読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あしたの鉄人

戦々恐々の日々

広島 2

 

 何故、僕が急に“広島に行こう!”と思い立ったのかと言うと、それには嫁さんとその御両親が深く関わっている。

  

 お義父さんの趣味は、世界遺産巡りだ。

 

 これは歴史に少なからず興味を持つ、僕にとっては、とてもそそられる趣味だった。

 

 これが芸術観賞とかだったら、誘われても理由をつけては断っていたと思う。

 

 アートと言う物に、僕は酷く疎く、高尚過ぎて退屈なイメージしか抱けなかったりする。

 

 話題になっているアートアクアリウムも、嫁さんと足を運んではみたものの、“幻想的な金魚の群れ”とやらにすぐに飽きてしまい「よくこれが金になると思ったなぁ」と口走って、嫁さんに睨まれたりした。

 

 とにかく僕は嫁さんと結婚してすぐに、お義父さんの世界遺産巡りに同行する事となった。

 

 嫁さんのお兄さんは、“世界遺産巡り”に興味がないらしく、お義父さんの趣味に全く興味を示さないらしい。

 

 そのため僕が同行する事を、お義父さんはとても喜んでくれていた。

 

 数ヵ月前、姫路城に行った後、恒例となったご当地の名産で一杯やっている時に「次は何処へ行こうか?」と言う話になった。

 

 ちなみに姫路城は人で、ごった返していて、城に入るまでに二時間近く並んだ。

 

 酷く疲れてしまったけれど、職業訓練学校時代の知り合いが、姫路城の補修工事に関わっていて、その時に3DCADを見せてもらった事があったので、それを実際に見れて僕はとても満足していた。

 

 駅前の居酒屋で姫路名物のおでんをアテに酒を飲み、僕は良い気分になっていた。

 

「次は広島に厳島神社でも見に行こうか?」とお義父さんが言った時に、いつもの様にビールを飲んでいた嫁さんが急に反応した。

 

「広島に行くんやったら、原爆ドームも行かなあかん!日本人としてちゃんと見とかなあかんで!」

 

 何処でスイッチが入ったのかよくわからなかったが、嫁さんは急にこの酒席には合っていない熱量でそう主張した。

 

 「じゃあ、そうしようか」とお義父さんもすぐに納得し、その場で広島旅行が決まった。

 

 お義父さんには、この時に“モン・サン=ミシェル”にも誘われたのだが、流石にこれはお断りさせてもらった。

 

 フランスに僕を誘う時も、広島に僕を誘う時もお義父さんの態度に全く変わりはない。

 

 この辺が海外に慣れている人の感心させられる所で、僕みたいに国外に出た事がない人間にしてみたら外国に誘われただけであたふたしてしまう。

 

 何しろ去年、社員旅行で北海道に行った時も旅行前の数日は、期待と不安が入り混じり、僕の心はふわふわと浮遊を繰り返す始末だった。

 

 しかし海外旅行とは、また質の違う動揺がこの広島旅行決定時に僕の内面に広がっていた。

 

 僕は高校の修学旅行で一度だけ“原爆ドーム”を訪れた事がある。

 

 僕は当時、田舎の余りガラが良いとは言えない高校に通っていた。

 

 理由は良く覚えていないのだが、何故か野球部だけ旅行中、別行動をさせられて、顧問の教師が僕達にぴたりと寄り添い、監視の目を光らせていた。

 

 そんな中でも教師の目を盗み、今、考えたら言うのも憚られる様な小さな悪さをし、皆でけたけたと笑っていた。

 

 しかし原爆ドームを訪れた時にその雰囲気が、一変する。

 

 広島平和記念公園内にある平和記念資料館を見学し、被爆者の方のお話を聞いて僕達はショックを受けて沈黙した。

 

 悪さはしても所詮、田舎の何も知らない青臭い高校生で、初めて目にした原子爆弾被害の余りの凄惨さと生々しさに僕達は驚愕し、恐怖した。

 

