あしたの鉄人

戦々恐々の日々

三億円事件 2

 いつもと同じく、長い休みの初日の朝は、二日酔いからくる不快感のなかで明けていた。

 一年のうち、そう何度もない長期休暇が始まったというのに、なんの昂りも感じられない。

 休みが始まってしまうと、あとは終わりに向かって、急速に時間は過ぎていく。

 高揚感が大きければ、休暇が終わるときに激しい喪失感を感じることとなる。

 それが嫌な所為か、いつの頃からか、なるべく平静な心持ちで休日を過ごすようになった。

 ぼくの胸奥が、よけいなことを考えずに解放されるのは、休暇前日の仕事後の夜だけである。

 その夜は、痺れるほど自我が高ぶる。

 仕事が無理なスケジュールで進んだあとだったり、疲労感が深いときほど、休暇前夜の胸の高鳴りは大きい。

 いまの自分は、そこに大きな喜びを感じているらしかった。

 リビングのテーブルの上に、真新しい紙製のブックカバーに包まれた、文庫本が置かれている。

 昨夜、忘年会の帰りに、アルコールでうわついた意識のなかで、深夜でも開いている大型書店によって、買ったものだ。

 忘年会が始まるまでの、時間潰しで入ったイオン内の書店で、目についた本があった。

 話題になっている書籍が、大量に平積みされた棚の上に、その本も置かれていた。

 三億円事件の真犯人と名乗る人物が今年、ネット上にあらわれ、真相を語ったらしい。

 そのネット上の独白がまとめられて、書籍として売られていた。

 結局、その本が気になり、ぼくは酒に酔いながらも、深夜でも開いている近所の大型書店によってみたのだった。

 少し動揺したのは、自分がその本の存在をまったく知らなかったことだ。

 三億円事件にぼくは若い頃から、強い興味を持っている。

 興味を持つと言うよりは、惹かれていると言った方がいいのかもしれない。

 この事件をベースにした小説や映画は、数多く存在し、いまでも定期的に新しいものが世に出てきたりする。

 その殆どに、ぼくは目を通してきた。

 しかし話題になっていたらしい、この独白本のことを、ぼくはまったく知らなかった。

 少し前から気になっていたことだが、どうやら自分のすすんでいる道程は、緩やかに今までとは、違う順路に踏み入っているようだ。

 必死になってなにかを獲得しようとしていた時期は、いつの間にか終わっていて、今はそのなんとか手にしたものを、堅守していく段階に入っている。

 忙しいと呆けていた所為で、そんな自分の周囲の変化にすら気づかないでいた。

 自我のアンテナの範囲が狭くなっているというのに、自覚症状すらなかった。

 刺激的なことや、気持ちが上がることが少なくなったと嘆いている場合ではない。

 己の範囲を、自分で狭めているだけのことだったのだ。

 うっすらとそんな焦りを感じていた所為か、ぼくは酒が入りつつも深夜の大型書店にむかったのだった。

 大型書店でも、やはり話題の書籍として、その本は高く積まれていた。

 早速、ぼくはその“府中三億円強奪事件を計画、実行したのは私です ”を手に取り、軽く目を通してみた。

 冒頭のかなり早い段階で、ぼくは少し落胆し、この本を買うまいと決めていた。

 妻を亡くし、自身も病魔におかされている老いた男が、息子に促されて、自身が実行した三億円事件の詳細をネット上に公開する。

 残念ながらそこには、ぼくが求めているものはないように思われた。

 雷雨の府中刑務所前で、強烈な行動をとった男と、後づけのような貧弱な理由で突然、ネット上に出現したこの老いた男が、同じ延長線上に存在しているとは到底、思えなかった。

