あしたの鉄人

戦々恐々の日々

宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 3

 
 仕事を終えて、会社のゲートを潜ると細い路地に、最寄り駅に向かう人達の列がびっしりと伸びていた。

 会社の規則は厳格で、だらしない服装をした人等いないし、況してや歩きながら煙草を吸っている人や、スマホを操作している人も見受けられない。

 この細い路地に軒を連ねる居酒屋や、スナックには粗方、行き尽くした。

 どの店の人達も皆、親切にしてくれ、礼節を重んじる社風を褒めてくれた。

 以前、一緒に働いていた米国の友人達は、この密集した路地を見て、「アメージング!」と大仰に驚いていたものだ。

 古来よりの秩序が確りと伝承され、不思議な調和を成す、この箱庭の様な街路を、僕は気に入っていた。

 しかし最近は、そんな情景に目も止めず、最寄り駅まで全力で駆けて帰っている。

 仕事終わりに更衣室で着替えを済ませると、いつも電車の発車時刻までに、数分の猶予しか残されていない。

 その便を逃してしまうと、次の電車が来るのは十数分後だ。

 数分以内に次の便が来る様に、ダイヤグラムは組まれている筈なのだが、何故かこの時間帯だけ、ぽっかりと隙間が空いている。

 疲れた心身を晒しながら、ホームでぼんやりと佇む十分と言う時間は思いの外、長く感じられ、自我が薄まり不鮮明になってゆく様な気にさせた。

 一体、この無為としか思えない十数分を自分はこれから先、どれだけ積み上げてゆかねばならないのだろう。

 一週間で換算してみると、一時間近くに達する。

 月単位では…

 その辺りまで行き着くと大体、嫌気が差し、自分は酷く馬鹿げた事を考えていたなと気がつく。

 計算までして、積み重なってゆくであろう無為な時間を算出した所で、そんなものは思考を無駄に暗くさせるだけだ。

 今まで吐いて捨てる程、何事とも名付け難い時間を過ごしてきたのだ。

 今更、おたおたしても仕方がない。

 そう思い直してみても、ただの待ち時間をこれから、永遠と過ごさねばならないとなると酷く抵抗感が沸いた。

 ある時、夕刻の狭い路地を、走り抜けて行く若い男の姿を見掛けた。

 会社の巨大なゲートから、最寄り駅まではいつも通り、帰路に着く人の列が切れ目なく伸びている。

 若い男は、ゆったりと動いてゆく人の群れの脇を、確かな足取りで走行し、次々と追い抜かしてゆく。

 あのスピードなら、何とか数分後に最寄り駅を出発する電車に間に合うだろう。

 不意に僕の少し前を歩いていた中年の男達が、走っている若者に声を掛けた。

 しかし若い男は軽く会釈をすると、中年の二人組が発した何事かの質問にろくに答えもせず、そのまま走り去ってしまった。

 どうやら中年の男達とあの若者は、同じ職場で働く顔見知りらしかった。

 若者が、最寄り駅の方角に消えて行った後で二人組は「あいつあんなに急いで帰って、何やってるんやろ?」と話していた。

 会釈だけをしてその場をやり過ごし、駆け抜けて行った若者の表情には、何処か切実なものがあった。

 年を重ねると理解し難くなるのかも知れないが、きっと若い彼には家路を急ぐ、何らかの明確な理由があるのだ。

 僅かな時間も惜しんで、愛する彼女に会いたいのかもしれないし、友人達と深夜まで語り合いたいのかもしれない。

 一刻も早く、自分の部屋に帰って好きな本を読んだり、映画を観たりする事で心身の均整を保っている可能性だってある。

 よくよく思い返してみると、連綿と続くこの人の波に迎合せず、走り抜けてゆくのは若者ばかりだった。