 特に僕は、平和記念資料館に展示されている熱線の影響で、焼け爛れた皮膚が腕から垂れ下がってしまった様子を再現した蝋人形の残酷さに心を折られてしまった。

 

 そこで思考停止に陥ってしまい、後は何も見ない様に心掛け、足早に資料館の外に出た。

 

 この光景がトラウマとなったのか、長野に帰って暫くの間、赤い照明に浮かび上がる蝋人形の姿が、僕の夢に出てきたり、ふとした瞬間に脳内を横切ったりした。

 

 この蝋人形は、残酷過ぎると言う理由で平和記念資料館から何度も撤去されそうになっている。

 

 しかしその度に、被害の実相を伝えるのに必要だと言う人達もいて、議論がなされている。

 

 あの修学旅行で原爆ドームを訪れてから、もう何十年と言う時間が流れた。

 

 僕も、もういいオッサンである。

 

 近い将来、父親と言う立場にもなろうとしている。

 

 自分の子供に、この国でかつて何があったのか正確に語り継いでゆく、義務と責任があると思う。

 

 そのため気が重くなろうが、どうだろうが大人として確りと“原子爆弾投下”と言う史実と向き合わねばならない。

 

 広島駅で僕と嫁さんは、愛知からやってきた嫁さんの御両親と合流した。

 

 まだ午前中と言う事もあり陽射しはそれ程、強くはない。

 

 僕達はすぐに路面電車に乗り、平和記念公園に向かった。

 

 路面電車から、広島市内を寸断する幾筋もの河川が見える。

 

 原爆投下から数日、熱傷の苦しみから逃れようとした人や水を求めた人達が、この河川に殺到し、水面には数え切れない遺体が浮いていたと言う。

 

 京橋川を渡って暫く行くと、原爆ドームまであと約一キロの距離となる。

 

 爆心地から一キロ圏内では十人中、八人が原爆投下当日に死亡したとされている。

 

 しかし当然ながら、現在の原爆ドーム周辺にそんな雰囲気は微塵もない。

 

 街は活気づいていて、観光都市らしく、配置良く建物が立ち並ぶ。

 

 その時に僕は、アメリカ人の友人達と話している時と同じ感情をまた抱いた。

 

 それは、本当にこの街の上空で核爆発があったのだろうか?

 

 と言う自分の知る史実と今、目にしている現実が余りにも解離していて、とても繋げて考える事ができないと言うものだ。

 

 僕達は路面電車を下り、平和記念公園の敷地内を進んだ。

 

 外国人観光客の姿が多い。

 

 比較的、アジア系の方は少なく、ヨーロッパかアメリカから来たと思われる白人の方が多く歩いていた。

 

 すぐに“原爆ドーム”が見えてきた。

 

 鉄柵で囲まれた“原爆ドーム”は、損傷が激しく、あの夏から酷く時間が経った今では、それが“原爆”によるものなのか、老朽化によるものなのか判別をつけるのは難しかった。

 

 “原爆ドーム”には、古代遺跡の様な神々しさが漂っていて、そこにいた誰もが沈黙し、ただただ遠巻きにその偉容を仰ぎ見ていた。

 

 周辺の小さな森は、なかなか他の場では味わう事ができない静寂に包まれていた。

 

 “原爆ドーム”は世界遺産の中でも、人類の“負の遺産“とされている。

 

 それを様々な国籍の人達が、同時刻に見上げて、この小さな森の静寂を共有する。

 

 それは何か普段、余り考える事ができない、平和の尊さを身に染み込ます様な時間だった。

 

 嫁さんは、感情が昂ったのか静かに涙を流していた。

 

 僕達は、丁寧に平和記念公園内を見学し、最後に“平和記念資料館”を訪れた。

 

 資料館に入ってすぐに僕が、高校生の頃に見て思考停止に陥ってしまった蝋人形が展示されていた。

 

 やはり近いうちに、この人形が撤去されると書かれている。

 