 そうなってくると「わたしが、真犯人です 」と名乗って、ネット上に出現し、注目を浴びたがっているだけの軽薄な人物の姿だけが浮かび上がってきてしまう。

 そんな人物が、書いたものをぼくは読みたいとは思わなかった。

 ただこの一連の流れも、ネット上でリアルタイムで目にしていたら、印象はずいぶんと違ったものになっていたと思う。

 ネットには、書籍にはないライブ感と言うものがある。

 三億円事件の真犯人を名乗る人物が、ネット上に出現したとなると、その場はすごく盛り上がったんだろうなと思うし、おもしろそうな気もする。

 場がざわつき、あらゆる質問や感想が、ユーザーから書き込まれたんだろうことは想像がつく。

 ただ残念ながら、こうやって書籍になって、冷静にみてみると、そのチープさや稚拙さばかりが浮きぼりになってしまう。

 三億円事件ともなると、今まで数えきれないほど、ノンフィクションや小説の題材にされてきた。

 そのなかには、映画化された“閃光”やヒットメーカー、横山秀夫のデビュー作である“ルパンの肖像”など名作が多数、存在する。

 書籍化となると、やはりそこと比較してしまうのだ。

 それにノンフィクションとして、自分が真犯人になり切るのであれば、嘘でもいいから、その証拠を読み手に突きつけてほしかった。

 三億円事件で盗まれた現金のなかには、わずかだが、札に刻まれた“記番号“が判明しているものが存在する。

 五百円札で二千枚分のナンバーが、わかっているのだ。

 しかもどういう狙いや、意図があったのかは不明だが、事件が発生して早々に捜査本部は、このナンバーすべてを、公表してしまっている。

 この二千枚は、事件発生当初から現在まで、一枚たりとも世間には流通していない。

 そのため犯人グループがその二千枚を焼くなり、なんなりして処分したか、どこかに隠蔽したんだろうというのが定説となっている。

 真犯人を名乗って、独白するのなら、その五百円札のナンバーの画像を、フェイクでもなんでもいいから、ネットに晒すくらいの気概がほしかった。

 思い入れが強いせいか、三億円事件の真犯人を名乗るのであれば、それなりの覚悟や知識を持ってやれよとか勝手に思ってしまうのだ。

 もしくはエンターテイメントとしてつき抜けろよと。

 それはそれで十分、おもしろいし受け入れられる。

 質が悪いのは、三億円事件のネームバリューだけをかりて、浅い知識だけで表面を撫で、エンターテイメントとして昇華していないものだ。

 そういうものと関わると“あぁ時間の無駄だったな“と酷い気持ちになる。

 そんな勝手な思い入れがあるぼくが、三億円事件のことを考えるおりに、犯人としていつも頭にあるのは、白バイに跨がっているたけしさんの姿だ。

 府中刑務所前の道路で、三億円が強奪されるときの再現映像には、様々なパターンのものが存在する。

 そのなかには、再現場面の筈なのに雨が降っていなかったり、快晴だったりと、まったくリアリティがないものも多い。

 雷雨のなかであっても、緑色のシートを引きずっていなかったり、府中刑務所前ではなく、ただの郊外での犯行になっていたりとみている途中に、細部で冷めてしまうことも多々ある。

