あしたの鉄人

戦々恐々の日々

三億円事件 2

いつもと同じく、長い休みの初日の朝は、二日酔いからくる不快感のなかで明けていた。 一年のうち、そう何度もない長期休暇が始まったというのに、なんの昂りも感じられない。 休みが始まってしまうと、あとは終わりに向かって、急速に時間は過ぎていく。 高…

三億円事件 1

初めて降り立った駅は、師走の喧騒に包まれていた。 会社員生活が長くなるにつれ、仕事などで関わる人の数は年々、増えていく。 あらゆる人をのみ込みながら、コミュニティーの外周はいつの間にか広がっている。 そんな人との繋がりも、仕事や家庭の雑事に追…

揺れる老木 3

約十年振りに再会した親友と酒を呑んでいた。 互いの近況を報告し合った後で、他愛もない話が続く。 酒を呑んでいる彼の横顔を見ていると、不意に自分の中でなにかが明滅し、そして弾けた。 日々、積み重ねられてゆく記憶によって随分、下の方に追いやられて…

揺れる老木 2

夏の遠征が近づき、硬式野球部の練習は日に日に苛烈さを増してゆく。 目前に前期試験が控えていようが、課題小論文やレポートの提出期限が迫っていようが、そんなことは全く配慮されることなどなく、果てることのない練習が日々、続いてゆく。 この頃、僕と…

揺れる老木 1

沢木耕太郎のことを初めて知ったのは、確かまだ高校生の頃だったと思う。 当時、好んで読んでいた作家の本の“あとがき“に、不意にその名が出てきたのだ。 その“あとがき“の中で、僕が好きな作家は沢木耕太郎への熱烈な思いを何の気後れもなく語っていた。 同…

宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 3

仕事を終えて、会社のゲートを潜ると細い路地に、最寄り駅に向かう人達の列がびっしりと伸びていた。 会社の規則は厳格で、だらしない服装をした人等いないし、況してや歩きながら煙草を吸っている人や、スマホを操作している人も見受けられない。 この細い…

宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 2

早朝に目を覚ますと、窓の外には朝焼けに染まる空が見えた。 傍に建つ高層住宅を覆う灰色の壁面に、紅みが差している。 幸い出勤時間までには、まだかなりの余裕があった。 ベランダで一服しようかと煙草盆を手に取り、立ち上がる。 あるノンフィクション作…

宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 1

結婚式を挙げるために、長野へ向かうバスの道中で、僕は脇目もふらずにこのブログを書いていた。 挙式直前の所為か、様々な感情が複雑に絡み合いながら去来し、それらはどうやら名神高速の途中で、自分が管理できる範疇を超えてしまった様だ。 妙な緊張や、…

相方 2

我が家のリビングは来客があると、必ず濃いソースの匂いが立ち込める。 それは最近の僕が、訪問者と酒を酌み交わす折りに、アテとしてお好み焼きを好んで選んでいる所為だ。 長方形の鉄板の上を、均等に半分に分け、二枚のお好み焼きを焙る。 どろどろと粘り…

相方 1

ケータイを片手に玄関の外に出て、階下を覗くと、前の歩道をきょろきょろしながら歩いて来る男の姿が見えた。 欠かさず筋トレを続けている所為か、長らく続いた運送屋でのバイトによる為なのか、判断はつかないが、相変わらず男のガタイは良かった。 身なり…

試行

リビングに置かれているテーブルの周囲には、濃いソースの匂いが満ちていた。 目の前にあるホットプレートの上で、お好み焼きが泥々としたソースにまみれている。 その光景は、僕の食欲を強烈に刺激した。 夕刻に、職業訓練学校時代の友人が我が家に遊びに来…

捕獲

会社のゲートを出て、最寄り駅への階段を昇ってゆく。 沈みつつある陽が、低空から遠くに見える市内の街並みを照らしている。 改札口を出て、ホームに下りた所で職業訓練学校時代の友人と出会った。 「何かええ事でもあったん?」 僕の顔を見るなり、彼がそ…

バス停

仕事から、帰るとまだ嫁さんが帰宅していなかった。 今日は僕の方が、早く仕事を終えた様だ。 先に帰宅した方が、夕食の準備をする。 それが我が家のルールである。 仕方なく、米を炊く用意をしていると電話に嫁さんからの伝言が入ってきた。 “体調が悪いか…

ホセ

銀行の応接室から出て、後方を振り返ってみると銀行員のお姉さんが、僕に向かって頭を下げ続けていた。 急激に、何だか申し訳ない気持ちになり、何か言おうと思ったが、巧く言葉が出てこない。 「ほ、ほんまに真剣に考えます!」 と理由の分からない事を口走…

中村文則と言う流れ

何とか“お盆休み”に辿り着いた時、僕はやっぱり疲れ切っていた。 日常を、熟すだけで疲れた等と言っている自分は何ともみっともない限りである。 上半期は、本当にありがたいくらい仕事が忙しく、家庭の方でも、やっておかねばならない事が手に負えないくら…

