あしたの鉄人

戦々恐々の日々

宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 1

 結婚式を挙げるために、長野へ向かうバスの道中で、僕は脇目もふらずにこのブログを書いていた。

 挙式直前の所為か、様々な感情が複雑に絡み合いながら去来し、それらはどうやら名神高速の途中で、自分が管理できる範疇を超えてしまった様だ。

 妙な緊張や、類のわからない期待めいた物が絶えず自我を揺すってくる。

 最近、僅かな時間さえあれば聴いている宇多田ヒカルの復活作で、それを紛らわせようとも思った。

 しかしその行為が更に心の襞を敏感にさせる様な気がして踏みとどまる。

 無性に煙草を吸いたくなったが、生憎このバスには、喫煙スペースが設けられていない。

 中々、良策が見つからず、何かに没頭する事で何とかこのうねりを散らそうと、溜まっているブログの編集作業に手をつける事にした。

 ブログは丁度、僕と相方が大阪プロレスで経験した事を綴っている最中で、書いていると当時の事が甦ってきて、少なからず高揚してくるものがあり、纏わりつく雑念を霞ませた。

 しかしその日を最後に、日々を書き残す時間が、はたりと取れなくなってしまったのだ。

 仕事の事で考えあぐねる状況があったり、相変わらず家庭を維持するための雑事に追われたりしているうちに、高速で後方に流れ飛んでゆく窓外の如く、一日が終わってゆく。

 ただそんな事はここ数年、慢性的に続いている事だ。

 何かを書く時間までもが、失われる事はない。

 では何に自分は、限りある時間を費やしたのか。

 様々な偶然が重なった結果、僕は宇多田ヒカル安部公房太宰治によるジェットストリームアタックを、しこたまくらい続ける破目に陥ったのだった───

「音楽をただのBGMにしたらあかんで!」

 その言葉は、疲労とアルコールによって惚けた僕の意識を不意に打った。

 この日、僕は勤務後に会社の宴会に出席し、深い疲労と酔いに喘ぎながら、何とか最終電車に乗り込んだ。

 座席に座り込み、うとうとしていると少し離れた所から騒がしい声がする。

 そちらの方に目をやると、社内で見憶えのある数人の人達が話をしていた。

 どうやら本日、他の部署でも宴会が催された様だ。

 その人の輪の中心に一際、声のでかい革ジャンを着た男が居た。

「やば…」

 そう思った僕はすぐに着ていたパーカーのフードを、頭からすっぽりと被り、全身の力を抜いて狸寝入りの態勢を整える。

 革ジャンを着ている男は部署は違うものの、会社での僕の先輩に当たる人であった。

 作業場が違うため、その方の仕事内容も詳しくは知らない。

 ただ顔を合わせると、先輩はよく声を掛けてくれて、仕事終わりの更衣室等で色んな話をさせてもらっていた。

 その先輩は傍から見ていてもバイタリティーに溢れた人で、会話の手数も多く、僕の職歴を知ってからは思いつくままにボケ倒して来る様になった。

 うちの相方ならそれを綺麗に捌いて、場の空気を盛り上げ、相手の気分も良くなるに違いない。

 しかし生憎、僕にはそんな技量もないため、何とか全力で突っ込んで、誠意だけは見せる様にしていた。

 その先輩はバンドを組んでいるらしく、仕事後の更衣室で全編、英語で綴られた歌詞を手に口ずさんでいる姿を度々、見かけた事があった。

 時間があり余っている学生の頃ならいざ知らず、正式な職を持ち、年を重ねた今でも音楽への情熱を失わずに保ち続ける。

 それはなかなか困難な事の様に、僕には思えた。

 先輩は現在でも、週末になるとミナミのライブハウス等でバンド活動を続けているらしかった。

「音楽は何を聞くの?」

 ある時、先輩が僕にそう尋ねてきた。

 会話に行き詰まった後に出てきた言葉でも、幾つかの質問の続きでもない。

 単純に僕が、どんな音楽を聴いているのか興味を持ってくれたんだなと言う感触があった。

 こんなに混じり気なく、自分が聴く音楽について尋ねられたのは何年振りだろうか。

 十代や二十代の中頃くらいまでは、そんな話題が中心に据えられていた様な気がする。

 今では見る影もないが、ラバーソールを履き、革パンと黒いジャケットに身を包み、財布からチェーンをじゃらじゃらとぶら下げて、オールスタンディングのライヴに足繁く通っていた時期が、僕にも長くあったのだ。