 そんななかでぼくの心に強く印象に残っているものが、三つほどある。

 一つは若き日の、織田裕二が実行犯を演じているものだ。

 この作品は織田裕二の熱演が、全編の空気を引き締め、リアルな緊迫感を見事に生み出している。

 なかでも三億円を強奪していく時の、あの疾走感とひりひりした感じは、織田裕二にしか出せないものだと思う。

 二つ目は、実行犯の役をまさかの宮崎あおいが、演っている映画“初恋”である。

 三億円事件の犯人が、少女だったらという独創的な切り口が目を引く。

 この映画は、そんな大胆な試みをしながらも強奪シーンでは、雷雨、緑色のシート、府中刑務所の黒い塀と細部までこだわって再現されている。

 しかも白バイに絡まってしまったシートを、宮崎あおいが雨の中で必死になってはずそうとするのだが、少女の力では、はずすことができずに焦るというシーンまでがある。

 しっかりと史実に沿って、実行犯が少女だったらという設定を成立させている。

 ただこの映画全体の内容となると、あまり思い出すことができない。

 なにか“硬いなぁ“という印象くらいしかない。

 “初恋“というタイトルなのに、ポップさがあまりなく、息苦しさばかりを感じた記憶がある。

 もう何年も前にみた映画のことなので、すべてが曖昧で感想などを書ける状態にはない。

 そしてもっとも、ぼくの中で強く印象に残っているのが、ビートたけしさんが実行犯役を演じたものだ。

 三億円事件の実行犯は若いとされているが、この時のたけしさんはすでに四十代だったと思われる。

 この作品は、テレビ用の映画として撮影されたもので、当然、北野映画ではない。

 当時、たけしさんは大久保清役や児童輸血拒否事件の父親役など、実際に起こり、社会に大きなインパクトをあたえた事件の人物を演じることが多かった。

 三億円事件で、淡々と白バイに跨がるたけしさんは、無表情なのに特有の狂気を撒き散らし、一度みたら忘れられないくらい絵になっていた。

 このテレビ映画では、立川のあるグループが犯行を起こしたことになっている。

 たけしさんは、その中で先生と呼ばれている立場で、犯行グループの他の二人を長瀬智也松田龍平が演じている。

 テレビ映画にしては、今では考えられないくらいの豪華キャストである。  

 悔やまれるのは、映画ではないので、レンタルなどがされていないことだ。

 このテレビ映画、“三億円事件~二十世紀最後の謎~”の原作はフィクションではない。

 一橋文哉氏が書いた同名の、ノンフィクション小説である。

 これが数多ある事件物ノンフィクションの中でも、頂点に位置するくらいのおもしろさなのだ。

 一橋文哉とは、東京の一ツ橋に席を置く、新聞記者たちのリーダーのペンネームだとされている。

 一ツ橋のシンブンヤで、イチハシフミヤ。

 記者出身の書き手が、手掛けただけあって、この“三億円事件”は、莫大な量の資料の整理と、徹底的な取材によって構成されている。

 三億円が強奪された時の、詳細な状況や関係者の証言、犯人が残していったとされる遺留品など、そんな膨大な資料に一橋氏が長い年月をかけて、丁寧に向き合ったことがわかる。

 その本の中で、一橋氏は三億円事件の真犯人だと思われる人物にぶち当たり、何度も取材をこころみている。

 ただ三億円事件が、時効という結末を迎えている以上、どの人物も真犯人とはなりえず、怪しいという範疇から出ることはない。

 永遠に真実を知ることができないのが、未解決事件というものである。

 よく酒の席などで“俺は真犯人を、知っている“みたいなことを言う人物がいるがセンスのないひとやなぁと思ってしまう。

 それはだいの大人がああでもない、こうでもないと、無駄に熱くなるところに楽しみがあるとぼくが思っているからである。

 ぼくは、この一橋氏が唱える真犯人説を支持している。

 それは単純に、読んだ関連書籍のなかでもっとも、一橋氏の本が印象に残っている所為だ。

 一般的に三億円事件の真犯人として知られているのは、事件から五日後に青酸カリを飲んで自殺した“S少年“である。

 このS少年は、バイクや自動車の窃盗を繰り返していたり、父親が白バイ警官であったり、モンタージュ写真に激似だったりと、犯人ではないかと疑われる要素を周辺に数多くもっている。

