三億円事件 1
初めて降り立った駅は、師走の喧騒に包まれていた。
会社員生活が長くなるにつれ、仕事などで関わる人の数は年々、増えていく。
あらゆる人をのみ込みながら、コミュニティーの外周はいつの間にか広がっている。
そんな人との繋がりも、仕事や家庭の雑事に追われる日々の中では、とくに気にとめることはない。
ふと気がつくと、昨年より参加せねばならない忘年会がいくつか増えている。
この時期、週末のスケジュールが埋まっていくことで、改めて今年も多くの人と出会っていたんだなと実感したりする。
仕事納めだったこの日も、普段ともに働いている同僚たちや直属の上司と酒を呑むことになっていた。
気心が知れたメンバーと呑みにいく所為か、取引先や親会社との忘年会の時にはある、あのなんとも言えない“億劫さ“が今日は、まったくなかった。
忘年会が始まるまで、まだ少し時間があったので、ぼくは上司を喫茶店に誘ってみた。
自分の上司を喫茶店に誘うなんてことは今まで、経験したことがない。
これまでの上司は、忘年会が始まるまでの僅かな空き時間に、ぼくや若手を居酒屋に誘う人が多かった。
そこで一杯目のビールを呑みながら、皆で軽く雑談をしているうちに、ちょうど忘年会が始まる時間帯となり、慌ただしく店を出て会場に向かう。
そういう時間は、なにかあやふやな楽しさに満ちていて、ぼくの気分を高揚させた。
しかし今の上司は酒を呑む人ではない。
そのため適当な時間の潰しかたが思いつかず、とりあえず喫茶店に誘ってみたのだった。
「いや、やめとこ 」
そんなぼくの申し出は、あっさりと上司に断られた。
“うわっ まじか。どうしようかな… ”などと内心、思っていると上司が意外な提案をしてきた。
「お前、お子さんに買うおもちゃとか本とか見たことあるんか? 」
上司は、ぼくにそう言うと目の前に見えているイオンに向けて歩き始めた。
ぼくは、今年の梅雨時期に双子の父親になっていた。
この上司の方も、三人のお子さんを持つ父親である。
その所為か、同時に二人の子どもの父親となったぼくのことを、普段、なにかと気にかけてくれていた。
それから上司と二人で、イオンモールではない昔ながらのイオンに入り、おもちゃや絵本を見て歩いた。
このことを会社の他の連中に話すと、恐らくリアクションに困るだろうと思う。
忘年会の直前に、上司と一緒に子どもの絵本を選びに行ったなんて話は聞いたことがない。
昔ながらの気風が色濃く漂う、うちの会社の中では、なかなか味わうことができない時間の潰しかたである。
その異色さに戸惑ってしまう人も、いるのかもしれない。
しかしぼくには、この上司の行動が凄く誇らしく思えたのだ。
古ぼけたイオンの廊下を横切る上司の後ろ姿や、絵本を手に取った時の真剣な眼差しからは、酷く純粋で透明なものが発せられていた。
ある意味、その度を越した真面目さにぼくはとても好感を持った。
書店の絵本コーナーから移動する時に、あるポップに書かれた文字が目に入ってきた。
ポップは針金で吊るされ、平積みされた本の上で微かに揺れている。
“三億円事件の真犯人!ネットで独白! ”
ポップには、やけにツヤのある黄色い下地の上に、角張った文字でそう書かれていた。
“欲しかったのは、金じゃない。あの事件は僕の青春、そのものだった ”
ポップの真下に平積みされた本の帯には、そんなうんざりするような青臭い言葉が並んでいた。
三億円事件──
その言葉を見聞きすると、ぼくの中でぼんやりと浮かび上がってくる一つの風景がある。
激しく降りしきる雨の中、濡れた路面の上を一台の白バイが疾走していく。
