揺れる老木 3
約十年振りに再会した親友と酒を呑んでいた。
互いの近況を報告し合った後で、他愛もない話が続く。
酒を呑んでいる彼の横顔を見ていると、不意に自分の中でなにかが明滅し、そして弾けた。
日々、積み重ねられてゆく記憶によって随分、下の方に追いやられてしまっていたものがゆっくりと浮上してくる。
あれは大学三回生の春のことだったと思う。
野球部の春期リーグ戦が終了し、めずらしく週末の練習が休みになったときのことだ。
僕はすぐに彼に電話をかけて、「何処かへ行かへんか?」と誘ってみた。
急な誘いなのに彼はすぐに承諾してくれ、電話を切る頃には、何故か京都にゆくことになっていた。
数日後に長野から京都に向かう。
しかも電車や夜行バスでゆくのではなく、ヒッチハイクで京都を目指す。
そんな今思えば、粗暴で無計画な時間を、あの頃の僕と彼は頻繁に過ごしていた。
──大学一回生の冬に、僕は妙な危機感に苛まれ続けていた。
大学という場には、独特の時間軸が存在する。
高校までのように学業のスケジュールは詰められておらず、夏や春には二ヶ月に及ぶ休講期間が設けられていた。
大半の学生たちは、この長い休講期間を実家に帰省して過ごしたり、リゾートバイトに励んだりして学生の期間にしかできない経験を積むことに費やす。
この休講期間中は、大学の学舎や激しく老朽化した我が寮から学生たちの姿が消える。
寮には、体育会系のクラブに所属する学生が多くいたが、休講期間中はそのクラブも大半は休みになっていた。
しかし野球部の練習は、年末と正月の期間以外は休むことなく続けられた。
夏のお盆の時期ですら、僕たちは北関東一帯に長い遠征に出ていた。
遠征先で民宿の近くに海があると試合後、みんなで泳ぎに出掛けることが許された。
それは決して無意味なものではなかったが、大学生の夏期休暇の過ごし方としては薄く、なにかが決定的に欠けてしまっていた。
遠征先では、禁じられている酒を気の合う数人と呑んでは、規律に従順なグループのヤツらに何度も咎められたりした。
しかし一方で、何処かそんな生活に酔っているところもあって、休講期間に合わせて練習まで休みにする体育会系クラブの連中を皆、心底から軽蔑していた。
長い休講期間が終わりに近づくと、様々な体験を積んだ仲間たちが続々と寮に帰ってくる。
久し振りに顔を合わせた友人たちの充実した体験話を聞いていると、彼らが皆、何かを掴んで帰ってきたように僕には映った。
大学内の寮とグランドだけを往復し、遠征の時ぐらいにしか外界に出ない自分は、貴重な何かを掴み損ねているのではないかという焦燥が急激に胸に渦巻いてゆく。
リゾートバイトに出掛けていった友人たちからは、そこで出会った女性との淡い日々のことも聞いた。
大学の構内に閉じ籠り、毎日、限られた人としか顔を合わせない自分に、そんな出会いなど訪れよう筈もない。
このまま学生生活を送っていると、後で酷く後悔するのではないか。
その思いは、日を追うごとに膨張してゆき、一回生の終わり頃には、自分で何らかの行動を起こして、この状況を打開しようと試みるようになっていった。
実家が商売をしていた所為で、僕はうちにアルバイトにやってきた大学生たちとよく親しくなった。
僕が中学生の頃は、実家はある国立大学に通う学生さんをアルバイトとして雇っていた。
大人しい学生さんだったが、この人から僕は様々なことを教わった。
その学生さんは大学で“冒険部”というクラブに所属し、探検家である植村直巳さんの真似事のような活動をしていたらしく、その話をよく聞かせてくれた。
中でも印象に残っているのは、うちの実家近くにある山にパラグライダーを担いで登り抜き、その山頂から大空に駆け出した時の話だ。
学生さんは山頂付近から走って、パラグライダーで大空に飛び立ったまでは良かったものの、急に疲労に襲われ、宙に浮いたまま眠ってしまったらしい。
