あしたの鉄人

戦々恐々の日々

揺れる老木 3

  約十年振りに再会した親友と酒を呑んでいた。

 互いの近況を報告し合った後で、他愛もない話が続く。

  酒を呑んでいる彼の横顔を見ていると、不意に自分の中でなにかが明滅し、そして弾けた。

 日々、積み重ねられてゆく記憶によって随分、下の方に追いやられてしまっていたものがゆっくりと浮上してくる。

  あれは大学三回生の春のことだったと思う。

 野球部の春期リーグ戦が終了し、めずらしく週末の練習が休みになったときのことだ。

 僕はすぐに彼に電話をかけて、「何処かへ行かへんか?」と誘ってみた。

  急な誘いなのに彼はすぐに承諾してくれ、電話を切る頃には、何故か京都にゆくことになっていた。

  数日後に長野から京都に向かう。

  しかも電車や夜行バスでゆくのではなく、ヒッチハイクで京都を目指す。

  そんな今思えば、粗暴で無計画な時間を、あの頃の僕と彼は頻繁に過ごしていた。

 

──大学一回生の冬に、僕は妙な危機感に苛まれ続けていた。

  

 大学という場には、独特の時間軸が存在する。

 高校までのように学業のスケジュールは詰められておらず、夏や春には二ヶ月に及ぶ休講期間が設けられていた。

  大半の学生たちは、この長い休講期間を実家に帰省して過ごしたり、リゾートバイトに励んだりして学生の期間にしかできない経験を積むことに費やす。

  この休講期間中は、大学の学舎や激しく老朽化した我が寮から学生たちの姿が消える。

  寮には、体育会系のクラブに所属する学生が多くいたが、休講期間中はそのクラブも大半は休みになっていた。

  しかし野球部の練習は、年末と正月の期間以外は休むことなく続けられた。

  夏のお盆の時期ですら、僕たちは北関東一帯に長い遠征に出ていた。

  遠征先で民宿の近くに海があると試合後、みんなで泳ぎに出掛けることが許された。

  それは決して無意味なものではなかったが、大学生の夏期休暇の過ごし方としては薄く、なにかが決定的に欠けてしまっていた。

  遠征先では、禁じられている酒を気の合う数人と呑んでは、規律に従順なグループのヤツらに何度も咎められたりした。

  しかし一方で、何処かそんな生活に酔っているところもあって、休講期間に合わせて練習まで休みにする体育会系クラブの連中を皆、心底から軽蔑していた。

  長い休講期間が終わりに近づくと、様々な体験を積んだ仲間たちが続々と寮に帰ってくる。

  久し振りに顔を合わせた友人たちの充実した体験話を聞いていると、彼らが皆、何かを掴んで帰ってきたように僕には映った。

  大学内の寮とグランドだけを往復し、遠征の時ぐらいにしか外界に出ない自分は、貴重な何かを掴み損ねているのではないかという焦燥が急激に胸に渦巻いてゆく。

  リゾートバイトに出掛けていった友人たちからは、そこで出会った女性との淡い日々のことも聞いた。

  大学の構内に閉じ籠り、毎日、限られた人としか顔を合わせない自分に、そんな出会いなど訪れよう筈もない。

  このまま学生生活を送っていると、後で酷く後悔するのではないか。

  その思いは、日を追うごとに膨張してゆき、一回生の終わり頃には、自分で何らかの行動を起こして、この状況を打開しようと試みるようになっていった。

  実家が商売をしていた所為で、僕はうちにアルバイトにやってきた大学生たちとよく親しくなった。

  僕が中学生の頃は、実家はある国立大学に通う学生さんをアルバイトとして雇っていた。

  大人しい学生さんだったが、この人から僕は様々なことを教わった。

  その学生さんは大学で“冒険部”というクラブに所属し、探検家である植村直巳さんの真似事のような活動をしていたらしく、その話をよく聞かせてくれた。

  中でも印象に残っているのは、うちの実家近くにある山にパラグライダーを担いで登り抜き、その山頂から大空に駆け出した時の話だ。

  学生さんは山頂付近から走って、パラグライダーで大空に飛び立ったまでは良かったものの、急に疲労に襲われ、宙に浮いたまま眠ってしまったらしい。

  激しい衝撃で目を覚ますと、パラグライダーが木に引っ掛かり、学生さんの身体は宙吊りとなっている。

  そこから学生さんは、何時間もかけてなんとか自力で脱出し、山を下りた時に泣いたそうだ。

  この話に中学生だった僕は痺れ、とても憧れた。

  興奮した僕は、すぐにこのことを父親に話してしまった。

  話の途中で父は「あいつやったんかい!」と怒り始めた。

  観光協会の役員をしていた父は、この無謀な大学生の遭難騒ぎに巻き込まれてしまっていたらしい。

  この話が印象に残っていて、自分もあの学生さんのように“冒険部”のようなことを大学生活の間にしてみたいと強く思い始めた。

  一回生も終わりに近づく頃、僕は寮の仲間や同じゼミの友人たちに“冒険部”の話をし、一緒にやらないかと声を掛けてみた。

  仲間たちの中に、何人かそれを面白がってくれるヤツらがいて、すぐに話は進んでゆき、月に一回のペースで何かやろうということになった。

  ただ疲弊し、歪んでゆくだけだった僕の大学生活は、ここから一気に動き出すこととなる。

  “冒険部”というネーミングはダサ過ぎると仲間たちの猛反対にあい、“あるこうかい”と改められた。

  今、考えても“あるこうかい”という名前の何処にスマートな要素があるのかは、さっぱりわからない。

  “あるこうかい”の最初の活動は、すぐ近くの長野市までヒッチハイクで行ってみようということになった。

  もちろん仲間たちの誰もヒッチハイクなんてしたことがなかったし、アメリカの大地なら兎も角、長野の片田舎でそんなことが成功するとは、とても思えない。

  それを面白いと捉えられるのが、きっと若さというものなのだろう。

  僕達は早朝に、行き先を告げるスケッチブックを持ちよって、大学の駐車場に集合した。

  あの冷え切った大気の中で見た、長野の薄く青光りする空と、身体と自我を激しく揺さぶる高揚感のことは今でも、はっきりと思い出せる。

  少なくとも僕と彼の、この後の道程は、あの底冷えする朝に決定づけられたのだ。

  籤引きで二人一組に別れて、僕たちはヒッチハイクを開始した。

  乗せてくれる人などいるのだろうかと思っていたが、仲間たちは皆、ヒッチハイクに成功し昼前までに長野市に到着した。

  大したことはしていないのだが、その時の僕たちは大冒険を終えたような気分になった。

  特に寮での集団生活と野球部の練習だけしかない日々を送っていた僕は、やっと学生生活というものの一端に触れられたような気がして感情を激しく揺さぶられた。

  それからは憑かれたように、野球部の練習が休みになると様々な手段を考えだしては、色んな所に出掛けてゆくことにひたすら興じるようになった。

  それだけこの初期衝動は強烈なものとして、僕の胸奥に刻まれた。

  自転車で新潟県の県境にある湖まで行ったり、夜中に延々と歩いて見晴らしの良い峠に登ってゆき、朝焼けに染まる長野の街を飽きるまで眺めたり、他の人から見たら無為にしか映らないであろうことに僕たちは若い情動をひたすらぶつけ続けた。

  一年経ってみると仲間たちの何人かは、この“あるこうかい”での活動を大学生活の主軸に据えるようになっていた。

  その中でも、彼はいつしか旅に出掛けることだけに、生活の全てと若い情熱をぶつけるようになった。

  いつの頃からか彼の印象は、大学生というよりも、旅人と呼んだ方がしっくりとする佇まいと空気感を持つものに変わった。

  彼の旅は、僅かな時間で尖鋭化されてゆき、仲間内の誰もが、彼の動向に注目した。

  夏期休暇の長い日々も、彼はその全てを旅にあてた。

  アルバイトは旅に出るための費用を稼ぐためだけに行い、ちゃんと講義に出席するのも、一刻も早く大学を卒業し、海外へ長い旅に出掛けるための準備の一つらしかった。

  相変わらず、僕には野球部の練習があり、彼の長い旅に同行することは叶わない。

  何度かいっそのこと、野球部を退部して自分も彼と同じく、旅に出ることだけに賭けてみようかと考えたことがある。

  だが何故か、二回生の夏頃から野球部での練習の中に充実したものを感じられるようになっていた。

  練習の合間に色んな体験をしたことで、物事を捉える角度に少しづつ変化が起こった所為かもしれない。

  そして三回生の初夏に、僕と彼はヒッチハイクで京都にゆくこととなった。

  初めは、すぐ近くにある長野市にすらたどり着けないかと思っていたものだが、この頃になると時間さえあれば、ヒッチハイクで日本の何処にでもゆけることを僕達は知っていた。

  僕は、何度か東京にヒッチハイクで行っていたし、彼もあれからヒッチハイクで何度も遠出をし、二人とも一度も失敗したことがなかったからだ。

 ただこの京都までの道中では、名古屋でなかなか乗せてもらうことができずに、何度か場所を変えているうちに道に迷ってしまい、かなりの時間を浪費してしまった所為で、京都にたどり着いた頃には、夜が明け初めていた。

  早朝に祖母の家を訪ねるわけにもいかず、桃山御陵にゆき、そこのベンチでなんとか二人で仮眠をとった。

  丘の上にある桃山御陵からは、盆地である京都市内が何処までも見渡せる。

  目の前にある向島団地が、朝焼けに染まってゆく。

  大学に入ってからの数年で、彼とは様々な場所で朝焼けに染まる街並みをともに見てきた。

  夜通し話をし、まだ覚醒しきっていない街が朱く染まってゆくのを黙り込んで眺める。

  そんな時は不意に胸をつかれ、危うく涙を溢しそうになることが何度もあった。

  今は、もうああ言う激しい感情を抱くことはないだろうと思う。

  そう言う季節を僕達はともに生きていた。

  この京都への旅の道中で、夢枕獏が書いた“瑠璃の方舟”と言う本に僕は出会った。

  僕は高校生の頃から、この夢枕獏のファンであったのだが、この“瑠璃の方舟”と言う本のことは全く知らなかった。

  昼前に祖母の家へと上げてもらい、すぐにこの“瑠璃の方舟”を読み始めた。

  この“瑠璃の方舟”は、夢枕獏の体験を元にして書かれた青春小説なのだが、ここまで純文学として完成度が高く、しっかり魅せることが成立している青春小説に僕は今も出会えていない。

