あの頃の梅雨明け 2
夜が更けていた。
女子短期大学の紫陽花寮は、僕達が集団生活を送る寮から徒歩五、六分の所にあった。
酒の勢いと、その場に発生したわけのわからないエネルギーに引き摺られて、紫陽花寮へ今から行こうと言う事になった。
こんな夜更けにそこに行ってどうなるわけでもない。
うちの寮の様に、男ばかりが集団で暮らしているのとは違い、紫陽花寮は年頃の女学生を親元から預かっているのだ。
セキュリティも万全だろう。
警備会社か警察にでも通報されて捕まるかもしれない。
しかしそんな後先の事を、頭から放り出す破壊力が“寮長さんが巨乳”と言う言葉にはあった。
紫陽花寮に行こうと決めたものの、僕達はすぐには狭い部屋から出なかった。
アルコールと集団生活からくる欝屈で吹っ飛んだと思われた理性と恐怖が実は、少なからず残っていたからだ。
「普通の大学生はコンパに行く金もあるし、女と自由に電話もできる。何故、俺達はエロビデオすら見れず、電話すら好きに使えないのか!そんな俺達なんだからちょっと紫陽花寮を覗くくらい許される筈だ!」
「寮長さんの巨乳を拝む!」
「俺達には、その権利がある!」
「よっしゃ行こう!」
「おっしゃ!巨乳!巨乳!」
そんな具合に数分に一回は必ず場が沸騰するのだが、僕もコーヘイもナベも実際に立ち上がろうとはしない。
僕達の感情が臨界点に達した刹那、必ず微妙な間が空き、何とも言えない空気が流れる。
その空気に耐えられなくなって僕は読みもしない文庫本を開き、コーヘイは煙草に火を点け、ナベが袖で眼鏡を拭き出す。
それからまたちびちびと酒を飲み初め、何かの話題で盛り上がり、最後には「よっしゃ!巨乳!巨乳!」となる。
しかしやはり誰も立ち上がらない。そんな事が数回、続いた。
お前らは本気か?
俺は、お前らが行くんだったら行く覚悟は持ってるぞ。
そんな腹の探り合いが白けた空気の中で永遠と続く。
「よし!じゃあ紫陽花寮に行こうぜ!」と誰も立ち上がりはしないが「やべえって、やめとこう。行っても何もならないって…」とは誰も言わない。
そこは男としての意地がある。
こいつびびってんなと悟られたくないし、何よりつまんないヤツだなんて絶対に思われたくなかった。
不意に野球部に凄いピッチャーがいるらしいなと言う話題になった。
神林の事だ。
この神林は先日あった他の大学との練習試合でデビューし、いきなり勝利投手になっていた。
今で言うイケメンで実際、神林は女にもよくモテた。
しかも実家も裕福らしく大学から少し離れた場所に部屋を借りて一人で暮らしている。
勿論、神林は大学へ車で通っていた。
僕達が飢えて、手にしていない物を神林は全て持っている。
神林の車の事を二人に話した時に“しもたぁ”と僕は思った。
車の話題は、今夜のこの貧相な宴会の根源であり、“紫陽花寮に行こうぜ!”と言う提案の出発点でもあったからだ。
引くに引けなくなる。
実際に僕は「巨乳!巨乳!」と喚き、何故か立ち上ってしまっていた。
つられてコーヘイとナベも立ち上がり、何か事を起こさないと誰も納得しない雰囲気となった。
僕は、そこで二人に確認をした。
「俺達は、ただのいやらしい気持ちだけで紫陽花寮に行くんやないやんな?大学にある不平等への抗議の意味もあって行くんやんな?」
コーヘイとナベが真剣な目で「当たり前だろ!」と答える。
紫陽花寮に行って捕まりでもしたら「本当に寮の奴らはどうしようもねぇな」と他の学生達に言われるだろう。
それは幾ら何でも惨め過ぎる。
僕達には多少、強引でも自らの行動を正当化させる必要性があったのだ。
愚かな行為には、相応な大義名分が必要なのである。
それから僕達は、寮の倉庫に向かった。
倉庫には全共闘時代に寮生達が、かぶっていたヘルメットが今だにしまってあった。
新入生歓迎会の準備をするために入った倉庫で、僕達はそのヘルメットを目にしていた。
高度経済成長の中、若者達はその溢れる情動を社会のあらゆる矛盾にぶつけた。
その波は我が大学にも波及し、激しい闘争があったと年配の教授が話してくれた事がある。
大学生活に存在する不平等へ抗議するなら、全共闘運動の象徴であるヘルメットをかぶって行くしかない。
何事も格好から入るのが、僕達の世代である。
薄暗い倉庫には、足が折れたソファやぼろ布と化した布団に紛れて、埃を被ったヘルメットが積まれていた。
ヘルメットを拾い上げると、側面に当時の学生達が書いたであろう文字が見えた。
“世界革命成就!”