 この事について議論した嫁さんや、会社の同僚は撤去する事に反対の様だった。

 

 しかし十代の頃、蝋人形に強い衝撃を受け、その後、様々な展示物を冷静に見られなくなってしまった僕は、撤去もやむ無しではないかと思う。

 

 広島の各所で撮られた何枚もの、立ち上るきのこ雲の写真。

 

 有名な原爆投下、三時間後に御幸橋で撮影された写真。

 

 その中央では、酷く火傷を負った少女が黒炭の様になってしまった幼児を、茫然と抱きしめている。

 

 爆心地直下で一瞬にして、消滅してしまった人の石段に残された影。

 

 そして原爆で犠牲になった方々の膨大な遺品。

 

 焼けてしまった小さな靴の下、プレートに刻まれた以下の説明文を読む。

 

《県立広島第一中学校1年生の一彦さん(当時12歳)は、建物疎開作業の待機中に校舎内で被爆した。自宅で被爆した母親の綾子さん(当時37歳)は、外にいたため無事だったので、ひとりで一彦さんを懸命に捜し歩いた。8日朝にようやく中学校のプールのそばで、顔に大火傷を負って息絶えていた我が子を発見した。綾子さんは、あたりに散らばった木片を集め、たった一人で息子を火葬した。数日後、妹の扶美子さん(当時10歳)を、火葬した場所に連れていった時に、扶美子さんが偶然この靴を瓦礫の中から、「佐々木」の名前で確認して見つけた。底に穴が空いた靴を、一彦さんは自分で厚紙を入れて、履きつづけていた》

 

 我が子の遺体を発見し、自ら一人で火葬せねばならない母親の心中…

 

 それが自分の嫁さんだとしたら…

 

 もう耐久範囲を、とっくに超えてしまった所為か、僕の意識は酷く虚ろになり、思考が暈けて纏まりを失ってゆく。

 

 冷静になろうと回りを見渡すと、日本人も外国人も皆、沈痛な表情をしながら、スマホで展示物を熱心に撮影している。

 

 その行為を目にした時、この時代の何か重要な部分が歪んでしまっているのではないかと急に背筋が寒くなった。

 

 広島平和資料館には、何度かの改装により、生々しく凄惨な被害を伝えるゾーンの要所に、冷静で科学的にあの日、広島で何が起こっていたのかを検証しているゾーンが設けられている。

 

 そこで僕は自分が如何に放射能と言う物を、誤解していたのか知る事ができた。

 

 生死の境界線が曖昧になりながら、何とか感情の浮沈に振り回されず、全てを丹念に見学して僕達は資料館の外に出た。

 

 入館してから、すぐに時間感覚が消失してしまい外に出た時には、もう正午を回っていた。

 

 そこには、静かな広島平和記念公園の景色があった。

 

 緑が見え、広島の街並みがあり、その上に蒼さを増した初夏の空が広がる。

 

 この時程、平和の尊さに感謝した事はない。

 

 米国のケリー国務長官は、「全ての人がここを訪れるべきだ」と語っている。

 

 自分の子供が、日本の歴史を正確に理解できる年頃になった時に再び、僕はここを訪れようと思う。

 

 それから僕達は、船で宮島に移動した。

 

 厳島神社では、古来より続く、日本の景観の美しさを体現した。

 

 そこで宮島名物の穴子を食べながら、酒を飲んだ。

 

「やっぱり何でも、自分の目で見ないとダメだ」とお義父さんが、いつも言う感想を口にした。

 

 世間知らずの僕に様々な物を、見て考える機会を与えてくれているお義父さんには、また尊敬の念が沸いた。

 

「次は長崎の軍艦島に行きませんか?」と誘ってみたが、「行かない。あっこは、興味ない」とあっさりと断られてしまった

 

 お義父さんのツボを僕は、全く理解できていないらしい。

 

 平和である事の尊さを感じながら、広島で飲んだ酒は酷く旨かった。