 “おっさん“連中はいつも歩いている。

 当然、“おっさん“と言われる領域に足を深く踏み入れている僕も、この列にぴたりと歩調を合わせ、緩慢な移動を続けている。

 毎日の待ち時間に嫌気が差し、少しでも時間を短縮して、帰宅せねばならない理由が自分にもある。

 しかし僕はこの緩い流れに身を任せ、揺蕩う様にして家路に着いている。

 家路を急ぎ走っているのが、若者ばかりだと言う理由だけで。

 自分は、彼らの様な年頃の時に「格好良い大人になりたい」と強く願っていたのではなかったか。

 若者に混じって、様々な疲労や汚れが蓄積した、“おっさん”が若者に負けないスピードで全力疾走してゆく。

 それは、何処か不様な光景に思えた。

 だが一方で体裁を気にし、胸奥の声に耳を傾けない様にして、駅で過ごす不透明な時間をすんなりと受け入れている自分を、格好悪いとも感じる。

 うだうだと考えている時間等、何処にあると言うのか。

 ある時、僕は会社のゲートを出た瞬間、軽く走り出してみた。

 大学時代の野球部での、ベース間ランニングは部員の中でも、下から数えた方が早かった。

 しかし二キロを超えるランニングでは、殆んど誰にも抜かれずにゴールまで達する事ができた。

 その日、走り出した僕は、全く息が切れる事なく、最寄り駅に辿り着いた。

 ホームに下り立つと、すぐにいつもは乗り過ごしている電車が近づく。

 軽い高揚感が、自分の何かを満たす。

 良かれ悪かれ、僕の毎日は年々、感情が揺れ動き難い方向へと進んでいる様だ。

 それを刺激がないと憂うのか、それとも手に入れた安息に寄り添うのかは、なかなか自分でも判断を着け兼ねる所である。

 ただそう言う凍結した時間の中に、身を置いていると、胸中の変化に敏感にはなってくる。

 穏やかな湖面に起きた小波を、見逃す事なく捉える事は容易い。

 その日から僕は、会社のゲートを出た瞬間、駅まで全力疾走する様になった。

 よくよく考えてみると、おっさんが一人くらい列の速度に抗った所で誰がそれを注視すると言うのか。

 走っている最中に時々、会社の同期や飲み仲間を追い越す事もあった。

「なんで走ってんの?何か用事あるん?」

 そう言う友人達の質問に僕は、本音で返した。

「早く帰って、宇多田ヒカルのCD聴きたいねん!」

 この返答はよく受けたし、「中学生か!」と突っ込んでくる友人もいた。

 みんな笑っていたが、僕は本気だった。

 滑稽な全力疾走を繰り返し、一刻も早く帰宅して聴き込まねばならない程の崇高さを、宇多田ヒカルのニューアルバム“fantome”は持ち得ていた。


──宇多田ヒカルが、数年振りに復活すると言う情報を目にした時は、何か現実感が沸かなかった。

 “人間活動に専念する”と言う聞き慣れない言葉を残し、宇多田ヒカルが表舞台から姿を消したのは何時の事だっただろうか。

 それを思い出す事ができない程、余りにも膨大な時間が流れ去ってしまっていた。

 ただ宇多田ヒカルが、ひた走っていたその順路から降りる決断を下した時に、自分が抱いた印象は、はっきりと思い出せる。

 十五歳の時から、時代の先端の最も切り立った場所で行動を続け、シーンを牽引して来たのだから、この辺りで休息を挟む事は自然だと、その時の僕は思ったのだ。

 その理由づけとして、宇多田ヒカルが選択した“人間活動”と言う言葉に、はっとさせられた。

 この“人間活動”と言う響きには、国境や人種を軽々と跨ぎ越えてゆく事が可能な歌姫も、当然の如く一人の自分達と同じ人間であったのだと言う事実を強く思い起こさせるものがあった。

