読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あしたの鉄人

戦々恐々の日々

揺れる老木 2

 夏の遠征が近づき、硬式野球部の練習は日に日に苛烈さを増してゆく。

 目前に前期試験が控えていようが、課題小論文やレポートの提出期限が迫っていようが、そんなことは全く配慮されることなどなく、果てることのない練習が日々、続いてゆく。

 この頃、僕と同じ年代に名門高校出身の選手が多数いたため、硬式野球部は創部以来、最強の布陣と言われるほど戦力が充実していた。

 事実、僕の同期生たちは入学してすぐに先輩たちからポジションを奪い取り、今まで苦汁を飲まされ続けてきた格上の大学を相手にした試合でも、一度も負けることはなかった。

 夏の遠征で、よりチーム状態を固め、秋の公式リーグ戦を制し、上部リーグとの入れ替え戦に突入してゆくことになるだろうと部員全員が確信していた。

 弱小野球部などと言われていたチームが突如として変貌を遂げ、勝利を重ねてゆく。

 講義を終えて、クラブハウスに向かうと、そこには熱狂ともよべる濃い高揚感がいつも立ち込めていた。

 もっとも名門校出身でもなく、大した実力もない僕は、練習場や球場で躍動する同学年の選手たちを、外側からただぼんやりと眺めているだけだった。

 レギュラーの座を手中に納めた選手達が実戦的な練習を重ねているのを尻目に、僕や補欠となった数人は毎日、初夏の強い日光に炙られたアスファルトの上を、ひたすら走り続けねばならない状況に陥っていた。