片田舎の大学で多少、暴れたくらいで本当に世界に革命が波及していくのか甚だ疑問だったし
逆側には“生かされるんじゃない 生きろ!”
と言う口に出したら、声帯が大火傷しそうな言葉が書かれていた。
僕らは、それを早速かぶってみた。
しかしとても全共闘運動の戦士には見えない。
これでは、ただの日雇いバイトに来た使えない学生である。
これはいかんと言う事になり、コーヘイがスキー用のゴーグルを取りに部屋に行き、僕とナベも部屋にタオルを取りに戻った。
ヘルメットをかぶって、スキー用のゴーグルを装着し、口元にタオルを巻くと、やっとそれなりに雰囲気が出始めた。
何がそんなに可笑しいのか全く理解できないが、僕達はこの謎の作業の最中、けたけたとやたらと笑った。
中でも一番、笑いを誘ったのがナベのフル装備姿だ。
ナベは今で言う“鉄オタ”で、身長は百八十センチと長身なのだが、枯れ木の様に痩せ細っていた。
そんなナベがヘルメットにゴーグルを装着し、口元にタオルを巻いた姿は何とも滑稽で僕達は過呼吸になるくらいまで笑った。
せっかくだからこの姿を写真に撮ろうと言う事になり、ナベが部屋から電車撮影用のカメラを持って来てくれた。
僕とコーヘイの撮影が終わりナベの番となった。
僕がカメラを向けると
「安田講堂死守!」
と言って、ナベがファイティングポーズをとる。
機動隊が出動するまでもなく、学生課のおばさんにすら排除されるであろうその姿に、僕達はまた狂った様に笑った。
外はもう明るくなり始めていた。
いつの間にか夜が明けた様だ。
笑い疲れて、倉庫にあった足の折れたソファに座り僕達は少し休んでいた。
その時ー
「家に帰りたいな」
とナベがポツリと言った。
それは寮生の誰もの心にあって、誰も今まで口に出さなかった事だ。
みんなその言葉から目を逸らし、馬鹿話で何とか誤魔化していた本音だった。
誰かが口に出すと感情は、そっちへ引っ張られてしまう。
暫く誰も口を開かず、ただ時間だけが過ぎてゆく。
一瞬、地元の風景が頭を霞めたが今日、寝てないから練習やばいなと現実がそれを上回った。
「もう寝るか…」
と誰かが言い僕達は各々の部屋に帰った。
寮の渡り廊下から見える朝の空の青が濃くなり始めていた。
もう夏が近づいていた。
僕達の学年の殆どの寮生が、大学三回生の時にあの寮を出た。
そして僕達が四回生になった年に、「時代にそぐわない」と言う理由であの寮は廃寮となった。
大学を出てからコーヘイやナベ、そしてあの寮の仲間達とは一度も会っていない。
彼らも僕も、何とかこの社会で戦って、自分の家族を守る年代になっている。
またあの寮の仲間達と会う機会があれば、色んな話をしながら、美味い酒を飲みたいと思う。
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