

 “知らんわ。貴様が俺みたいな男を旦那に選んだんやないかぇ”

 と急に帝国海軍将兵の様な思考が頭を掠める。

 開き直ってリビングの扉を開くと、嫁さんが何処かへ出掛ける準備をしていた。

「おぇ!休みかいな!」

 と理由のわからないテンションで僕は嫁さんに声を掛けた。

 嫁さんが冷ややかな視線を向けてくる。

「何で携帯、見いひんの?何回も言うてるやん」

「ごめん。暑さで頭がボーとしててん。熱中症になりかけやな。ダハハハ…」

 適当な事を言って、この場をいなす。

 こんな時に暗い空気を漂わせるのは御法度で、ましてや逆切れするなんてのは、論外である。

「もう!早く準備してよ!」

「え!?何処かへ行くの?」

 その言葉に釣られて、嫁さんが、これから何処へ行くのかを説明し始めた。

 僕は何とか素早く話題を変える事に成功した様だ。

 嫁さんの大学時代からの親友が、僕達の住んでいる団地の別棟に住んでいる。

 それもあって幾つかあった引っ越し先の候補の中から、この団地を選んだのだ。

 嫁さんの親友は月に何度かは、うちを訪れ僕達と一緒に食事をする事が習慣になっていた。

 神経質な嫁さんのストレスが、ピークに達し様とする時に、彼女が来てくれて巧く発散させてくれる。

 またうちを訪れる度に、料理が得意な親友のお母さんが必ず何かを僕達に差し入れてくれた。

 今年の正月には、重箱で御節料理までいただいた。

 そのお返しとして、僕達は実家に帰った時や旅行に行った時に、必ずお土産を親友の御家族に届ける様にしている。

 大学時代から知っている娘の親友が、結婚して同じ団地に引っ越してきた事を、彼女の御両親はとても喜んでくれている様だった。

 今夜は、急に親友の御家族が、嫁さんと僕を食事に招いてくれたらしい。

 僕は急いでシャワーを浴びて、嫁さんと親友の家に向かった。

 同じ団地内なので二分も掛からず親友の家に到着した。

 親友の御両親と僕が直接、会うのは今日が初めての事である。

 何故か僕は、とても緊張していた。

 嫁さんの御両親に緊張するのは当たり前である。

 しかし嫁さんの親友の御両親に会うのに緊張すると言うのは、よくわからなかった。

 御家族は僕達を暖かく部屋に迎え入れてくれ、結婚のお祝いまで頂いてしまった。

 僕は恐縮仕切りで、しかし嫁さんの親友の御両親とどんな話をすれば良いのか、全く掴めずにいた。

 皆でテーブルを囲み、軽く酒を飲みながら親友のお母さんが作ってくれた料理を食べる。

 料理はとても美味しく、終始、和やかな空気が流れていた。

 嫁さんと親友の大学時代の武勇伝が、主に話題となっていた。

 親友のお父さんは無口らしく、余り積極的に会話に参加する人ではなかった。

 嫁さんと親友とそのお母さんが、主に盛り上がり、僕と親友のお父さんとが端の方でぽつりぽつりとお互いの仕事の話等をしていた。

 しかし気を抜いていると、話題は嫁さんの親友の結婚話へと流れてゆく。

 嫁さんの親友はとても綺麗な人なのだが、まだ結婚されていない。

 三十代に突入し、まだ結婚する気配がない娘さんの事を御両親はとても心配されている様子だった。

 嫁さんの親友は家に来た時に、結婚していない事への重圧に耐えられないとよく洩らしている。

 だから話題が、そっちに流れて行きそうになると、嫁さんと僕で何とか話の方向転換を図り、それを阻止した。

 結婚なんて人それぞれタイミングがあり、様々な事情や縁で、時間がかかる人もいれば、速い人もいるだけの事だと思う。

 これだけ価値観が多様化した世の中なのだから、別に結婚せずとも良いし、結婚したからと言って幸せになるとは限らないのだ。

 そう思うのだが、娘が結婚しない事に不安を抱く御両親の気持ちも十分に理解はできる。

 何度か話題を変えたりしていたのだが、それも虚しく、いつの間にか親友の結婚の事がこの場の主題となっていた。

 僕はその話題にどう切り込んでいいか全く掴めず、親友の旗色が悪くなると、何とかそれをフォローする役に回った。

 気にしている事を言われるのが、よっぽど嫌なのか親友の口調も、急激に厳しさを増している。

 嫁さんと親友とその御両親の酒瓶を空けるペースはどんどんと上がってゆき、議論は際限なくヒートアップしてゆく。

 僕なんかが口を挟める余地等、あろう筈もなく僕はひたすら美味い料理を食べる事に没頭していた。

 議論が熱くなり、いよいよ臨界点に達し様とする時に、物静かだった親友のお父さんが口を開いた。

 相変わらず物静かな口調だったが、その言葉には、家長としての威厳と凄味が満ち溢れていた。

 乱れていた場の空気が、一気に引き締まり、皆が冷静さをとり戻す。

 僕の父親も、嫁さんのお父さんも親友のお父さんも団塊の世代の男である。

 戦後すぐに生まれ、高度経済成長、バブル、その後の日本の衰退を全て社会人で経験した世代。

 まさに我が国の良い時も、悪い時も味わい尽くした世代だ。

 その団塊の世代父親達には、有無を言わせぬ迫力がある。

 僕は近い将来に父親になりたいと思っている。

 しかし何か自分の自信が揺らぐ様な出来事があると、自分は人の父親になれるのだろうかと不安が襲ってきたりもする。

 また自分が思い描く父親像と言う物が、いまいち掴めなかったりもするのだ。

 そんな時に自分が接して来た団塊の世代の人達を思い返すと、惚やけて虚ろだった輪郭が鮮明になる。

 僕は、団塊の世代の様な父親にはなれないのかも知れない。

 生きてきた時代が違い過ぎる。

 しかしここと言う時に家族をまとめ上げて、それを守り抜いていける父親に成りたいとは強く思う。

 夜も更けた頃、僕達は丁寧にお礼を言って親友の部屋を出た。

 嫁さんは酷く酩酊していて、殆んど家まで担いで帰った。

 仕事で疲弊した身体には、堪えたがこれも家長としての仕事だと思う事にした。