キン肉マン

うだる様な暑さの中、保護具を着けて作業している所為か、時間に常に追われているためか原因はよくわからないけれど、ここ最近、ずっと頭が潤けている様な気がする。 仕事の事も、家庭の事も考えねばならない事案は、僕の脳髄の容量から溢れ出る程、あると言…

広島 2

何故、僕が急に“広島に行こう!”と思い立ったのかと言うと、それには嫁さんとその御両親が深く関わっている。 お義父さんの趣味は、世界遺産巡りだ。 これは歴史に少なからず興味を持つ、僕にとっては、とてもそそられる趣味だった。 これが芸術観賞とかだっ…

広島 1

新幹線の窓越しに見える空の色が濃い。 まだ午前中のためかそれ程、外気は熱を帯びていない様だった。 僕が向かっている広島市内も、今日は涼しいのだろうか。 あの日の広島は、湿度の高い蒸し暑い日だったらしい。 七十一年前の八月六日、広島市内は僅か一…

浅草キッド2

ライブが始まった瞬間、僕は自分が酷く緊張している事に気がついた。 思考なのか、感情なのかよくわからないがとにかく自分の中の何かが浮わついている。 それはライブが始まったからではなく、夕刻に会社のゲートをくぐった瞬間くらいからずっと続いていた…

浅草キッド1

今日は、自分にとって特別な物になる筈だった。 仕事を終えて、足早に最寄り駅に向かうとまた雨が降り始めた。 梅雨時期なのだから仕方がない。 そうは思っても、普段と違う日だと位置付けた今日くらいは気持ち良く晴れて欲しかった。 なかなか何でも、思い…

家長

湿気が纏わりついてくる不快な季節である。 仕事中、滴り落ち体表にこびりついてしまった汗を、一刻も早く洗い流そうと、部屋の扉を開くとリビングから微かにテレビの音が聞こえた。 今日、嫁さんの仕事は休みだった様だ。 直感的にまずい事になったと思った…

寄席

久し振りに訪れたミナミの街は、相変わらず混沌としていた。 細い路地の到る所で人が密集し、熱気を孕んだ空気が立ち上る。 僕は十年以上、この街で暮らしていた。 過去の残像が色濃く残るこの街は、やはり僕の気分を高揚させた。 ミナミでの所用を終えて、…

いつか

切れ間なく薄い雲が、空を覆っている。 その下で波が揉み合い、飛沫を上げていた。 そんな曇天の中を、巨大な船が進んでゆく。 遠ざかって行く船には、僕の友人が乗っていた。 大学時代から、旅に出る事にこだわって来た彼はこの日、ユーラシア大陸への長い…

往来

ここ数週間、頻繁に人に会っている。 目前に迫った夏の気配に少し浮き足だっている所為かもしれない。 それは必ずしも僕だけに限った事ではなく、「会わないか?」と誘ってくれる人達がこの時期に重なると言うのは、人の気分を高揚させる何かがこの時期には…

小雨の中 2

初めて梅田にある病院に行く日、僕は平常心を保てていなかったと思う。 人で溢れ返る地下街を抜けて、地上に出ると小雨が降っていた。 傘を持っていなかったため、細く冷たい雨に僕は全身を晒す事となった。 自分に障害があるのではないかと言う不安と、もし…

小雨の中 1

通院の日は、今月も雨が降っていた。 診断が終わり、来月からの投薬量を決めると毎月、主治医と他愛もない話をする。「お休みとれないんやったら、奥さんに区役所に行ってもらえばいいじゃないですか」 主治医が言う通り、早急に区役所に書類を提出する必要…

昇りくる太陽

暑くなった所為か、仕事終わりの電車の中で僕は酷く疲れていた。 もう何も考えられないくらい疲弊し、自分の中の、何かが確実に磨り減ってゆく。 あと一駅で最寄りの駅だ。 一刻も早く家に帰りたいと思う反面、こうやって呆けながら、電車にもう少し揺られて…

あの頃の梅雨明け 2

夜が更けていた。 女子短期大学の紫陽花寮は、僕達が集団生活を送る寮から徒歩五、六分の所にあった。 酒の勢いと、その場に発生したわけのわからないエネルギーに引き摺られて、紫陽花寮へ今から行こうと言う事になった。 こんな夜更けにそこに行ってどうな…

あの頃の梅雨明け 1

大学一回生の頃、僕は大学の敷地内に建つ古い寮に住んでいた。 この寮は台所も風呂もトイレも共同で、一人に与えられる空間がわずかに三畳程度と言うまるで刑務所の様な建物だった。 寮費が月に一万円。実家があまり裕福ではない学生や遠征費が嵩む運動部の…

沢木

夕刻から沢木耕太郎が書いた本を何冊か読んでいるうちに強い焦燥感に駆られた。 こうしてはいられない。 自分の胸のうちに広がってゆく青臭い感情に辟易しながらも、まだまだこう言う感情こそが僕にとっては必要やないんかなとも思う。 少し前から小説の真似…