灰色に染まった大気を時折、雷光が照らす。
白いヘルメットから白バイのタイヤにいたるまで、男のすべてがすぶ濡れだった。
激しい雷雨の中、白バイ警官が急を要する現場に向かっている。
端からはそう見えていた。
恐らく雨を避けるために使っていたであろう緑色のシートが、白バイに引っかかったままになっている。
よほど慌てているのか、そのことに男は まったく気がついていない。
ずるずるとシートを引きずりながら、白バイは走っていく。
やがて男の視界の片隅に、府中刑務所の黒い塀が、ちらちらとはいりはじめた。
罪人たちの世界と、平穏な日常とを隔てる暗黒の壁もまた雨に濡れている。
一瞬、その壁にずぶずぶと吸い込まれ、白バイごとむこう側に、とり込まれてしまうイメージが男の脳裡にうかんだ。
その妄想は、男の気力を根刮ぎ奪いさってしまうほど強烈なものだった。
自分が練り上げた計画にもし綻びがあるなら、あまんじて罰を受けよう。
そう男は思っている。
しかし一方で、金が欲しいからとなんの計画も立てずに強盗に押し入り、住人を殺害したあげくに、僅かな金額しか手に入れられなかった、短絡的な犯罪者と自分が一緒にされるのだけは我慢ならなかった。
たとえなにをしたとしても、捕まりさえしなければ、この塀の向こう側にいくことなどないのだ。
その意識は、男の崩壊寸前だった自我を再構築した。
雑念が消えた男の前方には、黒塗りの六四年式セドリックが走っていた。
赤いブレーキランプが雨に滲み、虚ろに明滅している。
この車は日本信託銀行が、所有するもので現金輸送車として使用されていた。
現金輸送車には、信託銀行の関係者四人が乗り込み、東芝府中工場の従業員四千五百二十五人分のボーナス、約三億円の運搬にあたっていた。
男の白バイは一気に加速すると、現金輸送車を抜き去り、前方にまわり込んだ。
現金輸送車を運転していた信託銀行の関谷は、突然あらわれた白バイに驚き、アクセルを弛め、車を失速させた。
すると白バイの男は片手を上げて、路肩の方をさし、現金輸送車に停車するよう命じた。
このとき、関谷は白バイが緑色のシートを引きずっていることに気がついた。
なにか妙な違和感のようなものが、関谷の胸中に広がっていく。
ただ小波が彼の心の核に到達する前に、白バイからおりた警官の男が小走りで近づいてきていた。
関谷はレバーを回し、雨が入ってこないよう少しだけ窓を開け、男の方を見上げた。
激しい雨のうえ、男がヘルメットを深くかぶっていたため、男の顔はよく見えない。
「日本信託銀行の車ですよね…? 」
「はい。そうですが… 」
そう関谷が答えると、男は少し焦ったようすで一気に捲し立てはじめた。
「巣鴨署から連絡があり、支店長の自宅が爆破されました! この車にも爆弾が仕掛けられているとの連絡を受けています! 車のなかを見せて下さい! 」
「さ、昨夜、車内を点検しましたが、なにもなかったですよ… 」
混乱した関谷が、言い終える前に男は素早く車の下を覗き込んだ。
男の切迫した動作が、さらに車内の空気を硬直させた。
「くそ! 本当だったのか!? 」
車内の誰かが叫び、直後、ドアが開く音がした。
関谷の全身から一気に汗が吹き出す。
いきなり支店長の自宅が爆破されたと言われたら、意味が理解できなかったかもしれない。
しかし一年ほど前から、日本信託銀行国分寺支店と、その支店長の自宅に、怪文書による執拗な爆破予告がなされていた。
この事前工作が効いて、関谷たちは疑問を抱かず、瞬時に男の言葉を信じたのだった。
関谷もエンジンを切って、現金輸送車の外に飛び出た。
その直後、不意に車体の下から勢いよく煙が立ち昇った。