 講義を終えて、仲間たちと笑い合いながら、最寄り駅まで向かう学生たちの傍を汗だくになりながら走り抜ける。

 いつも意識は朦朧とし、自分を縛りつけているこの過酷な時間が、無為なものとしか思えなくなってゆく。

 夏の輪郭が濃くなるにつれ、闇夜が訪れる時刻も遅くなっているはずである。

 しかし疲労感に心身を支配され、ふらふらと寮にたどり着くのは、いつも陽が落ちた後だった。

 そこから練習着の洗濯などに追われる。

 寮には、二層式の洗濯機が数台しか置かれていない。

 寮生の大半が体育会系のクラブに所属しているのだ。

 二層式洗濯機、数台という手薄な物量でその需要に応えられるわけがない。

 くたくたになって寮に帰り、洗濯室を覗いてみても、いつも洗濯機は可動しており、洗濯機が空くまで何度も部屋と洗濯室を往復しなければならなかった。

 しかも二層式洗濯機というのは、洗濯層と脱水層とが別れており、洗濯が終わるとすぐさま、洗い物を脱水層に移し代えなければならない。

 その作業が少しでも遅れると、順番待ちをしている寮生に洗濯物を放り出される羽目となる。

 自分だけの部屋を借りることができ、全自動洗濯機を所持している他の学生たちが羨まくて仕方がなかった。

 この洗濯機の争奪戦は幾度となく、寮内で諍いごとの種となった。

 寮長が何度も学生課に洗濯機の台数を増やすか、全自動洗濯機に代えるかして欲しいと陳情に行ってはいたが、一向に改善される気配はない。

 大半の寮生たちは、洗濯が終わるまでの空白の時間に部屋まで戻っていた。

 しかし僕は何度か脱水層に洗濯物を移し代えるタイミングを逸し、濡れた練習着を放り出されたことがあったので、洗濯が終わるまでの間、そこで待つことにしていた。

 洗濯室の床に腰を下ろし、洗濯が終わるまでの間、本を読むことが僕の日課だった。

 クーラーなんてあろう筈もなく、うだるように暑い寮の中で、洗濯室の床はひんやりとしていて酷く気持ちが良い。

 この時期、僕は沢木耕太郎の“一瞬の夏”を貪るように読んでいた。

 洗濯室で本を読む時間は、僕にとって大切なものだった。

 ある夜、練習着を洗濯機に入れていると洗濯室の扉が勢いよく開いた。

 目をやると一つ学年が上のテニス部の男が立っている。

 男は僕が洗濯物を入れているのを見ると睨みを利かせ、いきなり「かわれ!」と言った。

 僕は、この男と言葉を交わしたことすらない。

 なぜそんな男にいきなり命令されなくてはならないのか。

 僕が通っていた高校は、地域でもガラが悪いことで有名だったし、母親は僕がその高校に通うことになったとき、絶望し泣いてしまったほどだった。

 そんな高校時代に、つき合いのあった野獣のような“ヤンキー”たちと比べると、このテニス部の大学生は滑稽なほど迫力に欠けた。

 無視して洗濯を続けようとすると「代われと言ってるだろ!」と男が怒鳴りながら、近づいてきた。

 寮生活の鬱憤を晴らせる好機だと、僕はなぜか高揚していた。

「なんでお前に代わらなあかんねん!」

 そう言って男に向かってゆくと、男は舌打ちをして洗濯室から出て行ってしまった。

 野球部の先輩か寮長を連れて来られたら面倒なことになるなと頭に過ったが、この場を離れるのが、何だか酷く格好悪いことに思えて、いつも通り、床に座って“一瞬の夏”を読むことにした。

 二層式洗濯機の音が耳に届き、冷えた床からその振動が伝わってくる。

 その感触に身を委ねながら、ぱらぱらとページをめくっているといつもすぐに“一瞬の夏”の世界に身を浸すことができた。

 日本人と米国系黒人とのハーフであるボクサー“カシアス内藤”と沢木耕太郎の姿が僕の脳裡に現れる。

 センスに恵まれながら、根の優しさと臆病さとが足枷となり、リングの上で煮え切らないボクシングを続けているカシアス内藤

 彼は三度、東洋チャンピオンの座に挑戦する機会を得るものの、その都度、敗退を繰り返す。

 いつもカシアス内藤の挑戦を退けるのは柳という韓国人ボクサーであった。

 沢木耕太郎は同年代ということもあり、カシアス内藤に興味を抱き、取材を続ける。

 いつしかそれは取材という範疇を超え、沢木耕太郎カシアス内藤というボクサーと、ともに歩み始めるようになる。

 燃え尽きることもなく、己の熱量や夢といったものを、現実との摩擦によってすり潰されてしまった内藤は消え入るようにボクシングの世界から、いつの間にかいなくなっていた。

 後に“深夜特急”として綴られることになる一年にも及ぶ、長い旅を終えて帰国した数年後、沢木耕太郎は己が生きてきた道程から弾き出されたカシアス内藤が、再び自分の居場所を求め、ボクシング界にカンバックしようとしていることを知る。

 多くの旅人のバイブルとなっている“深夜特急”は、世界旅行の紀行文として世の中には知られているように思う。

 しかしその旅の本質は、若きノンフィクションライターの世界見聞録というような優雅なものではない。

 沢木耕太郎がその旅に出たのは、外国が文字通り、自国の遥か外側に位置していた年代である。

 現在のように国境が緩くなり、PCの画面から地球上にいる誰かの生活を覗くことができるような時代ではなく、異国の文化や治安の不透明な部分は己が身を投じてしか確かめることができない頃だ。