激しい衝撃で目を覚ますと、パラグライダーが木に引っ掛かり、学生さんの身体は宙吊りとなっている。
そこから学生さんは、何時間もかけてなんとか自力で脱出し、山を下りた時に泣いたそうだ。
この話に中学生だった僕は痺れ、とても憧れた。
興奮した僕は、すぐにこのことを父親に話してしまった。
話の途中で父は「あいつやったんかい!」と怒り始めた。
観光協会の役員をしていた父は、この無謀な大学生の遭難騒ぎに巻き込まれてしまっていたらしい。
この話が印象に残っていて、自分もあの学生さんのように“冒険部”のようなことを大学生活の間にしてみたいと強く思い始めた。
一回生も終わりに近づく頃、僕は寮の仲間や同じゼミの友人たちに“冒険部”の話をし、一緒にやらないかと声を掛けてみた。
仲間たちの中に、何人かそれを面白がってくれるヤツらがいて、すぐに話は進んでゆき、月に一回のペースで何かやろうということになった。
ただ疲弊し、歪んでゆくだけだった僕の大学生活は、ここから一気に動き出すこととなる。
“冒険部”というネーミングはダサ過ぎると仲間たちの猛反対にあい、“あるこうかい”と改められた。
今、考えても“あるこうかい”という名前の何処にスマートな要素があるのかは、さっぱりわからない。
“あるこうかい”の最初の活動は、すぐ近くの長野市までヒッチハイクで行ってみようということになった。
もちろん仲間たちの誰もヒッチハイクなんてしたことがなかったし、アメリカの大地なら兎も角、長野の片田舎でそんなことが成功するとは、とても思えない。
それを面白いと捉えられるのが、きっと若さというものなのだろう。
僕達は早朝に、行き先を告げるスケッチブックを持ちよって、大学の駐車場に集合した。
あの冷え切った大気の中で見た、長野の薄く青光りする空と、身体と自我を激しく揺さぶる高揚感のことは今でも、はっきりと思い出せる。
少なくとも僕と彼の、この後の道程は、あの底冷えする朝に決定づけられたのだ。
籤引きで二人一組に別れて、僕たちはヒッチハイクを開始した。
乗せてくれる人などいるのだろうかと思っていたが、仲間たちは皆、ヒッチハイクに成功し昼前までに長野市に到着した。
大したことはしていないのだが、その時の僕たちは大冒険を終えたような気分になった。
特に寮での集団生活と野球部の練習だけしかない日々を送っていた僕は、やっと学生生活というものの一端に触れられたような気がして感情を激しく揺さぶられた。
それからは憑かれたように、野球部の練習が休みになると様々な手段を考えだしては、色んな所に出掛けてゆくことにひたすら興じるようになった。
それだけこの初期衝動は強烈なものとして、僕の胸奥に刻まれた。
自転車で新潟県の県境にある湖まで行ったり、夜中に延々と歩いて見晴らしの良い峠に登ってゆき、朝焼けに染まる長野の街を飽きるまで眺めたり、他の人から見たら無為にしか映らないであろうことに僕たちは若い情動をひたすらぶつけ続けた。
一年経ってみると仲間たちの何人かは、この“あるこうかい”での活動を大学生活の主軸に据えるようになっていた。
その中でも、彼はいつしか旅に出掛けることだけに、生活の全てと若い情熱をぶつけるようになった。
いつの頃からか彼の印象は、大学生というよりも、旅人と呼んだ方がしっくりとする佇まいと空気感を持つものに変わった。
彼の旅は、僅かな時間で尖鋭化されてゆき、仲間内の誰もが、彼の動向に注目した。
夏期休暇の長い日々も、彼はその全てを旅にあてた。
アルバイトは旅に出るための費用を稼ぐためだけに行い、ちゃんと講義に出席するのも、一刻も早く大学を卒業し、海外へ長い旅に出掛けるための準備の一つらしかった。
相変わらず、僕には野球部の練習があり、彼の長い旅に同行することは叶わない。
何度かいっそのこと、野球部を退部して自分も彼と同じく、旅に出ることだけに賭けてみようかと考えたことがある。