「あったぞ! 危ない! ダイナマイトだぁぁ!逃げろぉぉ! 」
ボンネットの下を覗き込んでいた男が鋭い声で叫んだ。
男の声で、この場のなにかが弾け飛び、関谷たちから冷静な思考や理性を奪い去った。
場は完全に秩序を失い、現金輸送車に乗っていた信託銀行の四人は、それぞれ別々の方向へ逃げ出した。
無意識のうちに関谷は、ごみ箱の陰に身を隠していた。
四人の中で一番、年長者の中田だけは、なににも身を隠さず、勇敢にも道路の中央に立ち、後続車に危険を知らせようとした。
ごみ箱の陰から、恐る恐る現金輸送車の方に目をやると、立ち込める煙の中、男が運転席に乗り込んでいくのが見えた。
現金輸送車のハンドルを握った男は、躊躇せずアクセルを踏み込んだ。
カーラジオからは、高度経済成長のテーマソングとまで言われた水前寺清子の“三百六十五歩のマーチ”が流れていた。
この曲が持つ、明るく力強いメロディーは、わずか数十年で焼け野原から、経済大国へとのし上がった、我が国の空気に見事にマッチし、この年、百万枚を売上げる大 ヒット曲となっていた。
土砂降りの雨の中、男が運転する現金輸送車が遠ざかっていく。
現金輸送車が見えなくなって暫くの間、 関谷は茫然としていた。
ほかの三人も、降りしきる雨の中にただ立ちつくしている。
あの警官は仕掛けられたダイナマイトが爆発しても、被害が最小限に食い止められる場所に現金輸送車を運んでいったのだと皆、思っていた。
しかし──
なにかがおかしい。
急速に、場に強い違和感が広がっていく。
あの警官の男が、ダイナマイトだと叫んだ筒が路上に放置され、爆発もせずにまだ煙を発し続けている。
落ち着いてよく見ると、その筒がダイナマイトなどではなく、ただの発煙筒であることにすぐ気がついた。
白バイが引きずっていた緑色のシートが視界に入る。
まさか……!?
男が乗り捨てていった白バイに、四人が一斉に駆け寄る。
「この白バイ…… 偽物じゃないか!やられた! 」
その声を聞いたとき、関谷の足には力が入らなくなり、急に地面が消失し、宙に放り出されたような、たよりない感覚に襲われた。
どうやら男は白バイ警官などではなく、まんまと現金輸送車を強奪していったようだ。
関谷が、偽白バイ警官から停車を求められてから、まだ五分くらいしかたっていない。
僅か五分で、あの男は三億円を積んだ車を、誰も傷つけずに我々から奪っていったことになる。
三億円もの現金が、車ごと盗まれる。
これは、今までの日本の犯罪史上、類をみないことであった。
そのため関谷たちが、日本信託銀行や警察に通報しても、内容がうまく伝わらず、初動捜査は大幅に遅れた。
三億円もの現金が奪われたことを、誰もまともに信じられなかったのだ。
雨は、まだ激しく降り続いていた。
白バイ警官に扮した男は、雷雨のなかに消え、永遠に人前に姿をあらわすことはなかった──
上司とともに、イオンのなかを彷徨いていると案外、すぐに時間は過ぎていった。
ぼちぼち忘年会の会場である居酒屋に、むかわなくてはならない。
あの日、三億円とともに姿を消した男も年末になると忘年会に参加したりするのだろうか。
イオンの書店で見掛けた、三億円事件にかんする新書は、久し振りにぼくにあの事件のことを思い出させてくれた。
ぼくには若いころ、熱をもって三億円事件関連の本を読み漁ったり、あらゆる映像を視つくした時期がたしかにあったのだ。
明日から、年末休みである。
久しぶりに三億円事件の本でも読んでみようかなと思いながら、上司と一緒に居酒屋へとつづく、地下への階段をおりていった。
なにか今夜は、美味い酒が呑めそうな気がした。