あしたの鉄人

戦々恐々の日々

浅草キッド2

 
 ライブが始まった瞬間、僕は自分が酷く緊張している事に気がついた。
 
 思考なのか、感情なのかよくわからないがとにかく自分の中の何かが浮わついている。
 
 それはライブが始まったからではなく、夕刻に会社のゲートをくぐった瞬間くらいからずっと続いていた様な気がする。
 
 自分のこの感情が、よくわからなかったし言葉で巧く伝えられない気分と言うのがあるのだと言う事を久しぶりに実感した。
 
 この薄暗く狭い劇場の中に、自分が深く関わってきた人達が余りに多くいる。
 
 隣に嫁さんが座っていて、後方には相方や後輩の奥さんがいて、回りに僕が芸人だった頃を知っている人達がいる。
 
 そしてこれから舞台には、何年も一緒に戦っていた後輩達が出てくる。
 
 この状況を、どの様に捉えればいいのだろうか。
 
 急に過去と言う胡乱なモノに、自分の何かを鷲掴みにされた様な気がした。
 
 舞台の上で後輩達のネタが始まった。
 
 あぁ… やっぱり凄いわ…
 
 一瞬にして僕は呆け、口を半開きにして只、舞台の上を凝視した。
 
 気がつけば、客席の誰もが笑っている。
 
 勿論、僕も声を上げて笑っていた。
 
 知らず知らず自分の本音を、頭蓋骨の外に放り出し、これは金を稼ぐためなんだと自らに言い聞かせ毎日をやり過ごす。
 
 そんな時間の中で生きているうちに、最近の僕は自分の感情ですら、もうよくわからなくなってきている。
 
 しかし後輩達がやっているネタを見ていると脳が瞬時に揺すられ、無意識のうちに自分は声を上げて笑う。
 
 本音も建前もない。
 
 真実の感情が何も気にする事なく、発露する。
 
 お笑いをライブで観ると言うのは、こう言う感覚だったのかと今更、理解できた様な気がした。
 
 後輩達のセンスと練度の高さに驚き、ちゃんとした芸と言うのは人の心を強く動かすのだと言う事を再認識させられた。
 
 ライブの合間に流れてくる音楽は、僕が彼らと一緒に舞台に上がっていた時に使われていた物だった。
 
 それがまた、僕の意識を過去へと誘う。
 
 過去、このライブを観に来てくれていた人達は皆、今の彼らの芸に心を奪われ、同時に数年前を懐かしんだ筈だ。
 
 それは中々、金銭に繋がらずともあきらめる事なく、自分達の道筋を信じて日々、芸を高めている彼らだからこそ出来る事だと思う。
 
 ライブは、あっと言う間に終局近くまで進んでいた。
 
 こんなに様々な感情が凝縮された時間を味わったのは、久しぶりの事だ。
 
 ライブの最終、“浅草キッド”が流れる中、客席に向かって頭を下げる後輩達を見て不覚にも涙腺が弛んでしまった。
 
 それから僕は暫く放心し、劇場を出て、嫁さんと心斎橋の街を歩いた。
 
 嫁さんが何事か僕に話掛けてきたが、全く上の空で受け答えすらおぼつかない。
 
 そんな状態に陥った僕の扱いに、嫁さんは慣れたもので「先に帰ってるから相方さんと飲みに行っておいで」と言ってくれた。
 
 劇場の前まで戻ると相方がいたので、そのまま昔、僕がよく通っていた焼き鳥屋に飲みに行った。
 
 狭い店内のカウンター席に二人で座る。
 
 もう十年以上前、ここでバイトしていた子の事を好きになった事を思い出した。
 
 少しでも好きになったら、僕は必ず告白する事に決めている。
 
 それは「告白もできない奴は男にあらず!」と口癖の様に言っていた母の影響が強い。
 
 ここの子には見事にフラれた。
 
「一人にフラれるのも二人にフラれるのも同じじゃい!」とわけのわからない高揚感に襲われた僕は数日後、この焼き鳥屋の近くの美容院の気になっていた子にも告白したりした。
 