  近年、巷で話題になっている純文学系青春小説と読み比べてみても、“瑠璃の方舟”は遥な上方に位置しているように思える。

  勿論、夢枕獏は大物作家の一人であり、数多くの賞も獲得しているのだが、この“瑠璃の方舟”は全くと言っていいほど、知られていない。

  ひっそりと存在する名作が放置されている一方で、逆に歪な部分に目を瞑られ、妙なまつり上げ方をされている青春小説があることを思うと、なんとも勿体無いような気になる。

  この夢枕獏の“神々の山嶺”と沢木耕太郎の“深夜特急”が“あるこうかい”の仲間の中で、バイブルのようになっていた。

  60年代から70年代に吹き荒れた学園紛争という狂騒の中で、当時の大学生たちはバリケードの奥で“あしたのジョー”を好んで読んでいたという。

  確かに“あしたのジョー”の中には、青い情動の指針となるような場面や言葉が数多くある。

  それと同じく“深夜特急”や“神々の山嶺”には、当時の僕たちを指し示すものが確かに存在していたのだ。

  京都への旅から数年後、彼は“深夜特急”で沢木耕太郎が旅した道程をなぞるようにユーラシア大陸へと旅立っていった。

  僕はその時もやっぱり自分の状況を手放すことができず、彼に同行できなかった。

  沢木耕太郎のある本の中に、中年の男が旅をする若者を羨む場面がある。

  若者は「今からあなたも旅に出てみてはどうか」と中年の男にすすめてみる。

 「もう遅い…」とだけ言い残し中年の男は去ってゆく。

  今ならその逸話の意味が理解できる。

  まだ青い色硝子のようなものが、自我の何処かに漂っているうちに国外に飛び出さないと、感じられないことがあったのだ。

  残念ながら僕は、そういう巡り合わせには恵まれなかったし、それはやはり自分では強く望んではいなかったと言うことなのだろうと思う。

  海外にゆくことが叶わなかった僕は沢木耕太郎のスナップ集である“天涯”を何度も開いてきた。

  あえてインパクトを押さえて、何気なく撮られた写真ばかりが集められた“天涯”には色んな国の自然な光景が何処までも続く。

  ある写真の焦点は滲んでいるし、ある写真にはデジタルの日付が刻まれている。

  雑ともとれる幾枚の写真の何処からも、小難しく面倒くさい芸術的なものは感じられない。

  この疲労なく海外を眺められる“天涯”は、僕の旅への未練を何度も静めてくれた。

  十年振りに再会した京橋の居酒屋でも、僕と彼はあの頃、桃山御陵姨捨山でも何度も話した沢木耕太郎のことを話題に選んだ。

 「最近の沢木耕太郎の本、読んだかい?」と彼が尋ねてきた。

  僕は数年前に、クライマーである山野井夫妻の苦闘を書いた“凍”を最後に、沢木耕太郎の本から離れていた。

  “凍”でも沢木耕太郎は自分を完全に消し去り、山野井夫妻に起こったことだけを細部まで詳細に書き切るという斬新な試みに挑戦していた。

  好きな作家が増えた所為か、この数年はなかなか沢木耕太郎の新刊を読むことに気が向かなかった。

 「“凍“から読んでへんわ。最近の沢木耕太郎はどんな感じなん?」と聞き返してみると、彼は間を置き、俊巡したのち──

 「老いたかも…」

 とだけ言った。

  その彼の言葉に僕は思っていた以上に動揺し、最近の沢木耕太郎がどんなものを書いているのか事細かに聞いてみたくなった。

  彼は僕が浴びせかける質問に丁寧に答えてくれた。

  その中で沢木耕太郎宇多田ヒカルの母である藤圭子さんのことを書いて長らく封印していた本を解禁し、出版していたことを僕は初めて知った。

  沢木耕太郎藤圭子さんのことを取材し、書いた作品を結局、出版しなかったことは僕も知っている。

  何度か沢木耕太郎藤圭子さんの今後へ影響を及ぼすことを配慮して、出版しない決断を下した時のことを綴った文章を目にしたことがあったからだ。

  それを藤圭子さんが亡くなった後に出版する行為にどんな意味があるのか。

  そのことについて沢木耕太郎は、誰もを納得させる明確な返答を持ち得ているのだろうか。

  僕も彼も、あの頃のようにもうヒッチハイクで旅をすることはできない立場となった。

  旅人の間には、何かを得てしまったらヒッチハイクからは卒業しなければならないという格言のようなものがある。

  それはヒッチハイクが持たざる者だけに許されている特権のような移動手段だとされているからだ。

  僕も彼も家庭を持った今となっては、ヒッチハイクをする側ではなく、持たざる若者たちに自分のできる範囲で力をかしてゆく側にまわらなくてはならない。

  自分たちが、あの頃にしてもらったように。

  僕達ですらこうやって年齢を重ねているのだ。

  沢木耕太郎が老いることも自然なこととして捉えなければならないのかもしれない。

  何処か引っ掛かるのは、その老い方がどんな類いのものなのかということである。

  夢に破れた僕も、長らく旅に出続けた彼も、身を持ち崩すことなどなく、今は社会で戦い家庭を守っている。

  それは、あの頃に僕達が指針とした沢木耕太郎の言葉に少なからず影響を受けたからだとも思う。

  その沢木耕太郎の老い方が、思いもかけないものだったとしたら…

  彼と再会を果たしてから数日後、僕はまだ読めていなかった沢木耕太郎の新刊を片っ端から購入した。

  当然、宇多田ヒカルの母である藤圭子さんのことが書かれた“流星ひとつ”もすぐに手に入れた。

  かつて不可解な理由でカンバックしたモハメドアリの試合を、沢木耕太郎はアメリカまで観に出掛けている。

  その時に綴られた“砂漠の十字架”からは、アリは、いつまでもアリとして存在してほしいという沢木耕太郎の切実な思いが行間から、零れている。

  あの時に沢木耕太郎がアリに抱いた思いを、僕は味わうことになるのだろうか。

  アリの試合のチケットを沢木耕太郎に快く譲ったのは、高倉健さんである。

  その高倉健さんも、藤圭子さんが亡くなられた翌年にお亡くなりになられている。

  誰の時も流れてゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

揺れる老木 2

 夏の遠征が近づき、硬式野球部の練習は日に日に苛烈さを増してゆく。

 目前に前期試験が控えていようが、課題小論文やレポートの提出期限が迫っていようが、そんなことは全く配慮されることなどなく、果てることのない練習が日々、続いてゆく。

 この頃、僕と同じ年代に名門高校出身の選手が多数いたため、硬式野球部は創部以来、最強の布陣と言われるほど戦力が充実していた。

 事実、僕の同期生たちは入学してすぐに先輩たちからポジションを奪い取り、今まで苦汁を飲まされ続けてきた格上の大学を相手にした試合でも、一度も負けることはなかった。

 夏の遠征で、よりチーム状態を固め、秋の公式リーグ戦を制し、上部リーグとの入れ替え戦に突入してゆくことになるだろうと部員全員が確信していた。

 弱小野球部などと言われていたチームが突如として変貌を遂げ、勝利を重ねてゆく。

 講義を終えて、クラブハウスに向かうと、そこには熱狂ともよべる濃い高揚感がいつも立ち込めていた。

 もっとも名門校出身でもなく、大した実力もない僕は、練習場や球場で躍動する同学年の選手たちを、外側からただぼんやりと眺めているだけだった。

 レギュラーの座を手中に納めた選手達が実戦的な練習を重ねているのを尻目に、僕や補欠となった数人は毎日、初夏の強い日光に炙られたアスファルトの上を、ひたすら走り続けねばならない状況に陥っていた。