「ミッシェルとかブランキーは、昔よく聴いてましたよ」

 よく聴いていたなんて言う都合のいい範囲に、それが納まり切るわけがない。

 何しろあの頃の僕はネタ合わせとバイトの時以外、ずっとミッシェルの曲を流していた。

 まるで鼓膜が何かの中毒に侵されたかの様に、僕の聴覚は四六時中、“TMGE”を貪欲に求め続けた。

 “いつまで同じ歌ばっかり聴くんよ。あたしもう頭がどうにかなりそうやわ”

 当時、付き合っていた彼女は何度もそう言っていたが、構わず僕は飢えた鼓膜に“世界の終わり”や“アンジーモーテル”を与え続けた。

「やっぱり!夏にミッシェルのTシャツ着てんの見たもん!今だにあれ着てるヤツ中々、おらんよ!」

 ミッシェルと答えた僕に先輩は鋭く反応してくれ、暫く二人で“ギヤブルース”やら“ランブル”の話で盛り上がった。

 ただその後「他には、何聴くの?」と聞かれて、「石野卓球久石譲…それにアジカン宇多田ヒカルなんかが好きです」と僕が答えると先輩は「天才ばっかりやんか。自由やね…」とだけ言い、そちらの話を広げ様とはしなかった。

 恐らく先輩は、洋楽のバンドにも僕が興味があるとふんだのだと思う。

 しかし僕は海外の音楽には疎く、それよりも幅広く日本人アーティストの曲を聴く事を好んでいた。

 それからはその先輩と会う度に、“UAベンジーにもう一曲歌ってほしい”とか“ダグアウトは名盤である”と言う熱が籠った話をした。

 話の途中で先輩は、いつも僕を飲みに誘ってくれたが、その都度、僕は何やかんやと理由をつけて断ってしまっていた。

 どう言う訳かその先輩と、仕事終わりに出会す日はいつも、週の中頃だった。

 先輩が、どう言う仕事に従事しているのか詳しくはわからない。

 だがいつも人の輪の中心にいると言う事実が、先輩の腕を証明していた。

 男社会ではやはり仕事で結果を残さない限り、本当の意味で人等、そう簡単に付いては来ない。

 そんな先輩とは違い、僕は毎日の仕事に何とか随いてゆくのが精一杯と言う有り様である。

 当然、仕事終わりには、心身ともに疲弊し、意識の何処かが溶けているかの如く、明瞭でない事の方が多い。

 そんな状態で先輩と飲みに行っても、場が盛り上がるとは思えなかったし、次の日、二日酔いで業務に挑む訳にもいかない。

 ただそんな不慣れな仕事の事を理由にするのは躊躇われ、何だか煮え切らない事を言っては先輩の誘いを躱してしまっていた。

 それが最終電車の座席で、古典的な狸寝入りを僕が決行せねばならなくなった背景である。

 今、もし先輩に“これから飲みに行こうや!”と誘われたらもう断る訳にはいかない。

 こんな展開が待ち受けているとも知らず、僕は今夜の宴会で調子に乗って酒を煽り切ってしまっている。

 明日が休日だと言う安心から、何とか自力で家まで辿り着くだけの意識と理性の欠片だけを残し、後の全てをアルコールに奪い去られていた。

 しかし困った事に縺れる自我が、今にも狸寝入りを放棄しようとしている。

 車輪と線路との摩擦音が、酷く鬱陶しい。

 先程よりずっと、血液が各々、身勝手に体内を駆け巡ってゆく。

 不意に”あと一杯くらいやったらいけるんちゃうか!”と言う気になった。

 なぜ特にやましい事もしていないのに、自分は隠れる様な真似をしているのか。 

 僕は、深く被ったフードに手を掛けていた。

 そこから先は確かな事は、何一つ覚えていない。

 どう言う経緯でそうなったのか、よく覚えていないのだが、それからー時間後、何故か京橋にある馴染みのホルモン焼き屋で、僕は先輩達と共にハイボールを煽っていた。

 先輩達の宴会は会社の近所に最近、開店したインド料理屋で催されたらしかった。

 何処からか“やっぱりインド人が作ったカレーは本格的やったな”と話す声がする。

 それに反応して僕は「そこの店長、カレークックでしたか!?」といきなりかました。

 脳が痺れ濾過装置が機能しなくなり、何もかもが、垂れ流しになっている様だ。

 どう解釈しても全く面白くないし、酷いとしか言い様がない。

 そんな代物に先輩は、机を叩いて笑ってくれた。