 沢木耕太郎は何ごとかにアプローチをするとき、必ず人とは異なる方法を試みる人物だと僕は認識している。

 未知の世界と対峙した若き沢木耕太郎は、インドのニューデリーからイギリスのロンドンまで乗り合いバスだけを使って行き着こうとする。

 ユーラシア大陸を路線バスだけを使って横断してゆく。

 これはなかなかに無謀で、イカれた行為のように映るし、かなりの熱量と勇敢さを持ち合わせていないと成就できないことのように思える。

 “深夜特急”から影響を受け、海外に旅立った末に、運悪く様々な危険に遭遇してしまった若者も少なからずいることだろう。

 そこには気の抜けない日々が、連なっていそうだと想像できる。

 そんな張り詰めた渡航の中にあって、若き沢木耕太郎は将来への不安や、社会や自我との折り合いのつけかたに葛藤したりする。

 長大な“深夜特急“の中に時折、出てくるこのシーンが僕は好きだった。

 これが執拗なものだったり、過度に感情的なものだったりすると途端に自分には合わなくなる。

「あぁ面倒くさ。安っぽいな」と萎えてしまうのだ。

 生々しくならない程度に挿入されている自己語りは、逆に真に迫ってくるものがある。

 この辺のバランス感覚を持ち合わせることが、嫌悪感や疲労感を与えずに、人にものを伝える“技量”のようなものらしかった。

 長い旅を終えた沢木耕太郎は、帰国するとともに再びルポルタージュを書き始める。

 ルポルタージュの書き手というのは、あくまでその取材対象である人物や事柄が存在しているから成り立つ職業である。

 語り手は、その役割を全うせねばならず、自分の思考や意思を伝えたいと願うならば、対象の行動や思念に沿う形で小出しにしてゆくしかない。

 それは、果たして自分の道程を全力で生き切っていると言えるのか?

 沢木耕太郎の作品からは、そのことで悩んでいるらしいことが伺えた。

 悩みの濃度が四六時中、思考を支配しているほど濃いものなのか、それともふとした瞬間に自我を掠めてゆく程度のものなのか、その辺りは読み手側が、勝手に想像するしかない。

 同じ作家が綴ったものを、幾つか読み進んでゆくと、その作家の人生観や悩みの輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる時がある。

 ある時期までの沢木耕太郎が綴ったものからは、ルポルタージュライターという職業への迷いみたいなものが染み出していた。

 ただある年齢に差し掛かると、生きてゆく上での役柄など、自分の道筋にとって大した問題にはなりえないことに人は気づいてゆく。

 “一瞬の夏”での沢木耕太郎は思う存分、自我をぶつけている。

 カシアス内藤というボクサーを取材対象とし綴られてはいるが、それは決してカシアス内藤一人にフォーカスしたものではなく、何かが吹っ切れたように沢木耕太郎はそこに介在し、“主観“をぶつけその物語を書き切る。

 “一瞬の夏”は“私ノンフィクション“と命名され、ルポルタージュの中に新しい方法論と可能性を示したことで新田次郎文学賞を授賞した。

 “一瞬の夏”の以前に、沢木耕太郎カシアス内藤の東洋タイトルマッチに同行した時のことを描いた“クレイになれなかった男”という短編を発表している。

 そのラストシーンで不甲斐ないファイトに終止したカシアス内藤が弁解するように「僅かなファイトマネーで命を掛けるような試合をするわけにはいかない」と呟く。

 その言葉を聞いて沢木耕太郎は深い徒労感に襲われながら「いつそんな試合をするの?」とカシアス内藤に問う。

「いつか…そういう時がきたら、いつか…」

 それを聞いた沢木耕太郎は、人間には“燃え尽きる人間“と“燃え尽きない人間“、そして“いつか燃え尽きたいと願い続ける人間”の3つのタイプがあると結論づける。

 その直後、恐らくカシアス内藤にそのいつかがやってこないように、自身もいつかを迎えることはないだろうことを悟る。

 このラストシーンからは、ある種の強い哀切と酷く湿ったものが感じられる。

 それから数年が経った“一瞬の夏“でカシアス内藤沢木耕太郎は、今度こそ燃え尽きようと再び試みるのだった。

 “一瞬の夏”のラストは、“クレイになれなかった男”のように湿ったものではない。

 タイトルマッチに敗れたカシアス内藤には暫くして子供が生まれ、沢木耕太郎はその“一瞬の夏”でタイトルを得た。

 自我が燃焼するような瞬間は、やってこないのかもしれないが、それに向かって挑戦することは決して無駄ではないという前向きなメッセージを沢木耕太郎は自身と読み手に激しさを持って伝えている。