 講義を終えて、仲間たちと笑い合いながら、最寄り駅まで向かう学生たちの傍を汗だくになりながら走り抜ける。

 いつも意識は朦朧とし、自分を縛りつけているこの過酷な時間が、無為なものとしか思えなくなってゆく。

 夏の輪郭が濃くなるにつれ、闇夜が訪れる時刻も遅くなっているはずである。

 しかし疲労感に心身を支配され、ふらふらと寮にたどり着くのは、いつも陽が落ちた後だった。

 そこから練習着の洗濯などに追われる。

 寮には、二層式の洗濯機が数台しか置かれていない。

 寮生の大半が体育会系のクラブに所属しているのだ。

 二層式洗濯機、数台という手薄な物量でその需要に応えられるわけがない。

 くたくたになって寮に帰り、洗濯室を覗いてみても、いつも洗濯機は可動しており、洗濯機が空くまで何度も部屋と洗濯室を往復しなければならなかった。

 しかも二層式洗濯機というのは、洗濯層と脱水層とが別れており、洗濯が終わるとすぐさま、洗い物を脱水層に移し代えなければならない。

 その作業が少しでも遅れると、順番待ちをしている寮生に洗濯物を放り出される羽目となる。

 自分だけの部屋を借りることができ、全自動洗濯機を所持している他の学生たちが羨まくて仕方がなかった。

 この洗濯機の争奪戦は幾度となく、寮内で諍いごとの種となった。

 寮長が何度も学生課に洗濯機の台数を増やすか、全自動洗濯機に代えるかして欲しいと陳情に行ってはいたが、一向に改善される気配はない。

 大半の寮生たちは、洗濯が終わるまでの空白の時間に部屋まで戻っていた。

 しかし僕は何度か脱水層に洗濯物を移し代えるタイミングを逸し、濡れた練習着を放り出されたことがあったので、洗濯が終わるまでの間、そこで待つことにしていた。

 洗濯室の床に腰を下ろし、洗濯が終わるまでの間、本を読むことが僕の日課だった。

 クーラーなんてあろう筈もなく、うだるように暑い寮の中で、洗濯室の床はひんやりとしていて酷く気持ちが良い。

 この時期、僕は沢木耕太郎の“一瞬の夏”を貪るように読んでいた。

 洗濯室で本を読む時間は、僕にとって大切なものだった。

 ある夜、練習着を洗濯機に入れていると洗濯室の扉が勢いよく開いた。

 目をやると一つ学年が上のテニス部の男が立っている。

 男は僕が洗濯物を入れているのを見ると睨みを利かせ、いきなり「かわれ!」と言った。

 僕は、この男と言葉を交わしたことすらない。

 なぜそんな男にいきなり命令されなくてはならないのか。

 僕が通っていた高校は、地域でもガラが悪いことで有名だったし、母親は僕がその高校に通うことになったとき、絶望し泣いてしまったほどだった。

 そんな高校時代に、つき合いのあった野獣のような“ヤンキー”たちと比べると、このテニス部の大学生は滑稽なほど迫力に欠けた。

 無視して洗濯を続けようとすると「代われと言ってるだろ!」と男が怒鳴りながら、近づいてきた。

 寮生活の鬱憤を晴らせる好機だと、僕はなぜか高揚していた。

「なんでお前に代わらなあかんねん!」

 そう言って男に向かってゆくと、男は舌打ちをして洗濯室から出て行ってしまった。

 野球部の先輩か寮長を連れて来られたら面倒なことになるなと頭に過ったが、この場を離れるのが、何だか酷く格好悪いことに思えて、いつも通り、床に座って“一瞬の夏”を読むことにした。

 二層式洗濯機の音が耳に届き、冷えた床からその振動が伝わってくる。

 その感触に身を委ねながら、ぱらぱらとページをめくっているといつもすぐに“一瞬の夏”の世界に身を浸すことができた。

 日本人と米国系黒人とのハーフであるボクサー“カシアス内藤”と沢木耕太郎の姿が僕の脳裡に現れる。

 センスに恵まれながら、根の優しさと臆病さとが足枷となり、リングの上で煮え切らないボクシングを続けているカシアス内藤

 彼は三度、東洋チャンピオンの座に挑戦する機会を得るものの、その都度、敗退を繰り返す。

 いつもカシアス内藤の挑戦を退けるのは柳という韓国人ボクサーであった。

 沢木耕太郎は同年代ということもあり、カシアス内藤に興味を抱き、取材を続ける。

 いつしかそれは取材という範疇を超え、沢木耕太郎カシアス内藤というボクサーと、ともに歩み始めるようになる。

 燃え尽きることもなく、己の熱量や夢といったものを、現実との摩擦によってすり潰されてしまった内藤は消え入るようにボクシングの世界から、いつの間にかいなくなっていた。

 後に“深夜特急”として綴られることになる一年にも及ぶ、長い旅を終えて帰国した数年後、沢木耕太郎は己が生きてきた道程から弾き出されたカシアス内藤が、再び自分の居場所を求め、ボクシング界にカンバックしようとしていることを知る。

 多くの旅人のバイブルとなっている“深夜特急”は、世界旅行の紀行文として世の中には知られているように思う。

 しかしその旅の本質は、若きノンフィクションライターの世界見聞録というような優雅なものではない。

 沢木耕太郎がその旅に出たのは、外国が文字通り、自国の遥か外側に位置していた年代である。

 現在のように国境が緩くなり、PCの画面から地球上にいる誰かの生活を覗くことができるような時代ではなく、異国の文化や治安の不透明な部分は己が身を投じてしか確かめることができない頃だ。

 沢木耕太郎は何ごとかにアプローチをするとき、必ず人とは異なる方法を試みる人物だと僕は認識している。

 未知の世界と対峙した若き沢木耕太郎は、インドのニューデリーからイギリスのロンドンまで乗り合いバスだけを使って行き着こうとする。

 ユーラシア大陸を路線バスだけを使って横断してゆく。

 これはなかなかに無謀で、イカれた行為のように映るし、かなりの熱量と勇敢さを持ち合わせていないと成就できないことのように思える。

 “深夜特急”から影響を受け、海外に旅立った末に、運悪く様々な危険に遭遇してしまった若者も少なからずいることだろう。

 そこには気の抜けない日々が、連なっていそうだと想像できる。

 そんな張り詰めた渡航の中にあって、若き沢木耕太郎は将来への不安や、社会や自我との折り合いのつけかたに葛藤したりする。

 長大な“深夜特急“の中に時折、出てくるこのシーンが僕は好きだった。

 これが執拗なものだったり、過度に感情的なものだったりすると途端に自分には合わなくなる。

「あぁ面倒くさ。安っぽいな」と萎えてしまうのだ。

 生々しくならない程度に挿入されている自己語りは、逆に真に迫ってくるものがある。

 この辺のバランス感覚を持ち合わせることが、嫌悪感や疲労感を与えずに、人にものを伝える“技量”のようなものらしかった。

 長い旅を終えた沢木耕太郎は、帰国するとともに再びルポルタージュを書き始める。

 ルポルタージュの書き手というのは、あくまでその取材対象である人物や事柄が存在しているから成り立つ職業である。

 語り手は、その役割を全うせねばならず、自分の思考や意思を伝えたいと願うならば、対象の行動や思念に沿う形で小出しにしてゆくしかない。

 それは、果たして自分の道程を全力で生き切っていると言えるのか?

 沢木耕太郎の作品からは、そのことで悩んでいるらしいことが伺えた。

 悩みの濃度が四六時中、思考を支配しているほど濃いものなのか、それともふとした瞬間に自我を掠めてゆく程度のものなのか、その辺りは読み手側が、勝手に想像するしかない。

 同じ作家が綴ったものを、幾つか読み進んでゆくと、その作家の人生観や悩みの輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる時がある。

 ある時期までの沢木耕太郎が綴ったものからは、ルポルタージュライターという職業への迷いみたいなものが染み出していた。

 ただある年齢に差し掛かると、生きてゆく上での役柄など、自分の道筋にとって大した問題にはなりえないことに人は気づいてゆく。

 “一瞬の夏”での沢木耕太郎は思う存分、自我をぶつけている。

 カシアス内藤というボクサーを取材対象とし綴られてはいるが、それは決してカシアス内藤一人にフォーカスしたものではなく、何かが吹っ切れたように沢木耕太郎はそこに介在し、“主観“をぶつけその物語を書き切る。

 “一瞬の夏”は“私ノンフィクション“と命名され、ルポルタージュの中に新しい方法論と可能性を示したことで新田次郎文学賞を授賞した。

 “一瞬の夏”の以前に、沢木耕太郎カシアス内藤の東洋タイトルマッチに同行した時のことを描いた“クレイになれなかった男”という短編を発表している。

 そのラストシーンで不甲斐ないファイトに終止したカシアス内藤が弁解するように「僅かなファイトマネーで命を掛けるような試合をするわけにはいかない」と呟く。

 その言葉を聞いて沢木耕太郎は深い徒労感に襲われながら「いつそんな試合をするの?」とカシアス内藤に問う。

「いつか…そういう時がきたら、いつか…」

 それを聞いた沢木耕太郎は、人間には“燃え尽きる人間“と“燃え尽きない人間“、そして“いつか燃え尽きたいと願い続ける人間”の3つのタイプがあると結論づける。

 その直後、恐らくカシアス内藤にそのいつかがやってこないように、自身もいつかを迎えることはないだろうことを悟る。

 このラストシーンからは、ある種の強い哀切と酷く湿ったものが感じられる。

 それから数年が経った“一瞬の夏“でカシアス内藤沢木耕太郎は、今度こそ燃え尽きようと再び試みるのだった。

 “一瞬の夏”のラストは、“クレイになれなかった男”のように湿ったものではない。

 タイトルマッチに敗れたカシアス内藤には暫くして子供が生まれ、沢木耕太郎はその“一瞬の夏”でタイトルを得た。

 自我が燃焼するような瞬間は、やってこないのかもしれないが、それに向かって挑戦することは決して無駄ではないという前向きなメッセージを沢木耕太郎は自身と読み手に激しさを持って伝えている。

 “一瞬の夏”の中に沢木耕太郎が高崎までカシアス内藤の対戦相手である若いボクサーを取材しにゆく場面がある。

 そこで取材しにゆくのか、ある同じ夢に向かって突き進んでいる内藤のために偵察しにゆくのかという葛藤が生じる。

 そのあたりを夢中で読んでいると、不意に洗濯室の粗末な扉が開いた。

 この学生寮には不釣り合いなスーツ姿の男が入って来て、僕を見て「君か…」と呟いている。

 この人物は学生課の吉岡さんという人で、野球が好きらしく、高校生になる息子さんを連れて我が野球部の試合を頻繁に観に来てくれていた。

 そんな吉岡さんがなぜ寮の洗濯室に、いるのかと不思議に思い「どうしたんですか?」と僕はすぐに尋ねた。

「また洗濯室で学生が揉めてるって寮母さんから電話があったんだよ」

 吉岡さんの返答に激しい怒りが湧く。

 先程、言い掛かりをつけてきたテニス部の男が寮母さんに何事かを言ったらしい。

「いや別に何もないっすよ」と言って事情を説明している最中に酷く億劫な気分になり、弁解めいたことをしている自分に嫌気がさした。

 僕がとるに足らないような男を相手にしたばかりに、吉岡さんはわざわざこの寮まで足を運ばなければならなくなったのだ。

 すぐに謝罪に切り換えると「野球部にとって大事な時期なんだから、つまらないやつを相手にしてはだめだよ」となんとも優しい言葉を掛けてくれた。

 何故か張り詰めていたものの何処かが決壊したような気分に襲われ、涙が零れそうになる。

 それを何とか押し留めていると「うちの息子は来年、東京へ進学するんだけど、君たちくらい逞しかったらなぁ」と吉岡さんが息子さんの話を始めた。

 球場で見掛けた息子さんの線のか細い姿が思い出された。

 確かにあの子が一人で東京に出てゆくとなると心配は尽きないだろうと思う。

 うちの両親のように「どうとでもしよる」と言うスタンスではいられなそうだ。

 脱水が終わるまでの間、吉岡さんは僕につき合ってくれて、様々な話をした。

 その行為が親元から離れて、時代にそぐわない寮で集団生活を送っている僕の何らかの感情を癒そうとしてくれていることは明らかだった。

 高校時代の僕は、なかなか進路を決めきれず片田舎の街に残り、アルバイトをしていたレンタルスキー屋でそのまま就職でもしてしまえばいいとくらいに思っていた。

 大して勉強などに励んでいなかったが、極端に偏差値の低い高校では目立つくらいには成績は良かった。

 進路を決める時期になると、担任の教師から学校推薦を受けられるからと強く大学への進学をすすめられた。

 教師はうちのクラスから大学へ進学する生徒を出したいと熱っぽく語り、文章が巧いという理由から、小論文で試験が受けられる大学を僕より熱心にピックアップして渡してくれた。