 もうあらゆる物の質等、どうでも良く、この酒席が欲しているのは、何らかのきっかけだけの様だ。

「開店セールやっててな、カレークックの頭のカレーもえらい安くなっとったで!」

 先輩は一切、僕に突っ込もうとはせず、ひたすら乗っかってくるタイプらしかった。

 それから一旦、場が納まり、酒をちびちびと飲みながら、様々な話に興じていると、また先輩が店の壁に貼られている水着姿のイガワハルカの古いポスターに目をやり、

「え!?元阪神のイガワやん。今、グラビアやってるんや。大変やな」等と言い出す。

 余りに煩わしかったのとかなり酒が入っていた事もあり、僕は先輩の頭を小突いた。

 するとまた酒席が笑いに包まれた。

 何と言う締まりのない空気感だろうか。

 二次会と言う物の相場なんて大概、そんな物で“職場のガス抜き”や“親交を深める”と言った明確なテーマがある一次会とは違い、“何だかこのまま帰るのもあれやからもう一軒だけ行っとこか”くらいのあやふやな所から出発し、だらだらと終わってゆくもんである。

 酔いも疲労も眠気もピークだったが、二次会特有のこの緩さを、僕は気に入っていた。

 それから暫く、そんな潤けた時間が続き、気がつくと酒席の主題は音楽話になっていた。

 先程まで下らない事ばかり口にしていた先輩の目に、いつの間にやら熱い物が混じり始めている。

 何かのきっかけで、先輩と同じ職場の人が「もう何年もCDは買うてへんなぁ…」と言った。

 それは、そうだろうと思う。

 僕達は、もう世間から中年と呼ばれる年代に達していて、熱心に音楽を聴いていた年頃からは遠ざかり過ぎている。

 しかも好きな曲を獲得するための、時代の主流はダウンロードであり、CDは徐々に需要を失いつつあるのだ。

「俺は、今だにレコードばっかり買うてるで!」 

 何ともやり切れないと言った具合に先輩が口を挟む。

 そこから先輩は“好きな曲だけを、かい摘まんでダウンロードする何て事は、愚かで下品な行為としか言えず、音楽への冒涜である”と呂律が回らない中、延々と語った。

 その話が一段落つくと、先輩は僕に同意を求めてきた。

「僕も今はCD、あんま買ってないんすよ…」

 僕が、そう答えると「マジで…」と言って先輩はさみしそうな顔をした。

 最後に僕がCDを買ったのは、もう二年近く前だと思う。

 ミッシェルの解散を境に、僕の音楽への 熱は緩やかに冷めていった。

 それでも、今も同年代の人達に比べたら音楽を聴く方だとは思う。

 三ヶ月に一度は、気になった曲や好きなアーティストのアルバムを一気にウォークマンに移し込み、それをスピーカーに繋げて休日は一日中、聴いている。

 しかしそれは、ミッシェルを聴いていた時の貪る様に前のめりで、スピーカーに張り付いていた頃と比べると、明らかに真剣さに欠けた。

 その時の気分に合わせて、歌詞の解釈で悩む事も考える事もせず、遠くで鳴っているそれを、ただ鼓膜に通過させているだけにすぎない。 

 ミッシェルが解散した時に味わった、激しい虚無感は暫く、僕を音楽から遠ざけた。

 “ギアブルース”で湿り、“カサノバスネイク”で渇き、“ロデオタンデムビートスペクター”で融合したミッシェルは、アルバムをリリースする度に、ある階段を確実に掛け上ってゆき、日本屈指のバンドとして広く知られる様になった。

 戦後、幾万にも及ぶバンドに削り倒され、残滓しか漂っていない音楽界に“打ち込み”なしの、生演奏と絆だけで挑みかかり、“音“に革命を起こす事に成功する。

 ライヴに拘り、不可能と言われたアリーナでの数万人規模のオールスタンディングライヴを決行し、この国に“踊り、暴れ狂い、音を浴びる”と言う形態を定着させた。

 そして僕が三十代に突入する直前、“サブリナヘブン”、“サブリナノーヘブン”と言うアルバムを立て続けにリリースする。

 この二枚のアルバムは、ミッシェルと言う一つの塊が、繰り返し挑戦してきた全ての事柄を結実させ、ある高みに到達した事実をリスナーの鼓膜と精神に告げるものだった。

“遂に到達してしまった…”