だが何故か、二回生の夏頃から野球部での練習の中に充実したものを感じられるようになっていた。
練習の合間に色んな体験をしたことで、物事を捉える角度に少しづつ変化が起こった所為かもしれない。
そして三回生の初夏に、僕と彼はヒッチハイクで京都にゆくこととなった。
初めは、すぐ近くにある長野市にすらたどり着けないかと思っていたものだが、この頃になると時間さえあれば、ヒッチハイクで日本の何処にでもゆけることを僕達は知っていた。
僕は、何度か東京にヒッチハイクで行っていたし、彼もあれからヒッチハイクで何度も遠出をし、二人とも一度も失敗したことがなかったからだ。
ただこの京都までの道中では、名古屋でなかなか乗せてもらうことができずに、何度か場所を変えているうちに道に迷ってしまい、かなりの時間を浪費してしまった所為で、京都にたどり着いた頃には、夜が明け初めていた。
早朝に祖母の家を訪ねるわけにもいかず、桃山御陵にゆき、そこのベンチでなんとか二人で仮眠をとった。
丘の上にある桃山御陵からは、盆地である京都市内が何処までも見渡せる。
目の前にある向島団地が、朝焼けに染まってゆく。
大学に入ってからの数年で、彼とは様々な場所で朝焼けに染まる街並みをともに見てきた。
夜通し話をし、まだ覚醒しきっていない街が朱く染まってゆくのを黙り込んで眺める。
そんな時は不意に胸をつかれ、危うく涙を溢しそうになることが何度もあった。
今は、もうああ言う激しい感情を抱くことはないだろうと思う。
そう言う季節を僕達はともに生きていた。
この京都への旅の道中で、夢枕獏が書いた“瑠璃の方舟”と言う本に僕は出会った。
僕は高校生の頃から、この夢枕獏のファンであったのだが、この“瑠璃の方舟”と言う本のことは全く知らなかった。
昼前に祖母の家へと上げてもらい、すぐにこの“瑠璃の方舟”を読み始めた。
この“瑠璃の方舟”は、夢枕獏の体験を元にして書かれた青春小説なのだが、ここまで純文学として完成度が高く、しっかり魅せることが成立している青春小説に僕は今も出会えていない。
近年、巷で話題になっている純文学系青春小説と読み比べてみても、“瑠璃の方舟”は遥な上方に位置しているように思える。
勿論、夢枕獏は大物作家の一人であり、数多くの賞も獲得しているのだが、この“瑠璃の方舟”は全くと言っていいほど、知られていない。
ひっそりと存在する名作が放置されている一方で、逆に歪な部分に目を瞑られ、妙なまつり上げ方をされている青春小説があることを思うと、なんとも勿体無いような気になる。
この夢枕獏の“神々の山嶺”と沢木耕太郎の“深夜特急”が“あるこうかい”の仲間の中で、バイブルのようになっていた。
60年代から70年代に吹き荒れた学園紛争という狂騒の中で、当時の大学生たちはバリケードの奥で“あしたのジョー”を好んで読んでいたという。
確かに“あしたのジョー”の中には、青い情動の指針となるような場面や言葉が数多くある。
それと同じく“深夜特急”や“神々の山嶺”には、当時の僕たちを指し示すものが確かに存在していたのだ。
京都への旅から数年後、彼は“深夜特急”で沢木耕太郎が旅した道程をなぞるようにユーラシア大陸へと旅立っていった。
僕はその時もやっぱり自分の状況を手放すことができず、彼に同行できなかった。
沢木耕太郎のある本の中に、中年の男が旅をする若者を羨む場面がある。
若者は「今からあなたも旅に出てみてはどうか」と中年の男にすすめてみる。
「もう遅い…」とだけ言い残し中年の男は去ってゆく。
今ならその逸話の意味が理解できる。
まだ青い色硝子のようなものが、自我の何処かに漂っているうちに国外に飛び出さないと、感じられないことがあったのだ。
残念ながら僕は、そういう巡り合わせには恵まれなかったし、それはやはり自分では強く望んではいなかったと言うことなのだろうと思う。
海外にゆくことが叶わなかった僕は沢木耕太郎のスナップ集である“天涯”を何度も開いてきた。