 仕事や夢の狭間に、本当は最も優先させなければならない筈の自分を支えてくれた肉親や友を置き去りにしてきたのかもしれない。

 地球上に拡散してゆく己の虚像に、知らぬ間に心身が浸食され、自分の本質が見え難くなっている可能性だってある。

 そんな生々しい理由を今更、宇多田ヒカルが語れる筈もないし、誰もそれを望んでなんかいない。

 “人間活動”の四字には世に出る事も、出す必要もない、宇多田ヒカルの胸中や体温が凝縮されている様に思えた。

 しかしそれをすんなりと受け入れる程、この国の世相は器が大きくはない。

 宇多田ヒカルが、“人間活動”に比重を置く様になってすぐに、「彼女が休養に入った本当の理由」等と言う記事が巷に出回り始めたのだ。

 そう言った記事の全てが、推測や出所の不明瞭な伝聞で構成された、胡乱な物ばかりで中には、下品としか言い様のない物まであった。

 当の本人が何も語っていない以上、真実も虚構も、そこには存在していない筈である。

 この手の事はジャンルを問わず、名前が知られてくると誰にでも、ふりかかってくる事だと思う。

 社会の根底には、粘液質な澱み腐った対流圏が常に横たわっていて、人の心の隙間を絶えず狙っているらしかった。

 質が悪いのは、記事を書いた者も、またそれを読んだ者も日常に晒されるとすぐに内容等、忘れ去ってしまう事だ。

 しかし恐らくその餌食になった当の本人には、簡単に拭う事のできないダメージが残り続ける。

 胸奥に蓄積されてゆく損傷によって、心を破壊されてしまった人物等、何人にも及ぶ。

 無責任で泡沫な言い掛かりも、それに絶えず晒されている者の精神には、決して消える事のない深い傷を残す。

 自分にとって今、大切だと思える“人間活動”を優先させた結果、話した事も会った事もない人々が悪意の塊となって、次々と揺さぶりを掛けてくる。

 この激烈な状況に、もし己が陥ったと考えたら、とても耐えられそうにない。

 しかし宇多田ヒカルは一切、何の反論もせず“人間活動”意外の理由を語ろうとしなかった。

 それからも、定期的に宇多田ヒカルの真偽が定かではない情報は流され続けた。

 数年間、シーンから遠ざかり、“人間活動”が終結する気配も感じられなかったので、僕はもう宇多田ヒカルの事を、あまり考えなくなっていった。

 自分の生活にも、様々な変化が起こり、年々、音楽自体を聴き込む事からも遠ざかってゆく。

 ある年代を超えると誰にとっても、時間と言うものは、不思議なくらいに急激に過ぎ去ってゆくものらしい。

 今日を味わい切る前に、もう明日が雪崩込んでくる。

 そんな日々を過ごしていたある夏の終わり、また宇多田ヒカルの名が頻繁にメディアで流れて来る様になった。

 宇多田ヒカルの母親である藤圭子さんが突然、亡くなったと言う。

 数日間に渡り、テレビやインターネットのニュースはその話題で埋め尽くされた。

 自身も大衆の記憶に深く刻まれている歌い手であり、世界でも認知される歌姫の母でもある藤圭子さんの最期は、痛々しく悲しいものだった。

 自分の親を亡くした時の喪失感や悲しみほど、苛烈なものはないと思う。

 それが突発的で、思いも寄らないものだとしたら尚更、深いものだと言う事は人であれば当然、想像がつく。

 自分にとって、自我を見失いそうになる程の出来事が、大衆の目に晒され続けると言うのは耐え難い事だろう。

 そんな悲しみに疲弊しているであろう人への配慮もできないほど、この社会に流れている空気は腐敗している。

 藤圭子さんの訃報は、しつこい程に何度も様々なメディアで取り上げられ続けた。

 暫くして、宇多田ヒカル自身のコメントがWEB上に公開された。

 このコメントの行間からは、藤圭子さんを亡くしてしまった宇多田ヒカルの複雑な心情や、後悔の念が大量に零れ出ていた。

 激しい胸の痛みに苛まれながら、僕はこのコメントを何度か読んだ。

 もう宇多田ヒカルが復活を遂げる事はないのかもしれない。

 再び音楽シーンに帰還を果すにしても、膨大な時間が必要だろうと誰もが思った筈だ。

 それからまた時間が過ぎ去ってゆく。

 僕の生活は、初めて宇多田ヒカルのCDを買ったあの頃から、大きく変化し、潤沢にあった筈の時間や自由は、いつの間にか何処かに消え失せてしまっていた。