 “一瞬の夏”の中に沢木耕太郎が高崎までカシアス内藤の対戦相手である若いボクサーを取材しにゆく場面がある。

 そこで取材しにゆくのか、ある同じ夢に向かって突き進んでいる内藤のために偵察しにゆくのかという葛藤が生じる。

 そのあたりを夢中で読んでいると、不意に洗濯室の粗末な扉が開いた。

 この学生寮には不釣り合いなスーツ姿の男が入って来て、僕を見て「君か…」と呟いている。

 この人物は学生課の吉岡さんという人で、野球が好きらしく、高校生になる息子さんを連れて我が野球部の試合を頻繁に観に来てくれていた。

 そんな吉岡さんがなぜ寮の洗濯室に、いるのかと不思議に思い「どうしたんですか?」と僕はすぐに尋ねた。

「また洗濯室で学生が揉めてるって寮母さんから電話があったんだよ」

 吉岡さんの返答に激しい怒りが湧く。

 先程、言い掛かりをつけてきたテニス部の男が寮母さんに何事かを言ったらしい。

「いや別に何もないっすよ」と言って事情を説明している最中に酷く億劫な気分になり、弁解めいたことをしている自分に嫌気がさした。

 僕がとるに足らないような男を相手にしたばかりに、吉岡さんはわざわざこの寮まで足を運ばなければならなくなったのだ。

 すぐに謝罪に切り換えると「野球部にとって大事な時期なんだから、つまらないやつを相手にしてはだめだよ」となんとも優しい言葉を掛けてくれた。

 何故か張り詰めていたものの何処かが決壊したような気分に襲われ、涙が零れそうになる。

 それを何とか押し留めていると「うちの息子は来年、東京へ進学するんだけど、君たちくらい逞しかったらなぁ」と吉岡さんが息子さんの話を始めた。

 球場で見掛けた息子さんの線のか細い姿が思い出された。

 確かにあの子が一人で東京に出てゆくとなると心配は尽きないだろうと思う。

 うちの両親のように「どうとでもしよる」と言うスタンスではいられなそうだ。

 脱水が終わるまでの間、吉岡さんは僕につき合ってくれて、様々な話をした。

 その行為が親元から離れて、時代にそぐわない寮で集団生活を送っている僕の何らかの感情を癒そうとしてくれていることは明らかだった。

 高校時代の僕は、なかなか進路を決めきれず片田舎の街に残り、アルバイトをしていたレンタルスキー屋でそのまま就職でもしてしまえばいいとくらいに思っていた。

 大して勉強などに励んでいなかったが、極端に偏差値の低い高校では目立つくらいには成績は良かった。

 進路を決める時期になると、担任の教師から学校推薦を受けられるからと強く大学への進学をすすめられた。

 教師はうちのクラスから大学へ進学する生徒を出したいと熱っぽく語り、文章が巧いという理由から、小論文で試験が受けられる大学を僕より熱心にピックアップして渡してくれた。

 大学への進学を薦められるなどと夢にも思っていなかった母親は酷く感激し、やたらと僕の行く末に介入してくるようになった。

 父親の方は「金がかかるなぁ」と露骨に嫌な顔をし、「三つだけ受けてもいい」と言ってくれた。

 最初は乗り気ではなかった僕も、同じ年齢の子たちに文章を書くことで負けるのは嫌だと思い始めた。

 そんな経緯で始まった大学生活は、野球部の練習と寮での集団生活にただ疲弊してゆくだけの日々だった。

 運動部にも所属せず、自分だけの部屋を借りアルバイトや宴会にだけ精を出しているような学生たちには、何とか一矢報いねばならない。

「頑張ってね」と吉岡さんは僕に声を掛けて、洗濯室から出ていった。

 興味の湧かない語学系やペーパーテストを用いている講義の試験で負けるのはいい。

 しかし文章を書いてレポートを提出する講義で負けるわけにはゆかない。

 大学の四年間で僕は様々な文章を書く機会に恵まれたが、その全てにかなりの熱量を込めて挑んだ。

 文章を書くうえで、いつも沢木耕太郎が綴ったものを頭に置いた。

 何とか揺るがない自我を築き上げんと躍起になっていた時期に、沢木耕太郎に触れていたことで多くのものを学んだと思う。

 社会との距離感や、人や事象を見るときの方向の変え方など、それは多岐に及ぶ。

 そんな沢木耕太郎が老いて、判断を誤ったのではないかと疑念を抱く日がくるとは、当時は思いもしなかった。