 ただやはり逮捕されなかった以上、逆に真犯人などではないという証拠も、たくさんあるのだ。

 三億円事件の捜査にあたったのは、帝銀事件や吉展ちゃん誘拐殺人事件を解決した昭和の伝説の刑事、平塚八兵衛である。

 この平塚八兵衛が少年の両親から何度も事情を聞いた結果、犯人ではないという結論を出した。

 S少年は、三億円事件以前の一年間を鑑別所に出たり入ったりし、無為としか言いようのない日々を生きている。

 犯人サイドからみれば、三億円事件を実行する直前の一年間は重要な準備期間であったはずだ。

 事件では、日本信託銀行国分寺支店や支店長宅への文書による執拗な爆破予告が、効果的な役割を果たしている。

 この脅迫文書が送付された日の大半、S少年は鑑別所のなかで身柄を拘束されていた。

 念のため捜査本部は、脅迫文書の筆跡鑑定を行ったが、S少年の筆跡とは一致しなかった。

 では、鑑別所にいるS少年に協力した何者かがいたのだろうか。

 平塚は、協力者の存在を否定している。

 そもそもS少年はバイクや車の窃盗や暴走、コンビニ強盗など、短絡的な犯罪ばかりを起こしている。

 そこにはなんの計画性もなく、S少年が世間で言われているようなカリスマ性と知性を合わせ持った悪党などではないことが伺える。

 大体、車やバイクの窃盗ですぐに逮捕されているような男が、用意周到な完全犯罪を計画できるとは考え難い。

 誰かがS少年に指示を出して、三億円強奪を実行させたという線はあるのだろうか。

 長期的で的確な犯行計画からすると、この事件を統括していたのは、とても冷静で成熟した人物だったと思われる。

 供述によるとS少年というのは、昭和のプロトタイプを地でいくような不良少年であったらしい。

 そんな男が大人の言いなりになって悪事を働くようなダサいことはしないだろう。

 社会や権力への反発こそが、彼らを突き動かすエネルギー源のすべてである。

 大人が介入してきた時点で、S少年は身を引く筈だ。

 ではなぜ実行犯のモンタージュ写真に、S少年は酷似していたのだろうか。

 ここには、あまり知られていない捜査本部の怠慢ともいえるある事実が存在する。

 よく知られている犯人のモンタージュ写真は、じつはモンタージュなどではない。

 捜査本部は三億円事件が起こって、すぐに実行犯としてS少年をマークした。

 立川に住み、バイクの改造や運転に慣れた札付きのワル。

 その父親が、白バイ警官だとなると捜査本部は、もう犯人がS少年だと決めつけていたふしがある。

 そのためモンタージュ写真などは制作されず、S少年によく似た、少し前に事故で亡くなった人の写真を、そのまま犯人として世間に公表した。

 このまったく関係がないのに、犯人として写真を晒されてしまった、亡くなった人の遺族はその後、警視庁に強く抗議している。

 大体、激しい雷雨の中での混乱した状況で、現金輸送車に乗っていた行員たちが犯人の顔を、はっきりと覚えているはずがない。

 こうして捜査本部から厳しくマークされたS少年は、事件から五日後に青酸カリを飲んで自殺してしまう。

 その日、別件逮捕を目論んで、S少年の家を訪れた捜査員に応対した母親が「息子は出掛けてていない 」となぜか嘘をつく。

 その後、S少年の家から揉めているような声がし、不自然な物音がするなどしたため、もう一度、捜査員が踏み込むと、今度は父親が出てきて「息子が自殺しました 」と衝撃的な事実を口にする。

 この日のS少年宅の現場検証によると、なぜか青酸カリを飲むためのコップが二つ用意されていたとなっている。

 状況からすると、世間を大きく騒がせる三億円事件を起こしてしまった息子と、家族の誰かが無理心中をはかったが、S少年だけが亡くなってしまったのではないかと推測できてしまう。

 これが今でも、S少年が実行犯だと言われる悲しすぎる根拠である。

 若き日の織田裕二が演じたのが、このS少年であった。

 この後、平塚はS少年の両親を何度も事情聴取し、厳しく追及する。

 その結果、平塚は「S少年は三億円事件とは無関係である 」という結論を出したのだった。

 ただやはりどう見ても、突然のS少年の自殺は不可解であり、母親はなぜS少年は不在だなどと嘘をつかねばならなかったのか? 

 この辺りが不透明なため、S少年犯人説は根強くあるのだと思う。

 平塚はこの家族のことを考えて、全ての事情は明白にせず、濁したままにしたようである。

 S少年の両親の供述証書と平塚が残したメモを合わせて読んでみると、あの日、あの家族になにが起こっていたのかが、朧気ながら見えてくる。 

 残されている資料によると、S少年の両親はわが息子が、三億円事件の犯人だと疑われているとは、まったく知らなかったようだ。

 どの親でも、成人していない息子があんな大事件を起こすことができようとは思わないだろう。

 ただS少年が度々、起こす犯罪行為によって、この家族はもう後がないくらいの所まで追い詰められていた。

 警察の事務職畑を歩いていた父親は、S少年が逮捕されたことで左遷され、中年に差し掛かってから、白バイ隊に入隊しなければならなくなった。

 そうなってもまだS少年に、更正の兆しは見えない。

 それ所か、あろうことか身柄を拘束されている鑑別所から脱走まではかった。

 このままS少年を放っておけば、家族が崩壊するのは目に見えている。

 次になにかS少年が、しでかしたらその時は… 母親は、そんな悲壮な決意を固めていたのかもしれない。

 そんな今にも、臨界点を迎えそうな家族の元にいきなり刑事が尋ねてくる。

 刑事はS少年が、三億円事件と関係があるかもしれないとは一言も言っていない。

 ただこの刑事の訪問という事実が、S少年家族のなにかを壊した。

 S少年が悪事を重ねるたびに、少しづつ亀裂が入っていた家族間の重要なパーツは完全に破壊され、なんとか繋ぎ止められていた感情の渦が決壊する。

 そして家族のなかで、なにか決定的なことが起こり、S少年は亡くなってしまう。

 S少年の両親の供述調書や、平塚のメモを合わせて読むと、少年の死が自殺ではなかったことと、三億円事件が彼の死とはなんの関係もなかったことが読みとれる。

 そしてこのS少年の死は世間や捜査本部の耳目を集め、結果的に三億円事件の真犯人を隠してしまうという効果を生んだ。

 では真犯人は誰なのか?