 焼き鳥屋の子も、美容士の子もよく僕達のライブに来てくれた。
 
 今日、観に行ったあのライブだ。
 
 美味い焼き鳥をアテに酒を飲み、相方と今日のライブの話をした。
 
「やっぱりあいつら凄いな」と二人で何度も口にした。
 
 相方とこうやって、差しで酒を飲み、あのライブの話をする。
 
 とても幸せな時間だった。
 
 ほんの数年間であったが、二人で同じ夢を追って、同じ苦境や僅かな喜びを味わったのだ。
 
 相方には、幸せになって欲しいと心から思っていた。
 
 後輩達のライブの話が一段落着き、話題は相方の今後の事に移っていった。
 
 僕は相方は、お笑いに関する仕事に就いた方がいいんじゃないかと思っている。
 
 相方の性格を考えると、あまり企業への就職は向いていないだろうと思うからだ。
 
 それを相方に話してみたのだが、どうも判然としない
 
 久しぶりにコンビを組んでいた頃を思い出した。
 
 僕と相方は人生観が大きく異なる為、話がなかなか巧く噛み合わなかったりするのだ。
 
 相方は「お笑いの作家になるんやったら、もうそう言う話が来ている筈だ。そう言う話が来ないと言う事は、自分は作家になるべきではないんだ」と言う。
 
 これが昔から変わらない相方の生き方であった。
 
 僕は、待っていてチャンスが来た経験がないので何か事を成す時は、多少、強引でも何とか自分でアピールし、己で掴み取ってゆくしかないと思っている。
 
 どちらが良いとか悪いとかではなく、生き方が大きく違うだけなのだと思う。
 
 そのため昔から、僕と相方の議論は何処にも辿り着かず、お互い歩みよらずでよくわからない方向を漂い始める。
 
 僕も相方も、もう若くなく、今まで自分なりのやり方で生きてきたのだから今更、なかなか方向転換はできない。
 
 相方が何か話がくるのを待つと言うなら、もうとことんまで待ち続けるしかないのではないかと思った。
 
 ただ話していて、彼が本音を語っているのかどうかわからなくなる時が度々あった。
 
 これは真なのか虚なのか。
 
 どうも判別がつかず、相方が何故、僕と話す時にまで、そんな事を言う必要があるのか全く理解できなかった。
 
 これも昔からの事である。
 
 本心や嘘なく真実だけを、等身大で伝えないと結局、人には何も伝わらないんじゃないだろうか。
 
 それとも繊細な彼の本心を僕が、巧く捉え切れていないだけなのだろうか。
 
 嫁さんが「あなたは優しいのかもしれないけど、人の気持ちがわかる人じゃない」と何かある度に言う。
 
 やっぱり僕の方にも、至らない所があるのだ。
 
 そんなすれ違いも含めて、久しぶりに相方と差しで飲んだ事はとても楽しかった。
 
 二人で話していると今日、ライブに出演した後輩から電話が、かかってきて「打ち上げにきませんか?」と僕達を誘ってくれた。
 
 僕達は、せっかくだからと後輩達が打ち上げをしている会場に向かった。
 
 ライブの後、疲れているだろうに僕達に気を使ってくれるその心使いが嬉しかった。
 
 会場の居酒屋に行くと、後輩達が飲んでいた。
 
 今日、ライブをやった後輩達は酒を飲めない人も多く、馬鹿騒ぎする事なく、しっとりと飲んでいた。
 
 それも昔からの事で、その空気感が酷く懐かしかった。
 
 会社の体育会系全快の飲み会も良いが、久しぶりに味わったこの雰囲気は、何か帰ってきた様な感覚があった。
 
 ただ静かに飲んでいると言っても、何か僕がしょうもない事を言うと皆、全力で反応してくれ面白くしてくれる。
 
 普段、「芸人してたんやから何か面白い話しろ!」と荒すぎるフリが、そこら中から飛んできて誰も援護してくれず、宴会中、何度も憤死している僕にとっては、心から安心できる飲み会であった。
 
 他愛もない話をし、ケタケタと笑っているとチケット売りの事が話題に上った。
 
 手売り分のチケットを一枚も売っていない後輩がいると言う話になったが、何かその事も有那無那に終わってしまった。
 
 その時に、この後輩達は同じ仕事をするチームとして機能しているのだろうか?と言う強い疑問が沸いた。
 
 だからと言って、チケットが売れなかった後輩を叱責しろとか吊し上げろとか言っているのではない。
 
 そんな事をしてもチームに亀裂が入るばかりだ。
 
 何故、その子がチケットを売る事ができなかったのか?
 
 何故、今日のライブは集客が悪かったのか?を掘り下げて考えて、皆で議論する必要があると思うのだ。
 
 内容が良かったからと集客面から目を反らすのはアマチュアの考え方である。
 
 彼らは、今日のライブで報酬を得ているわけで利益が出ない事を無視できない筈だ。
 
 これが企業であれば、優良な商品が作れるのに全く売れないとなれば何度でもミーティングは開かれるだろうし、商品が売れる様になるまで、皆、議論を尽くすだろう。
 
 ネタを考えたり、練習は目一杯するが、集客の事に疎く、何も策を打たない。
 
 確実に集客が見込めるライブに様々なチャンスが転がり始める事を彼らだってわかっている筈なのだ。
 
 決して口に出すまいと思っていたが、酒の勢いと彼らへの心配も相まって、思わずその辺りの事を口走ってしまった。
 
 勿論、微妙な空気が流れたが、毎度の事ながら僕はそんな事は気にならない。
 
 次回、それで今回より少しでも集客が良くなればそれでいいと思っている。
 
 終電の時間が迫っていたので店を出る事にした。
 
 帰り際、相方が打ち上げ代として、多額の現金を後輩に渡していた。
 
 それは誰が見ても、相方が無理をしているとわかる金額であった。
 
 幹事の後輩が戸惑っている。
 
 相方が現役の時なら、この行為は理解できる。
 
 芸人は借金してでも、後輩のために金を使わねばならないと思うし、僕も先輩達にそうしてもらってきた。
 
 しかし相方は、もう引退している。
 
 相方が後輩達に、そこまでしてあげたいと言う気持ちは痛い程、わかる。
 
 ただ後輩達は、そんな事を望んではいない。
 
 後輩達は皆、相方にもう引退したのだから自分の生活を考えて、等身大で自分達と向き合ってほしいと思っているのだ。
 
 シビアな話になるが、それでも多額の金を置いていきたいと思うなら、後輩達に気を使わせないくらい金を稼いでいなければならないと思う。
 
 相方が変わっていない事が何か嬉しくもあり、それでもやっぱり心配ではあった。
 
 そのまま終電に乗って、僕は帰った。
 
 様々な事があったが、やっぱり昔の仲間達と会えた今夜はとても充実していたし、楽しかったと思う。
 
 明日からまた僕は僕の戦いを全うしてゆかねばならない。
 
 そのためのパワーを、昔の仲間達から貰った。