ホセ
銀行の応接室から出て、後方を振り返ってみると銀行員のお姉さんが、僕に向かって頭を下げ続けていた。
急激に、何だか申し訳ない気持ちになり、何か言おうと思ったが、巧く言葉が出てこない。
「ほ、ほんまに真剣に考えます!」
と理由の分からない事を口走ると、お姉さんの笑顔が瞬時に引き攣った。
住宅ローンの審査に通った僕は、各銀行の金利データ表を掻き集め、どの銀行に融資を頼むのかを考え倦ねると言う、全く身分不相応な作業に日々を費やしている。
微塵も現実感はなく、「やっとここまできたか」と言う達成感も沸いてこない。
胸中に広がってゆくのは、漠然とした不安と黒々とうねる重圧のみである。
会社の先輩が、高級車を購入した折、何故か余り嬉しそうではなかった事を思い出す。
「嬉しくないんですか!?」と思わず僕が、口走ると、
「あんまり… 三日間、何も考えずに飲み歩ける方がよっぽど嬉しい」と冴えない顔で先輩が答えた。
“そんなもんかな”と、その時、僕は思ったものだ。
「やっとマイホーム、ゲットできたぜぇぇぇぇ。イエーイ!」と言う単純な雄叫びを上げる気には到底なれず、どうやら僕は年を重ね過ぎた様だ。
二十歳の時にホセメンドゥーサとの激闘の末、真っ白な灰になる事を痛切に願っていた僕は今、固定金利の底を見極め様と躍起になっている。
しかもそれに対して、心を抗わせず、何もかもを有りの侭に受け入れると言う態勢を、いつの間にか自分の中に構築してしまった様だ。
何とも言えない気分になり、数年前まで一緒に戦っていた仲間の声が急に聞きたくなった。
適当に携帯のメモリーを眺めていると、何故か疎遠になってしまった仲間の名前に目が止まった。
今も親しくしている仲間に、この心情で電話を架けると、不要な心配をかけてしまいそうだった。
「急にどうしたんですか!?何かあったんですか!?」と聞かれて
「ホセメンドゥーサと戦って、真っ白な灰になりたかった俺が今、金利の計算してんねん!」等と答え様もんなら、いよいよ頭がおかしくなったと思われるのが関の山だ。
もし自分に誰かから、そんな電話が、架かってきたと思うとぞっとする。
兎に角、僕は今、東京に住んでいる昔の仲間に電話を架けてみる事にした。
「もしもし…おはようございます!」
酷く懐かしい声がする。
「おお!久しぶり!今、京橋にいてるんやけど飯でもいかへんか?」
「あ…あの今、僕は東京に住んでいるんですよ」
渾身のボケを投下したつもりだったが、意図が伝わらず真面目に答えられてしまう。
「あぁ…せやったなぁ」
出鼻を挫かれ、何だか急に恥ずかしくなって、足を捻りながらも、何とか会話を強引に着地させる。
それから彼の東京での暮らしやら、共通の仲間の話し等をした。
仕事の事を聞いてみると、彼が弾んだ声で「順調ですよ!」と答えた後に、先日行われたある大喜利の大会で優勝したと教えてくれた。
彼のその一言で、僕の陰鬱な気分が一気に霧散してゆく。
彼とは数年前、幾度となく、同じ舞台で共に大喜利をやった。
あの日々が、今、誰かの糧になっている事が素直に嬉しかった。
「先輩は、どうしてるんですか?」
「胸にシリコン入れて巨乳にしたよ」
「はぁ?何を言ってるんですか?」
「……」
無駄に気分が高揚し、かましてみた芥川賞ボケも彼には伝わらなかった様だ。
「うそ。うそ。結婚して、もうすぐ家を建てる事になったんやわ」
そう報告すると、彼は「さすがっすね!」と言った後、爆笑した。
電話を切った後、久しぶりに大喜利でもやってみようかと思ったが、そんな暇等あろう筈もない。
再び、銀行の金利表に目を落とす。
視界を現実が、覆い尽くす。
何だか吐きそうだった。