 “サブリナ”を聴いた多くのヘビーリスナーは、そう感じたのではないか。

 到達した以上、次はその高みからどう下るのか、それとも新たな到達点を探るのかと言う、以前とは側面が異なる闘争が、これから始まってゆくのだと思っていた。

 しかしミッシェルは、分岐点を迎える度に「俺達はストーンズにはならない」と公言し続けてきたバンドである。

 そう言う価値観を共有する、惑星群の様な一塊が次に向かう行先は、果たして何処なのか。

 決して、下ったり、堕ちたりだけはしてほしくない。

 しかしでは、どうするのか…。

 相変わらず“サブリナ”を、鼓膜とその先にある自我に刻み込む様な日々を、送っていた僕は、ある日、ミッシェルの解散を唐突に知った。

 解散の理由は一切、公表されなかった。

 しかしラストツアーのタイトルには、ミッシェルが“燃え尽きた”と受け取れる言葉が、さらりと使われていた。

 ある頂に到達し、その高度を維持したまま、美しく散る。

 人や事象が、まさに燃え尽きようとするその瞬間に遭遇できるなんて事は、一生のうちにそう何度もある事ではない。

 なかなか人は、そんな格好良くは生きられず、ある頂きに立ったまま、散華を選び取るなんて事は不可能に近い様に思える。

 “あしたのジョー”が、世代や時代を超えて、今も尚、多くの人に支持される理由は、燃え尽きる事を強く望むジョーが長期間に渡り、悶え足掻く過程を何とか乗り越えて、ラストシーンで見事に完全燃焼を成し遂げるからだと思う。

 そのジョーですら、“燃え尽きる”までの道程でぼろぼろになっている。

 しかしミッシェルは、解散を決定した時点で、疲弊し磨り減ってはいない。

 屈指のロックバンドでありながら、デビュー前から、クスリや退廃を嫌悪し、ステージに立つ時は、常にスーツを纏ってきた彼らは、硬質な美学を貫き通し、下りる事も、ぼろぼろになる事も拒否し解散を選んだ様だった。

 欠かさずライヴに足を運んでいた僕は運良く、ラストツアーの最前列中央に位置するブロックのチケットを手に入れる事に成功した。

 どんな心持ちで、その日を迎えるべきかと考えあぐねていたら、あっさりとラストツアー当日に仕事が入ってしまい、ミッシェルの最後を見届ける事は叶わなくなってしまった。

 この頃、三十代を目前にして急激に仕事が増加し、ひたすら舞台に向かう日々が始まりつつあった。

 何とかいつかは燃え尽きたいと、僕は僕で足掻いていたのだ。

 最後にミッシェルは、幕張で大規模なオールスタンディングライヴを決行し、その幕を下ろした。

 僕はそれを、狭い部屋の紫煙で霞んだブラウン管越しに観た。

 余りにミッシェルの解散が絵になり過ぎていた所為か、僕はミッシェルの次に鼓膜を委ねるアーティストを見つける気にはなれなかった。

 多くのTMGEリスナーは、その後、チバが新たに組んだバンドに旨く移行していった様だ。

 チバが唄う曲は、今も恐ろしく格好良い。

 しかしその独特の唱方の向こうに、ばきばきと唸るウエノのベースや、ざかざかと刻まれるエッジの利いたアベのギターは鳴っておらず、

 内臓に響くキューちゃんのドラムだけが、あの頃のままそこにあると言う事実に、僕は酷く感傷的な気分になったりする。

 ミッシェルの解散後、僕は音楽とかつてと同じ熱量では向き合えなくなった。

 その結果、ここ数年は好きなアーティストのCDを懐に余裕があって尚且つ、気が向いた時にだけ購入し、後はダウンロードで済ませると言うスタンスに落ち着いていた。

「音楽を、ただのBGMにしたらあかんでぇぇぇぇぇ!」

 深夜のホルモン焼き屋で僕達、目掛けて先輩が雄叫んだ。

 その叫びは緩過ぎる雰囲気を霧散させ、呆やけ切った僕の心を強く打った。

 酒席に居た他の人達は笑っていたが、僕は痺れていた。

 だがそれでも、もう二度とあの頃の様な姿勢で音楽を聴く事はないだろうなとも思った。

 それから数ヵ月が経ち、もう先輩が叫んだ夜の事等、忘れてしまっていた。

 秋にさしかかる頃、宇多田ヒカルが数年に及んだ“人間活動”とやらに区切りを着けて、CDをリリースした。

 迷う理由等、何処にもなく、僕はそれを直ぐに買う事に決めた。

 宇多田ヒカルのCDを購入した天六からの帰り道、久し振りに気分が高揚し、薄くなり始めた空を眺めつつ、自転車を漕ぐ足に自然と力が込もった。

 橋を渡る時に、吹きつけてきた秋の風が心地好かった。