 大学への進学を薦められるなどと夢にも思っていなかった母親は酷く感激し、やたらと僕の行く末に介入してくるようになった。

 父親の方は「金がかかるなぁ」と露骨に嫌な顔をし、「三つだけ受けてもいい」と言ってくれた。

 最初は乗り気ではなかった僕も、同じ年齢の子たちに文章を書くことで負けるのは嫌だと思い始めた。

 そんな経緯で始まった大学生活は、野球部の練習と寮での集団生活にただ疲弊してゆくだけの日々だった。

 運動部にも所属せず、自分だけの部屋を借りアルバイトや宴会にだけ精を出しているような学生たちには、何とか一矢報いねばならない。

「頑張ってね」と吉岡さんは僕に声を掛けて、洗濯室から出ていった。

 興味の湧かない語学系やペーパーテストを用いている講義の試験で負けるのはいい。

 しかし文章を書いてレポートを提出する講義で負けるわけにはゆかない。

 大学の四年間で僕は様々な文章を書く機会に恵まれたが、その全てにかなりの熱量を込めて挑んだ。

 文章を書くうえで、いつも沢木耕太郎が綴ったものを頭に置いた。

 何とか揺るがない自我を築き上げんと躍起になっていた時期に、沢木耕太郎に触れていたことで多くのものを学んだと思う。

 社会との距離感や、人や事象を見るときの方向の変え方など、それは多岐に及ぶ。

 そんな沢木耕太郎が老いて、判断を誤ったのではないかと疑念を抱く日がくるとは、当時は思いもしなかった。


 

 
 

 

                       

 
 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 

 
 

 

 
 

 

 

  

 

 
 
 


 
 

 

 
 

  

 
 
 
 
 

 
 


 

 
 

揺れる老木 1


 沢木耕太郎のことを初めて知ったのは、確かまだ高校生の頃だったと思う。

 当時、好んで読んでいた作家の本の“あとがき“に、不意にその名が出てきたのだ。

 その“あとがき“の中で、僕が好きな作家は沢木耕太郎への熱烈な思いを何の気後れもなく語っていた。

 同業者への正直な気持ちを、読者に向けて熱く語る。

 そんな親しみやすさが、その作家の魅力でもあった。

 名前はそのときに覚えたものの、なかなか沢木耕太郎が書いたものを読む機会には恵まれなかった。

 人との出会いと同じく、本との邂逅にも縁というものがあり、ベストなタイミングで手に取ることが何よりも大切だと僕は、今も思っている。

 高校を卒業した僕は、大学の産業社会学部へと進学することとなった。

 大学では、高校の頃に好きだった日本史や政経といった学問を、思う存分深めてゆくことができると僕は期待し、そして気負ってもいた。

 しかしそんな青臭い一時の情動は、いざ大学生活が始まるとすぐに冷え込んだ。

 社会学部の支柱であるはずの“社会学概論”という講義が、絶望的につまらないものだったからだ。

 しかも“社会学概論”の講義を担当していた教授は毎回、出席カードの色を変えて配るような小狡い男だった。

 その男はカードの色を変えて配ることで、“代返”と呼ばれる学生たちの不正行為を牽制したつもりでいたようだ。

 我大学の学生たちが持つ士気は、そこまで低いものではなく、内容が濃く面白い講義の出席率はとても高いものだった。

 講義に学生たちを集めることが可能な講師は、確固たる自信と信念のもとに、出席すら取ろうとしなかった。

 そんな格好良い大人と同じ土俵に立ちながら、自身の退屈な講義を改善しようともせず、学生たちは不正行為を働くものだと決めつけ、姑息な策を弄す。

 自分が行っている行為が、いかに卑しく、それによって学生たちの心がどれほど、離れてゆくものなのかを考えようともしない。

 大学の教授ともあろう人物が、そんな精神性しか持ち得ていないことに、若い僕は酷く苛立ち、“社会学概論”と言う講義自体を嫌悪の対象とした。

 一方で社会学部のもう一つの柱とされる“社会調査論”という講義には、とても興味を惹かれるものがあった。

 恐らく三十代であろう女性講師が、その“社会調査論”の担当だった。

「この講義で学んだことを、あなたたちの人生や実社会で必ず役に立ててほしい!」

 そう言う己が持つ願望を、講義の最中に過剰な熱量を込めて、その女性講師は僕たち学生に頻繁に伝えた。

 大学には講話が巧い講師は何人かいたが、この女性講師のように直接、エネルギーをぶつけてくるタイプは珍しかった。

 その社会調査論では、フィールドワークを主に学んだ。

 フィールドワークとは調査対象である地域や団体に接触し、それに関わる人たちに聞き取り調査を行ったり、アンケートをとったりすることで、できる限り真実や実態を浮き彫りにする、基礎的な社会調査の手法である。

 その講義の中で、僕は初めてルポルタージュ、報告文学と言われるものを読む機会を得た。

 それまで純文学や推理、娯楽、SF等の小説や戦記物ばかり読んでいた僕は、このルポルタージュが持つ生々しい臨場感にすぐにのめり込んだ。

 当時の精神病医療の実態を調査するために、筆者自身が酒浸りとなり、アルコール中毒患者になりすまして、精神病院に潜入して書いた“ルポ精神病棟”や、

 大手メーカーの自動車工場で実際に数ヵ月間、ライン労働に従事した若者が書いた“自動車絶望工場”などのルポルタージュを僕は貪るように次々と読んだ。

 学食横の生協には、小さな書籍売り場が併設されていて、そこでは主に講義で紹介された書籍が売られていた。

 “社会調査論”の講義中に女性講師が、「このルポルタージュを読んでおくように!」と言うと僕は講義後、この小さな書籍売り場に直行し、言われた本をすぐさま購入した。

 単純にルポルタージュという今まで読んだことのなかった新しい分野の本に、はまり込んでしまっただけのことなのだが、女性講師には随分、熱心な学生だと勘違いされてしまったようだ。

 当時、僕は髪の毛を下品なくらいに赤く染めていて、そんなヤツが勉強熱心なはずがない。

 現に全く興味が沸かない語学系の成績は惨憺たるものだったし、よく講義をさぼって、友人達と一緒に隣の女子短期大学の前を意味もなく往復することに興じたりしていた。

 僕にとっては、講義で薦められたルポルタージュは“ジョジョの奇妙な冒険”と同じく、単純に面白いと感じられるものだっただけだ。

 生協には、なぜか“週刊プロレス”も売られていて、頻繁にお堅い本と“週刊プロレス“を同時に購入していたため、友人達に「本当によくわからんヤツだなぁ」といじられたりした。

 金銭にはいつも困っていたが、うちの母親が寮母さんに書籍代だけは預けてくれていて、お堅い本を買って寮母さんに見せにゆくと、その分の代金だけは受け取ることができた。

 しかし金を受け取る際に初老の寮母さんが毎回、「それいやらしい本と違うやろねぇ。けけけ」などと何とも整え難いことを言ってくるので、面倒くさくて仕方がなかった。

 不意に講義中に女性講師が、沢木耕太郎の名を出したときには、なぜか僕はどきりとした。

 以前より名前は知っていたのだが、沢木耕太郎が優れたルポルタージュの書き手だということを、僕はこのときに初めて知った。

 僕は勝手に沢木耕太郎は、小説家なのだろうと思い込んでいたのだ。

 そのときの講義はフィールドワークで得た調査結果を、どうやって人に伝えてゆくかと言うような内容だったと思う。

 いつものように女性講師は、大教室に漂う気だるい空気を余りある熱量で気化させ、壇上を所狭しと動き回っている。

「せっかく苦労して、手にした調査結果も人に読んでもらえなければ何の意味もないのです! 調査結果を、どうしたら人に読んでもらえるのか? ただアンケートの結果やインタビューの内容を書き連ねただけのものなんて誰も最後まで読みはしません! 読み手の興味を最後まで、どうやって持続させるのか? それをあなた達の若く瑞々しい感性で考えて欲しい! 」

 女性講師が、もう何度も聞いたことのある言葉を口走っている。

 何度も繰り返し語っているであろう話にいつもと変わらぬ心を込める。

 なかなか誰にでもできることではないし、この女性講師が僕達、学生と手を抜かずに向き合おうとしていることが、ひしひしと伝わってきた。

 僕は今でもそうなのだが、こう言う燃費の悪い人物に滅法、脆い。

 いつもと同じ、慣れた何でもない道にありったけの燃料を後先も考えずに注ぎ込む。

 決して器用などではなく、時には強く頭を打ち付けることもあるだろう。

 だがそこには、何にも代え難い信頼でき得るものがあると思えてならないのだ。

「“象がそらを飛んでいる“この情報を得たとしたら、あなた達はどんなものを想像しますか?」

 女性講師の言葉に触発され、僕は頭の中に何事かの想像を働かせようとした。

 ふわふわと学舎の上空に浮かぶ珍妙な象が、長野の切り立った山景を背に頼り無く風に揺られてゆく。

「あなた達の頭の中を飛んでいる象を、信じることはできますか? またそれを人が信じると思いますか?」

 女性講師の意図が理解できず、大教室には不可解な空気が漂う。

 しかしこの空気感は、つまらない講義のときに場を支配している散漫なものとは、質が違っていた。

 社会学部に籍を置き、卒業を目指すのであれば、ルポルタージュを書くと言う行為を避けて通ることはできない。

 そう言った事情が、学生達の集中力を高めている側面はある。

 しかしそれ以上に皆、女性講師の講話自体に引き込まれているようだった。

「“象が空を飛んでいる“こんな荒唐無稽なものを誰も信じないでしょう。 しかし“四千二百五十七頭の象が空を飛んでいる“と言えば信じてくれるかもしれない。 調査で得た正確な数値を記載することで、報告文の信憑性は増すのです!」