 しかしだからと言って、今の生活が嘆く様なものでは決してなく、失ったものよりも多くのものを手に入れられた様な気もする。

 年齢を重ねてゆくと言うのは、そう言う事なのかもしれなかった。

 僕の様な社会と言う大樹の傘下に納まっている人間でさえ、緩やかな変化の中にいるのだ。

 世界中の耳目を集める人物であれば尚更、その振り幅は大きなものになるのだろうと思う。

 宇多田ヒカルは、恐らく誰も手に入れる事等できない、途方もないものを獲得し、そして最もかけがえのないものを失ってしまったのかもしれない。

 浪費した時間に傷つく事もあれば、時間の経過が深い傷口を癒してゆく事もある。

 藤圭子さんが亡くなった夏の終わりから二年が経った盛夏、宇多田ヒカルは母となった。

 その情報にも、余り僕は興味がわかなくなっていた。

 宇多田ヒカルがイタリア人と再婚したニュースをいつか見て、何処かで二人で写った画像を見た記憶が、ぼんやりとはある。

 イタリア人の男性が、好青年と言う印象だったのでとても好感が持てたし、色々と騒がれる日本での煩わしい生活より、海外での静かな生活を選び取ったのだろうと思っていた。

 パートナーとの穏やかな日々。

 それは“人間活動“の着地点としては至極、自然な成り行きであると思う。
                  
 安息の日々を送り、何らかの傷口が存在するならば、それを癒し切った所でまたゆっくりと音楽シーンに関わっていけばいい。

 過去に宇多田ヒカルのCDを聴いていた、多くのリスナー達は、その様に感じていたのだと思う。

 当の宇多田ヒカル本人は、そんな消極的で身勝手な願望を拒否する様に、母親になるとともに“人間活動”を終結し、いよいよ復活に向けて動き始めた。

 数年振りに、数曲の新曲を発表し、秋にはニューアルバムをリリースする事となった。

 かつて時代を席巻した歌姫が、受け止め難い現実を乗り越えた末に、母となり復活を遂げる。

 しかも“人間活動に専念する”と宣言した以上、過去の自分より、人として成熟した姿で帰ってくる事を大衆は待っている。

 そしてどんな形であれ、この数年の間に宇多田ヒカルの身に起こった出来事、全てが確りと歌に反映される事を望んでいる。

 この戦いに逃げずに挑む、宇多田ヒカルは、やはりとても勇敢な人だと思えた。

 否応なく期待値が高まった秋口、ニューアルバム“fantome”はリリースされた。

 僕は、リリースされた直後にそれを購入した。

 秋口は自分の生活でも、仕事でも思案を尽くさねばならない事が山積している時期で、なんとか自我を繋ぎ止めようと僕は躍起になり、焦燥し疲弊していた。

 胸の高鳴りを押さえて、天神橋筋を抜けて毛馬へと続く橋の上から見た薄い秋空の事はよく覚えている。

 家に着いてみると、嫁さんはまだ帰宅しておらず、僕は静かなリビングで“fantome”を聴いた。

 音楽を聴かなくなったここ数年間で、鼓膜に付着した錆が完全に削ぎ落とされて、研ぎ澄まされてゆく。

 約五十分間、鼓膜を通過しその奥に響いてくる宇多田ヒカルの歌声に僕は何度も、心を揺り動かされた。

 宇多田ヒカルは目を背けても、誰も文句等、言えようもないものに真っ向から向かい合い、それをありのまま歌っていた。

 その勇敢さは、僕の深い領域を揺さぶった。

 そして数年振りに聴く、その美声には、以前は稀薄だった哀切や歓喜と言った体温が宿り、深みを増していた。

 かつての斬新さや躍動感は失われておらず、そこに“人間活動”の成果が確りと加わる。

 当然の如く、瞬く間に“fantome”は、世界中の人々の心に拡がっていった。

 僕は惚けた様に、秋から冬にかけて時間が空くと、何度も“fantome”を聴き込んだ。

 頂点を極めて尚、何かを追い求め曖昧な不安が透け初めていた休養前の宇多田ヒカルの姿はそこにはない。

 “fantome”からは最愛の人の死に向き合い、新しい家族と言う安息の存在を手にした事で得た、“今の宇多田ヒカル”の強さが詰まっている。

 年を越え冬になった今も僕は、“fantome”を少しでも早く聴こうと、会社のゲートから最寄り駅までの全力疾走を続けている──

 
 藤圭子さんの事を綴った以上、沢木耕太郎に触れなくてはならないとも思う。