あえてインパクトを押さえて、何気なく撮られた写真ばかりが集められた“天涯”には色んな国の自然な光景が何処までも続く。
ある写真の焦点は滲んでいるし、ある写真にはデジタルの日付が刻まれている。
雑ともとれる幾枚の写真の何処からも、小難しく面倒くさい芸術的なものは感じられない。
この疲労なく海外を眺められる“天涯”は、僕の旅への未練を何度も静めてくれた。
十年振りに再会した京橋の居酒屋でも、僕と彼はあの頃、桃山御陵や姨捨山でも何度も話した沢木耕太郎のことを話題に選んだ。
「最近の沢木耕太郎の本、読んだかい?」と彼が尋ねてきた。
僕は数年前に、クライマーである山野井夫妻の苦闘を書いた“凍”を最後に、沢木耕太郎の本から離れていた。
“凍”でも沢木耕太郎は自分を完全に消し去り、山野井夫妻に起こったことだけを細部まで詳細に書き切るという斬新な試みに挑戦していた。
好きな作家が増えた所為か、この数年はなかなか沢木耕太郎の新刊を読むことに気が向かなかった。
「“凍“から読んでへんわ。最近の沢木耕太郎はどんな感じなん?」と聞き返してみると、彼は間を置き、俊巡したのち──
「老いたかも…」
とだけ言った。
その彼の言葉に僕は思っていた以上に動揺し、最近の沢木耕太郎がどんなものを書いているのか事細かに聞いてみたくなった。
彼は僕が浴びせかける質問に丁寧に答えてくれた。
その中で沢木耕太郎が宇多田ヒカルの母である藤圭子さんのことを書いて長らく封印していた本を解禁し、出版していたことを僕は初めて知った。
沢木耕太郎が藤圭子さんのことを取材し、書いた作品を結局、出版しなかったことは僕も知っている。
何度か沢木耕太郎が藤圭子さんの今後へ影響を及ぼすことを配慮して、出版しない決断を下した時のことを綴った文章を目にしたことがあったからだ。
それを藤圭子さんが亡くなった後に出版する行為にどんな意味があるのか。
そのことについて沢木耕太郎は、誰もを納得させる明確な返答を持ち得ているのだろうか。
僕も彼も、あの頃のようにもうヒッチハイクで旅をすることはできない立場となった。
旅人の間には、何かを得てしまったらヒッチハイクからは卒業しなければならないという格言のようなものがある。
それはヒッチハイクが持たざる者だけに許されている特権のような移動手段だとされているからだ。
僕も彼も家庭を持った今となっては、ヒッチハイクをする側ではなく、持たざる若者たちに自分のできる範囲で力をかしてゆく側にまわらなくてはならない。
自分たちが、あの頃にしてもらったように。
僕達ですらこうやって年齢を重ねているのだ。
沢木耕太郎が老いることも自然なこととして捉えなければならないのかもしれない。
何処か引っ掛かるのは、その老い方がどんな類いのものなのかということである。
夢に破れた僕も、長らく旅に出続けた彼も、身を持ち崩すことなどなく、今は社会で戦い家庭を守っている。
それは、あの頃に僕達が指針とした沢木耕太郎の言葉に少なからず影響を受けたからだとも思う。
その沢木耕太郎の老い方が、思いもかけないものだったとしたら…
彼と再会を果たしてから数日後、僕はまだ読めていなかった沢木耕太郎の新刊を片っ端から購入した。
当然、宇多田ヒカルの母である藤圭子さんのことが書かれた“流星ひとつ”もすぐに手に入れた。
かつて不可解な理由でカンバックしたモハメドアリの試合を、沢木耕太郎はアメリカまで観に出掛けている。
その時に綴られた“砂漠の十字架”からは、アリは、いつまでもアリとして存在してほしいという沢木耕太郎の切実な思いが行間から、零れている。
あの時に沢木耕太郎がアリに抱いた思いを、僕は味わうことになるのだろうか。
アリの試合のチケットを沢木耕太郎に快く譲ったのは、高倉健さんである。
その高倉健さんも、藤圭子さんが亡くなられた翌年にお亡くなりになられている。
誰の時も流れてゆく。