 見事な話の落とし処に僕たち学生は納得し、ルポルタージュの基本をノートに書き記そうと一斉にペンを走らせた。

「先程の空飛ぶ象の話は、沢木耕太郎という人が書いていたことです」

 沢木耕太郎の名が出た瞬間、僕はペンを走らせるのを止め、軽く息を吸い込んだ。

 気になっていた作家の名が、まさか社会調査論の講義中に出てくるとは思いもしなかったからだ。

 正確に言うと“空飛ぶ象“の話は、沢木耕太郎のものではない。

 ガルシア・マルケスと言う作家がインタビューの中で語ったものである。

 だが沢木耕太郎が、この“空飛ぶ象”の話を何度か著作の中に登場させていたことから、女性講師はそれが本人のものだと勘違いしたようだ。

 この時期から沢木耕太郎の名は度々、講義中に出てくるようになった。

 生協の書籍売り場にある平棚の上に、“深夜特急”が積まれていることに気が付いたのもこの頃だ。

 “深夜特急”は文庫化されて間がない時期だった所為か、平棚にうず高く積み上げられていた。

 好きな作家が語り、講義にも名前が上がり始めた人物の本を素通りできるわけがない。

 しかも“深夜特急”と言うタイトルは、若い感性や冒険心を根刮ぎ擽る、強い刺激を持っている。

 言語の大海原から二つの鋭い言葉を掬い上げ、繋ぎ合わせることで、より研ぎ澄まされた響きを生み出す。

 こんな高度なセンスを、タイトルから垣間見せる人物が綴った本なのだ。

 読んで何も感じられないなどと言うことが、発生する可能性は極めて低いように思えた。

 それでも“深夜特急”を、なかなか読み始めることに踏み切れなかったのは、“深夜特急”が一巻から六巻まであるシリーズものだったからである。

 六巻まで全て購入しようと思えば当然、金がかかるし、読むとなればそれなりに時間も費やさねばならない。

 何だかんだと迷っているうちに夏が近づき、社会調査論の前期課題に取り組む時期がやってきた。

 前期課題のテーマは女性講師が指定したルポルタージュの中から、数冊を選んで読み、リポートを書いて提出することだった。

 その指定されたルポルタージュの中に、沢木耕太郎の“一瞬の夏”が含まれていた。

 “一瞬の夏“──

 このタイトルは、痺れるほどにただ眩しい。

 “深夜特急”も“一瞬の夏”も、ぱっと思いつきで出てくるような言葉ではなさそうである。

 人が手に取ってくれるならと言う願望と、自らの作品に対する強いこだわりとが交錯し、時間を費やして確りと悩み考え抜いた末に、沢木耕太郎がタイトルを選定しているらしいことが窺えた。

 “一瞬の夏”は、ルポルタージュと言うよりもスポーツノンフィクションに分類された方が自然なように思う。

 女性講師が前期課題用に選定したルポルタージュの中には、他にも三菱銀行人質事件を扱った“破滅”などが含まれていた。

 事件もののルポルタージュが広く支持されるようになったのは0年代以降であり、僕が大学で社会調査を学んでいた頃は数も少なかった。

 幅広い分野のルポルタージュが前期課題に選ばれていたことから、女性講師がルポルタージュの面白さや奥深さを、学生達になんとしてでも伝えたいと願っていることが読みとれた。

 これはずっと先になってから少しづつわかってくることなのだが、健全な大人と言うのは、自分が情熱を持って取り組んできたことを、若い世代にも好きになってもらおうと心血を注ぐということだ。

 決して自分自身へ若い世代の目を向けさせるのでなく、自分の歩んで極めてきた道筋や分野に、若者たちの興味が向くように促す。

 そういう年長者というのは、バランス感覚も優れているし、真っ当な年の重ねかたをしている。

 兎に角、僕は大学一回生の初夏に沢木耕太郎の“一瞬の夏”を読むこととなった。

 その邂逅は、まだ地固めが完了していなかった僕の未熟な自我を激しく揺さぶるほど大きなものだった。



 

 
 

 

 

 

 


 


 


 

 

 

 

 

 

 
 

  

  

 

 

 

 

 

 
 

   

 

 

 

 



 

 

 

 

 
 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 
 



 

 

  

 

 

 

 
 


 
 

 
 

宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 3

 
 仕事を終えて、会社のゲートを潜ると細い路地に、最寄り駅に向かう人達の列がびっしりと伸びていた。

 会社の規則は厳格で、だらしない服装をした人等いないし、況してや歩きながら煙草を吸っている人や、スマホを操作している人も見受けられない。

 この細い路地に軒を連ねる居酒屋や、スナックには粗方、行き尽くした。

 どの店の人達も皆、親切にしてくれ、礼節を重んじる社風を褒めてくれた。

 以前、一緒に働いていた米国の友人達は、この密集した路地を見て、「アメージング!」と大仰に驚いていたものだ。

 古来よりの秩序が確りと伝承され、不思議な調和を成す、この箱庭の様な街路を、僕は気に入っていた。

 しかし最近は、そんな情景に目も止めず、最寄り駅まで全力で駆けて帰っている。

 仕事終わりに更衣室で着替えを済ませると、いつも電車の発車時刻までに、数分の猶予しか残されていない。

 その便を逃してしまうと、次の電車が来るのは十数分後だ。

 数分以内に次の便が来る様に、ダイヤグラムは組まれている筈なのだが、何故かこの時間帯だけ、ぽっかりと隙間が空いている。

 疲れた心身を晒しながら、ホームでぼんやりと佇む十分と言う時間は思いの外、長く感じられ、自我が薄まり不鮮明になってゆく様な気にさせた。

 一体、この無為としか思えない十数分を自分はこれから先、どれだけ積み上げてゆかねばならないのだろう。

 一週間で換算してみると、一時間近くに達する。

 月単位では…

 その辺りまで行き着くと大体、嫌気が差し、自分は酷く馬鹿げた事を考えていたなと気がつく。

 計算までして、積み重なってゆくであろう無為な時間を算出した所で、そんなものは思考を無駄に暗くさせるだけだ。

 今まで吐いて捨てる程、何事とも名付け難い時間を過ごしてきたのだ。

 今更、おたおたしても仕方がない。

 そう思い直してみても、ただの待ち時間をこれから、永遠と過ごさねばならないとなると酷く抵抗感が沸いた。

 ある時、夕刻の狭い路地を、走り抜けて行く若い男の姿を見掛けた。

 会社の巨大なゲートから、最寄り駅まではいつも通り、帰路に着く人の列が切れ目なく伸びている。

 若い男は、ゆったりと動いてゆく人の群れの脇を、確かな足取りで走行し、次々と追い抜かしてゆく。

 あのスピードなら、何とか数分後に最寄り駅を出発する電車に間に合うだろう。

 不意に僕の少し前を歩いていた中年の男達が、走っている若者に声を掛けた。

 しかし若い男は軽く会釈をすると、中年の二人組が発した何事かの質問にろくに答えもせず、そのまま走り去ってしまった。

 どうやら中年の男達とあの若者は、同じ職場で働く顔見知りらしかった。

 若者が、最寄り駅の方角に消えて行った後で二人組は「あいつあんなに急いで帰って、何やってるんやろ?」と話していた。

 会釈だけをしてその場をやり過ごし、駆け抜けて行った若者の表情には、何処か切実なものがあった。

 年を重ねると理解し難くなるのかも知れないが、きっと若い彼には家路を急ぐ、何らかの明確な理由があるのだ。

 僅かな時間も惜しんで、愛する彼女に会いたいのかもしれないし、友人達と深夜まで語り合いたいのかもしれない。

 一刻も早く、自分の部屋に帰って好きな本を読んだり、映画を観たりする事で心身の均整を保っている可能性だってある。

 よくよく思い返してみると、連綿と続くこの人の波に迎合せず、走り抜けてゆくのは若者ばかりだった。

 “おっさん“連中はいつも歩いている。

 当然、“おっさん“と言われる領域に足を深く踏み入れている僕も、この列にぴたりと歩調を合わせ、緩慢な移動を続けている。

 毎日の待ち時間に嫌気が差し、少しでも時間を短縮して、帰宅せねばならない理由が自分にもある。

 しかし僕はこの緩い流れに身を任せ、揺蕩う様にして家路に着いている。

 家路を急ぎ走っているのが、若者ばかりだと言う理由だけで。

 自分は、彼らの様な年頃の時に「格好良い大人になりたい」と強く願っていたのではなかったか。

 若者に混じって、様々な疲労や汚れが蓄積した、“おっさん”が若者に負けないスピードで全力疾走してゆく。

 それは、何処か不様な光景に思えた。

 だが一方で体裁を気にし、胸奥の声に耳を傾けない様にして、駅で過ごす不透明な時間をすんなりと受け入れている自分を、格好悪いとも感じる。

 うだうだと考えている時間等、何処にあると言うのか。

 ある時、僕は会社のゲートを出た瞬間、軽く走り出してみた。

 大学時代の野球部での、ベース間ランニングは部員の中でも、下から数えた方が早かった。

 しかし二キロを超えるランニングでは、殆んど誰にも抜かれずにゴールまで達する事ができた。

 その日、走り出した僕は、全く息が切れる事なく、最寄り駅に辿り着いた。

 ホームに下り立つと、すぐにいつもは乗り過ごしている電車が近づく。

 軽い高揚感が、自分の何かを満たす。

 良かれ悪かれ、僕の毎日は年々、感情が揺れ動き難い方向へと進んでいる様だ。

 それを刺激がないと憂うのか、それとも手に入れた安息に寄り添うのかは、なかなか自分でも判断を着け兼ねる所である。

 ただそう言う凍結した時間の中に、身を置いていると、胸中の変化に敏感にはなってくる。

 穏やかな湖面に起きた小波を、見逃す事なく捉える事は容易い。

 その日から僕は、会社のゲートを出た瞬間、駅まで全力疾走する様になった。

 よくよく考えてみると、おっさんが一人くらい列の速度に抗った所で誰がそれを注視すると言うのか。

 走っている最中に時々、会社の同期や飲み仲間を追い越す事もあった。

「なんで走ってんの?何か用事あるん?」

 そう言う友人達の質問に僕は、本音で返した。

「早く帰って、宇多田ヒカルのCD聴きたいねん!」

 この返答はよく受けたし、「中学生か!」と突っ込んでくる友人もいた。

 みんな笑っていたが、僕は本気だった。

 滑稽な全力疾走を繰り返し、一刻も早く帰宅して聴き込まねばならない程の崇高さを、宇多田ヒカルのニューアルバム“fantome”は持ち得ていた。


──宇多田ヒカルが、数年振りに復活すると言う情報を目にした時は、何か現実感が沸かなかった。

 “人間活動に専念する”と言う聞き慣れない言葉を残し、宇多田ヒカルが表舞台から姿を消したのは何時の事だっただろうか。

 それを思い出す事ができない程、余りにも膨大な時間が流れ去ってしまっていた。

 ただ宇多田ヒカルが、ひた走っていたその順路から降りる決断を下した時に、自分が抱いた印象は、はっきりと思い出せる。

 十五歳の時から、時代の先端の最も切り立った場所で行動を続け、シーンを牽引して来たのだから、この辺りで休息を挟む事は自然だと、その時の僕は思ったのだ。

 その理由づけとして、宇多田ヒカルが選択した“人間活動”と言う言葉に、はっとさせられた。

 この“人間活動”と言う響きには、国境や人種を軽々と跨ぎ越えてゆく事が可能な歌姫も、当然の如く一人の自分達と同じ人間であったのだと言う事実を強く思い起こさせるものがあった。

 仕事や夢の狭間に、本当は最も優先させなければならない筈の自分を支えてくれた肉親や友を置き去りにしてきたのかもしれない。

 地球上に拡散してゆく己の虚像に、知らぬ間に心身が浸食され、自分の本質が見え難くなっている可能性だってある。

 そんな生々しい理由を今更、宇多田ヒカルが語れる筈もないし、誰もそれを望んでなんかいない。

 “人間活動”の四字には世に出る事も、出す必要もない、宇多田ヒカルの胸中や体温が凝縮されている様に思えた。

 しかしそれをすんなりと受け入れる程、この国の世相は器が大きくはない。

 宇多田ヒカルが、“人間活動”に比重を置く様になってすぐに、「彼女が休養に入った本当の理由」等と言う記事が巷に出回り始めたのだ。

 そう言った記事の全てが、推測や出所の不明瞭な伝聞で構成された、胡乱な物ばかりで中には、下品としか言い様のない物まであった。

 当の本人が何も語っていない以上、真実も虚構も、そこには存在していない筈である。

 この手の事はジャンルを問わず、名前が知られてくると誰にでも、ふりかかってくる事だと思う。

 社会の根底には、粘液質な澱み腐った対流圏が常に横たわっていて、人の心の隙間を絶えず狙っているらしかった。

 質が悪いのは、記事を書いた者も、またそれを読んだ者も日常に晒されるとすぐに内容等、忘れ去ってしまう事だ。

 しかし恐らくその餌食になった当の本人には、簡単に拭う事のできないダメージが残り続ける。

 胸奥に蓄積されてゆく損傷によって、心を破壊されてしまった人物等、何人にも及ぶ。

 無責任で泡沫な言い掛かりも、それに絶えず晒されている者の精神には、決して消える事のない深い傷を残す。

 自分にとって今、大切だと思える“人間活動”を優先させた結果、話した事も会った事もない人々が悪意の塊となって、次々と揺さぶりを掛けてくる。

 この激烈な状況に、もし己が陥ったと考えたら、とても耐えられそうにない。

 しかし宇多田ヒカルは一切、何の反論もせず“人間活動”意外の理由を語ろうとしなかった。

 それからも、定期的に宇多田ヒカルの真偽が定かではない情報は流され続けた。

 数年間、シーンから遠ざかり、“人間活動”が終結する気配も感じられなかったので、僕はもう宇多田ヒカルの事を、あまり考えなくなっていった。

 自分の生活にも、様々な変化が起こり、年々、音楽自体を聴き込む事からも遠ざかってゆく。

 ある年代を超えると誰にとっても、時間と言うものは、不思議なくらいに急激に過ぎ去ってゆくものらしい。

 今日を味わい切る前に、もう明日が雪崩込んでくる。

 そんな日々を過ごしていたある夏の終わり、また宇多田ヒカルの名が頻繁にメディアで流れて来る様になった。

 宇多田ヒカルの母親である藤圭子さんが突然、亡くなったと言う。

 数日間に渡り、テレビやインターネットのニュースはその話題で埋め尽くされた。

 自身も大衆の記憶に深く刻まれている歌い手であり、世界でも認知される歌姫の母でもある藤圭子さんの最期は、痛々しく悲しいものだった。

 自分の親を亡くした時の喪失感や悲しみほど、苛烈なものはないと思う。

 それが突発的で、思いも寄らないものだとしたら尚更、深いものだと言う事は人であれば当然、想像がつく。

 自分にとって、自我を見失いそうになる程の出来事が、大衆の目に晒され続けると言うのは耐え難い事だろう。

 そんな悲しみに疲弊しているであろう人への配慮もできないほど、この社会に流れている空気は腐敗している。

 藤圭子さんの訃報は、しつこい程に何度も様々なメディアで取り上げられ続けた。

 暫くして、宇多田ヒカル自身のコメントがWEB上に公開された。

 このコメントの行間からは、藤圭子さんを亡くしてしまった宇多田ヒカルの複雑な心情や、後悔の念が大量に零れ出ていた。

 激しい胸の痛みに苛まれながら、僕はこのコメントを何度か読んだ。

 もう宇多田ヒカルが復活を遂げる事はないのかもしれない。

 再び音楽シーンに帰還を果すにしても、膨大な時間が必要だろうと誰もが思った筈だ。

 それからまた時間が過ぎ去ってゆく。

 僕の生活は、初めて宇多田ヒカルのCDを買ったあの頃から、大きく変化し、潤沢にあった筈の時間や自由は、いつの間にか何処かに消え失せてしまっていた。

 しかしだからと言って、今の生活が嘆く様なものでは決してなく、失ったものよりも多くのものを手に入れられた様な気もする。

 年齢を重ねてゆくと言うのは、そう言う事なのかもしれなかった。

 僕の様な社会と言う大樹の傘下に納まっている人間でさえ、緩やかな変化の中にいるのだ。

 世界中の耳目を集める人物であれば尚更、その振り幅は大きなものになるのだろうと思う。

 宇多田ヒカルは、恐らく誰も手に入れる事等できない、途方もないものを獲得し、そして最もかけがえのないものを失ってしまったのかもしれない。

 浪費した時間に傷つく事もあれば、時間の経過が深い傷口を癒してゆく事もある。

 藤圭子さんが亡くなった夏の終わりから二年が経った盛夏、宇多田ヒカルは母となった。

 その情報にも、余り僕は興味がわかなくなっていた。

 宇多田ヒカルがイタリア人と再婚したニュースをいつか見て、何処かで二人で写った画像を見た記憶が、ぼんやりとはある。

 イタリア人の男性が、好青年と言う印象だったのでとても好感が持てたし、色々と騒がれる日本での煩わしい生活より、海外での静かな生活を選び取ったのだろうと思っていた。

 パートナーとの穏やかな日々。

 それは“人間活動“の着地点としては至極、自然な成り行きであると思う。
                  
 安息の日々を送り、何らかの傷口が存在するならば、それを癒し切った所でまたゆっくりと音楽シーンに関わっていけばいい。

 過去に宇多田ヒカルのCDを聴いていた、多くのリスナー達は、その様に感じていたのだと思う。

 当の宇多田ヒカル本人は、そんな消極的で身勝手な願望を拒否する様に、母親になるとともに“人間活動”を終結し、いよいよ復活に向けて動き始めた。

 数年振りに、数曲の新曲を発表し、秋にはニューアルバムをリリースする事となった。

 かつて時代を席巻した歌姫が、受け止め難い現実を乗り越えた末に、母となり復活を遂げる。

 しかも“人間活動に専念する”と宣言した以上、過去の自分より、人として成熟した姿で帰ってくる事を大衆は待っている。

 そしてどんな形であれ、この数年の間に宇多田ヒカルの身に起こった出来事、全てが確りと歌に反映される事を望んでいる。

 この戦いに逃げずに挑む、宇多田ヒカルは、やはりとても勇敢な人だと思えた。

 否応なく期待値が高まった秋口、ニューアルバム“fantome”はリリースされた。

 僕は、リリースされた直後にそれを購入した。

 秋口は自分の生活でも、仕事でも思案を尽くさねばならない事が山積している時期で、なんとか自我を繋ぎ止めようと僕は躍起になり、焦燥し疲弊していた。

 胸の高鳴りを押さえて、天神橋筋を抜けて毛馬へと続く橋の上から見た薄い秋空の事はよく覚えている。

 家に着いてみると、嫁さんはまだ帰宅しておらず、僕は静かなリビングで“fantome”を聴いた。

 音楽を聴かなくなったここ数年間で、鼓膜に付着した錆が完全に削ぎ落とされて、研ぎ澄まされてゆく。

 約五十分間、鼓膜を通過しその奥に響いてくる宇多田ヒカルの歌声に僕は何度も、心を揺り動かされた。

 宇多田ヒカルは目を背けても、誰も文句等、言えようもないものに真っ向から向かい合い、それをありのまま歌っていた。

 その勇敢さは、僕の深い領域を揺さぶった。

 そして数年振りに聴く、その美声には、以前は稀薄だった哀切や歓喜と言った体温が宿り、深みを増していた。

 かつての斬新さや躍動感は失われておらず、そこに“人間活動”の成果が確りと加わる。

 当然の如く、瞬く間に“fantome”は、世界中の人々の心に拡がっていった。

 僕は惚けた様に、秋から冬にかけて時間が空くと、何度も“fantome”を聴き込んだ。

 頂点を極めて尚、何かを追い求め曖昧な不安が透け初めていた休養前の宇多田ヒカルの姿はそこにはない。

 “fantome”からは最愛の人の死に向き合い、新しい家族と言う安息の存在を手にした事で得た、“今の宇多田ヒカル”の強さが詰まっている。

 年を越え冬になった今も僕は、“fantome”を少しでも早く聴こうと、会社のゲートから最寄り駅までの全力疾走を続けている──

 
 藤圭子さんの事を綴った以上、沢木耕太郎に触れなくてはならないとも思う。

   
 