 S少年家族のごたごたに、捜査本部や社会の視線が注がれるなかで、真犯人たちは巧妙に逃走を図ったのではないか?

 じつは、S少年の顔見知りに三億円事件の後、アメリカに渡った三人組が存在する。

 この三人組は、“先生“と呼ばれる中年の男、“ジョー”と言う黒人とのハーフ、“ロク”と言うレーサー志望の若者からなるグループである。

 しかも一橋氏の著作によると、先生は、元警察官で身内がらみで、日銀と東芝府中工場、そして警察に恨みを持っていたとされる。

 ただ読んだ印象からすると、先生が日銀や東芝に恨みを抱いたとされる理由が、なんとも曖昧で取材班のこじつけにすぎないのではないかともとれてしまう。

 そして日銀や東芝、警察に恨みがあったとしても、なぜそれを晴らすために三億円事件を起こす必要があるのかが、何度、読み返してみてもぼくにはよくわからなかった。

 このあたりがノンフィクションというジャンルの難しいところで、ただ収集した情報だけを書き連ねていったところで、誰がそれを飽きずに最後まで読んでくれるのかということになる。

 読者の目を引きつけようとすれば、当然、起きた事実をもとにした演出が必要となってくる。

 この先生の怨恨の話は、ノンフィクションの領域を超えてしまっているような気もするのだが、本の前半部分でかつてないほどの綿密な取材がなされているため、それが効いて、ただの脚色とは取りにくくなっている。

 この三人組が、登場したあたりから、一橋氏の著作“三億円事件”は急激に加速していく。

 先生の共犯とされるジョーの父親は、米軍の横須賀基地に務めていて、そのせいでジョー自身も米軍関係者に友人が多くいたらしい。

 取材班は、先生が三億円強奪の計画をたて、ロクがそれを実行し、ジョーがその三億円を横須賀基地に隠し、あるタイミングで米軍機に乗せ、アメリカ本国に持ち出したのではないかという仮説をたてる。

 本の後半部分は、いよいよアメリカで実業家となった先生に取材班が、数々の疑問をぶつける“最終決戦”へと突入していく。

 かつて沢木耕太郎氏が、ロス疑惑の三浦知義と対峙したときの文章を読んだときもそうだったのだが、ジャーナリストが事件の核心に迫るシーンというのは、鋭い緊張感に満ち溢れたものとなる。

 そこには、決して小説からは、感じることのできないひりひりとした臨場感と迫力が生まれる。

 これは現実をもととした、ノンフィクションを読むことでしか味わうことのできないものだと思う。

 ぼくが、定期的にノンフィクションを読んでいるのは、そんな臨場感を味わいたいためでもある。

 三億円事件では、便宜上かも知れないが誰も直接的な被害を受けていないことになっている。

 犯行が鮮やかだったため、強奪の瞬間には誰も傷ついていないし、消失した三億円も海外の保険会社によって補填されている。

 ただ加害者として疑われている人物は、皆、不幸になっている。

 S少年は不可解な死を遂げ、先生、ジョー、ロクからなる三人組も、誰一人として浮上していない。

 テレビドラマで三人組を演じた、たけしさん、長瀬智也松田龍平からは、なんともいえない哀しみが滲み出ていた。

 忘年会帰りの、酒で揺らいだ自我には、大型書店の照明が煩わしくてしかたがなかった。

 ぼくは、興味を失った“府中三億円事件を起こしたのはわたしです”を派手なポップの下に戻した。

 その横に数冊だけ、申しわけ程度に積まれている本があることに気がついた。

 それはNHK取材班が、“グリコ森永事件”の捜査員300人へのインタビューをまとめたものだった。

 これは、ぼくが大好きな番組であるNHKスペシャル“未解決事件”の記念すべき初回放送が書籍になったものだ。

 最近、加筆され文庫化されたらしかった。

 なぜネットを騒がせただけの与太話が高く積まれ、記者が苦労して纏め上げたであろう“グリコ森永事件捜査員300人の証言”が数冊しか置かれていないのだろうか。

 そんなものかと思い文庫の方を手に取り、レジにむかった。

 閉店が近付いている所為か、店員さんはレジにはおらず、自動ドアの点検をしていた。

 店員さんを呼びに自動ドアに近付くと、アルコールの抜けていない疲れきった自分の赤ら顔が硝子に映り込んだ。

 なんともいえない気分になった。