 


 

 
 

 

 

 

 

 



 

 

 
 
 

 
 

 

 
 



 
 
 

 

 

 

 



 
 

 

 
 
 

 

  

 

 

  



 



 

 

 

 

 

 
 



 



 

 



 

 
 

 
 
 

 

宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 2

 
 早朝に目を覚ますと、窓の外には朝焼けに染まる空が見えた。

 傍に建つ高層住宅を覆う灰色の壁面に、紅みが差している。

 幸い出勤時間までには、まだかなりの余裕があった。

 ベランダで一服しようかと煙草盆を手に取り、立ち上がる。

 あるノンフィクション作家は、窓から街を眺めるのが最も好きな時間だと綴っていた。

 確かに人の営みや街の気配を、こうやって離れた場所から感じていると、今日と言う平凡な一日が、何か特別な意味を持つのではないかと言う気さえしてくるから不思議なものだ。

 朝一の煙草に直ぐ様、血管が収縮し、頭が痺れ出す。

 リビングに移動し、テレビの電源を入れると懐かしい曲が微かに耳に届いてきた。

 嫁さんの睡眠を妨げない様、音量は限り無く絞られている。

 巷に溢れる数多の流行曲を一気に過去の混沌へと押しやり、日本の音楽シーンを瞬時に席巻したその曲は、十数年たった今、消え入りそうな音量で聴いても尚、躍動感に溢れていた。

 その歌に、女性アナウンサーの上ずった声が重なる。

「デビューシングルの売上枚数は200万枚を突破!」

「1stアルバム、累計売上枚数765万枚を超え、日本国内の歴代アルバムセールス1位を獲得!」

「2ndアルバムでは初週売上枚数が歴代1位となる300万枚を記録!」

「2007年には、当時のデジタル・シングルのセールスにおいて世界1位に輝く!」

「アルバム4作品がオリコン年間アルバムチャートで1位!」

「休業前までのCD総売上枚数は、なんと3620万枚!」

 アナウンサーが、曲に合わせて畳み掛ける。

 僕の意識は、まだ覚醒仕切っておらず、しかも起き掛けに吸った煙草の所為で、随所が眩んでいる。

 そんな惚けた自我も、余りの“戦績”の凄まじさに圧倒され、すぐに明瞭なものとなった。

 朝から資本主義の指標である数字だけに光りを当てて、人の耳目を惹き付けようとする情報番組の手法もどうかとは思う。

 だが、それでもやはりこの天文学的数値が訴えかけてくるものは大きく、我々の様な小さな幸福感を抱きかかえる様にして生きている者達にとっては、愕然とする以外に対処法等ないと思い知らされる。

 まだしつこくアナウンサーが、何事かを捲し立てている後方で、薄くあの懐かしい曲が鳴っていた。

 数字は、ますます積み重ねられてゆき、この曲の唄い手が、人が憧れたり、妬んだり出来る重力圏には、存在していない事を実感させた。

 微かな音量で鳴っていた“Automatic”が止み、“真夏の通り雨” が後を引き継ぐ。

──アナウンサーは、宇多田ヒカルの完全復活を告げていた。

 先程とは打って変わって、深みのある曲調へと変化しているにも関わらず、アナウンサーは興奮している所為か、全くペースを合わせ様としない。

 八年半振りにリリースされた宇多田ヒカルのアルバム、『Fantôme』は世界中のセールスランキングでも上位に食い込んでいるらしかった。

 アナウンサーが大仰な嬌声を上げ、各国でのアルバムの売れ行きを盛んに紹介してゆく。

 何だかうんざりして、テレビを消そうとすると甲高い声で「私もアルバムを今、聴いているんですが、斬新で重厚で…」と語り出した。
 
 そこで限界を向かえ、テレビを消した。

 あの女性アナウンサーの言動に嫌気がさしたわけではない。

 誰がどう褒め称え様が、貶そうが宇多田ヒカルと言う巨大な存在を前にすると、その全てが安っぽく感じられてしまうのだ。

 自分の言動が、聞き手に陳腐に伝わるとなると、なかなか迂闊に発言できなくなるのが人だと思う。

 そう言った局面で数字と言うのは、とても便利なもので、“世界各国のランキングで上位を占めている”等と結果だけをアナウンスしてしまえば、言葉を紡ぐ努力をせずとも、人の行為の勝敗を簡単に伝える事ができてしまう。

 僕は数日前に、この宇多田ヒカルの復活作を購入していた。

 約二年振りに買ったCDは、社会生活を送る上で生じてくる様々な感情の粟立ちを、見事に何処かへと押しやった。

 音楽に熱心に触れる事で、溢れる自我をコントロールしていた頃の様に、僕は熱を込めて『Fantôme』を聴き込んだ。

 また宇多田ヒカル本人が『Fantôme』をどの様に語っているのかを知りたくなり、動画を見たり、記事を読んだりして、かなりの時間を、インターネットに広がる情報の海峡へと潜行してゆく事に費やした。

 秋口頃から考えても仕方のない雑多な乱れた波に僕は晒されていて、何か早急に他の事へと没入し、この頭を悩ませている事柄から、意識を散らさなければならない必要性に迫られていた。

 そんな時に、『Fantôme』を手にできた事はとても幸運だった。

 己が作り出した乱気流によって、精神の両翼を揺さぶられかねない緊張した状態を、『Fantôme』に熱量を注ぐ事で脱せそうな所までは、何とか辿り着けたのだ。

 全ては、宇多田ヒカルが復活し『Fantôme』をリリースし、自分がそれに反応した事で得られた結果である。

 己の言動が安くなる等と恐れている場合ではない。

 僕は等身大の自分で、宇多田ヒカルと言う巨大な存在の復活劇を書き残さねば…と言う身勝手な使命感に駆られたのだった。


 大学を卒業し、僕が大阪に出てきた年に宇多田ヒカルはデビューを果たす。

 身の回りの環境が、大きく変化した所為か、そのデビューが余りに鮮烈だったからなのか、はたまた二つの理由による相乗効果なのか、この国の音楽シーンにとっての転換期の事は、酷く印象に残っている。

 僕達の世代にとっても、我が国にとっても、大きな衝撃を残しているのは、阪神大震災地下鉄サリン事件が起こった1995年である。

 二十世紀が、その象徴である激動を最後に炸裂させたのが1995年であった。

 一つの時代が95年を境に、終着点を求めて加速してゆく。

 国内の音楽シーンは、90年代に入ってから暫く、小室哲哉のものとなっていた。

 小室哲哉がプロデュースした若者達の唄声は、急速に日本の隅々まで伝播してゆき95年、社会現象にまで昇華した。

 そろそろ飽和状態なのは、誰の目にも明らかだったが、一つのシーンが変革を遂げてゆくのには膨大な時間を要する。

 緩やかに変化を続け、新しい世代が台頭してくるのは、世紀を跨ぎ超えた後になる様だった。

 二十世紀、音楽年表の最後の一行は“小室哲哉ブーム”と書き記され、閉じられる筈であった。

 しかし98年、そんな緩やかな流れを拒否する様に、後の音楽シーンを牽引して行く事となる新しい波が突如、次々と押し寄せてくる。

 その中でも一際、強大で速度を伴った波は、宇多田ヒカルと言う十五歳の帰国子女か起こしたものだった。

 気がつくと、デビュー曲『Automatic』は街角のあらゆる場所から聴こえてくる様になり、仲間との会話の中にも、“宇多田ヒカル”や“Automatic“と言った単語が頻繁に登場してくる様になっていた。

 この“Automatic”は後年、巷に溢れていた全ての曲を色褪せさせたとまで言われている。

 “Automatic”を聴いた後、どんな曲が流れても、リスナーは「この曲はもう古い」と感じる様になってしまったと言うのだ。

 この挿話には、多分に大袈裟な物が含まれている。
 
 しかしそれをただの与太話では終わらせない、リアルな斬新さを“Automatic”は持ち得ていた。

 ただ当時の僕は、“Automatic”に鋭く反応する事など到底できず、「えらい本格的な発音する娘が出てきたなぁ」くらいにしか思っていなかった。

 都市に出て来て、時間も浅かった為、音楽について深く語れる仲間も機会も、僕はまだ手にしていなかったのだ。

 まだ大学に通っていた、その頃の彼女は定期的に僕に会うためだけに、大阪まで出て来てくれていた。

 その彼女は、大学で“Automatic”が流行していると会う度にしつこく言っていたし、口ずさんでもいた。

 僕が巧く喰いつけなかっただけで、宇多田ヒカルは若者の心を的確に捉えていた様だ。

 その後、すぐに発売されたセカンドシングル“Movin' on without you”で、やっと僕は宇多田ヒカルの音楽性に感応する事ができた。

 “Movin' on without you“は歌詞だけに、目を向けてみると、十代の少女が綴っているだけあって、何処か青臭いものが漂っている。

 だからこそ大人の介入が拒まれている事を証明しているし、青臭くてもそこはやはり宇多田ヒカルで、言語の切断面が鮮やかで、そのセンスは十分に発揮されている。

 この詞が、リズムに乗り、透明感のある美声で歌われると、途端に青臭さが抜け落ち、一気に完成度が増す。

 宇多田ヒカルは、その歌詞からも受け取れる様に、十代の未成熟な感受性、若者が共感できる部分をちゃんと持っている。

 しかし作曲や歌う事に関しては、もう出来上がり過ぎていて、とても十代と言う稚拙な枠内に納まり切るものではなかった。

 高速で流れる様な疾走感と、本能に訴えかけてくる躍動感は、斬新さとして世の中に、瞬く間に受け入れられていった。

 ロック、パンク、ガレージ…等の周辺を彷徨き回っていた僕も、宇多田ヒカルには酷く惹きつけられ、それ以後はCDがリリースされると、軸に据えていた“ミッシェル“の聴き込みを一時、中断させて、暫くの期間は宇多田ヒカルの聴き込みに時間を充てる様になった。

 そんなサイクルを僕は数年の間、続けた。

 ただ今になって、振り返ってみると、それはスリリングな経験とは言えなかったと思う。

 リリースされる度に購入した宇多田ヒカルのアルバムは、毎回、高い水準で安定していて、必ず聴き込んだ分だけの一種の見返りを僕に与えてくれた。

 “traveling“の様に全てが、その時の自分が欲していたものとピタリと符号し、「完璧だ!」と思えるものもあれば、当然、そうでないものもあった。

 ただどんな曲も、高々度を飛行していて、全く何も感じられないと言う事は皆無だった。

 例えば、同時期くらいから今も読み続けている作家、中村文則氏の著作には、心の深部に強く刻まれるものもあれば、読後に「何がしたいんじゃい!」と怒りすら覚えてしまう程の、消化不良感を伴うものがあったりする。

 それに比べると、常に高水準を軽々と突破してくる宇多田ヒカルの新作は、必ずリスナーの期待に応えてくれるだけに、聴き込んでいて、スリリングな感情は沸き難かった。

 溢れる才能ゆえに、危機に陥る事のない絶対的な王者。

 若くして才能を認められ、しかもそのセンスは世界を魅力する事が可能な程、桁違いであり、名声も富も既に手にしている。

 この大衆の生活と大きく解離してしまっている状況の中で、果たして宇多田ヒカルはいつまで人々の心を打ち続ける事が、できるのだろうか。

 音楽シーンでは、何年も陽の光を浴びられなかった歌い手が、何とか這い上がってきて、受難の季節を耐え抜いてきた強靭な精神力や、あらゆる物への飢えを飼い慣らした末に手にした説得力や、そして抜け落ちてしまった若さと引き換えに獲得した味等を、全て一曲にぶつけた結果、人々の魂に強く響く曲が生まれると言う事が稀にある。

 リスナーは、そんな苦労人にこそ自分を重ね合わせ、より感情移入する。

 そう言った一種の泥臭さみたいなものを、宇多田ヒカルは一切、感じさせない。

 それは、それで他にはない利点ではあるのかもしれない。

 宇多田ヒカルと同じく、歌に“1/fゆらぎ“なる物が現れるとされる美空ひばりの歌声には、過酷な時代を生き抜いてきたと言う自負と凄味が含まれている。

 少女時代に戦争によって、心身を痛めつけられた人々の心を癒すためだけに歌ったと言う壮絶な体験が、御嬢の歌声には籠もっていて人の心の奥底を揺さぶる。

 環境や才能に恵まれている様に、人には見えている宇多田ヒカルの歌声に、センス以外の何かが宿る時が果たして来るのだろうか。

 いつしか僕は真新しさや独創性以外のものを、宇多田ヒカルの歌声に期待する様になっていた。

 それは何も自分だけに限った事ではなく、デビューしてから数年を経た宇多田ヒカルに対するリスナーの視線はいつしか、徐々に厳しくなっていった。

 大衆の勝手で気ままな要求は、世の常である。

 しかし時の空気感を顕著化させず、そんな虚ろなもの等、霧散させる程の圧倒的な完成度と数字を、変わらずに宇多田ヒカルは啓示し続けた。

 ただ自ら振り払ったものを良しとしない冷静さと、敏感さを持ち合わせているのが宇多田ヒカルと言う人であると思う。

 奇しくも映画、“あしたのジョー”の主題歌である“Show Me Love (Not A Dream)“では、そんな心中が浮かび上がっている様な歌詞が散見される。

 
 抑え込んだ其れは消えず

 二兎を追う者、一兎も得ず
 
 矛盾に疲れて 少し心が重くなる

 逃げたら余計怖くなるだけって

 分かってはいるつもり

 自信の無さに甘えてちゃ見えぬ

 不安だけが止まらない

 私は弱い

 だけどそれは別に恥ずかしいことじゃない

 築き上げたセオリー忘れよう

 山は登ったら降りるものよ

 実際 夢ばかり見ていたと気付いた時
 
 初めて自力で一歩踏み出す


 宇多田ヒカルは、デビューしてからずっと率直であったと思う。

 いや率直でしかなかったと言える。

 そんな人が、綴った詞だ。

 全てが全て、自分の心情を余す事なく吐露できるとは思えないが、生々しい苦悩の欠片みたいなものが、胸に迫ってくる。

 若い頃より心酔してきた“あしたのジョー”の実写映画は何度、観ても、宇多田ヒカルの心情にばかり、心が向いてしまい、全く内容が入ってこなかった。

 
 この曲を歌って暫くすると、宇多田ヒカルは永く、過酷な休業に入る事となった。

 
 


 






 

  


 

 

                         
 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 

 



 





 

               
 

 

 

 

 

 

 



 
 

  

 

 

 



 

 

 

 

 

 



 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 1

 結婚式を挙げるために、長野へ向かうバスの道中で、僕は脇目もふらずにこのブログを書いていた。

 挙式直前の所為か、様々な感情が複雑に絡み合いながら去来し、それらはどうやら名神高速の途中で、自分が管理できる範疇を超えてしまった様だ。

 妙な緊張や、類のわからない期待めいた物が絶えず自我を揺すってくる。

 最近、僅かな時間さえあれば聴いている宇多田ヒカルの復活作で、それを紛らわせようとも思った。

 しかしその行為が更に心の襞を敏感にさせる様な気がして踏みとどまる。

 無性に煙草を吸いたくなったが、生憎このバスには、喫煙スペースが設けられていない。

 中々、良策が見つからず、何かに没頭する事で何とかこのうねりを散らそうと、溜まっているブログの編集作業に手をつける事にした。

 ブログは丁度、僕と相方が大阪プロレスで経験した事を綴っている最中で、書いていると当時の事が甦ってきて、少なからず高揚してくるものがあり、纏わりつく雑念を霞ませた。

 しかしその日を最後に、日々を書き残す時間が、はたりと取れなくなってしまったのだ。

 仕事の事で考えあぐねる状況があったり、相変わらず家庭を維持するための雑事に追われたりしているうちに、高速で後方に流れ飛んでゆく窓外の如く、一日が終わってゆく。

 ただそんな事はここ数年、慢性的に続いている事だ。

 何かを書く時間までもが、失われる事はない。

 では何に自分は、限りある時間を費やしたのか。

 様々な偶然が重なった結果、僕は宇多田ヒカル安部公房太宰治によるジェットストリームアタックを、しこたまくらい続ける破目に陥ったのだった───

「音楽をただのBGMにしたらあかんで!」

 その言葉は、疲労とアルコールによって惚けた僕の意識を不意に打った。

 この日、僕は勤務後に会社の宴会に出席し、深い疲労と酔いに喘ぎながら、何とか最終電車に乗り込んだ。

 座席に座り込み、うとうとしていると少し離れた所から騒がしい声がする。

 そちらの方に目をやると、社内で見憶えのある数人の人達が話をしていた。

 どうやら本日、他の部署でも宴会が催された様だ。

 その人の輪の中心に一際、声のでかい革ジャンを着た男が居た。

「やば…」

 そう思った僕はすぐに着ていたパーカーのフードを、頭からすっぽりと被り、全身の力を抜いて狸寝入りの態勢を整える。

 革ジャンを着ている男は部署は違うものの、会社での僕の先輩に当たる人であった。

 作業場が違うため、その方の仕事内容も詳しくは知らない。

 ただ顔を合わせると、先輩はよく声を掛けてくれて、仕事終わりの更衣室等で色んな話をさせてもらっていた。

 その先輩は傍から見ていてもバイタリティーに溢れた人で、会話の手数も多く、僕の職歴を知ってからは思いつくままにボケ倒して来る様になった。

 うちの相方ならそれを綺麗に捌いて、場の空気を盛り上げ、相手の気分も良くなるに違いない。

 しかし生憎、僕にはそんな技量もないため、何とか全力で突っ込んで、誠意だけは見せる様にしていた。

 その先輩はバンドを組んでいるらしく、仕事後の更衣室で全編、英語で綴られた歌詞を手に口ずさんでいる姿を度々、見かけた事があった。

 時間があり余っている学生の頃ならいざ知らず、正式な職を持ち、年を重ねた今でも音楽への情熱を失わずに保ち続ける。

 それはなかなか困難な事の様に、僕には思えた。

 先輩は現在でも、週末になるとミナミのライブハウス等でバンド活動を続けているらしかった。

「音楽は何を聞くの?」

 ある時、先輩が僕にそう尋ねてきた。

 会話に行き詰まった後に出てきた言葉でも、幾つかの質問の続きでもない。

 単純に僕が、どんな音楽を聴いているのか興味を持ってくれたんだなと言う感触があった。

 こんなに混じり気なく、自分が聴く音楽について尋ねられたのは何年振りだろうか。

 十代や二十代の中頃くらいまでは、そんな話題が中心に据えられていた様な気がする。

 今では見る影もないが、ラバーソールを履き、革パンと黒いジャケットに身を包み、財布からチェーンをじゃらじゃらとぶら下げて、オールスタンディングのライヴに足繁く通っていた時期が、僕にも長くあったのだ。

「ミッシェルとかブランキーは、昔よく聴いてましたよ」

 よく聴いていたなんて言う都合のいい範囲に、それが納まり切るわけがない。

 何しろあの頃の僕はネタ合わせとバイトの時以外、ずっとミッシェルの曲を流していた。

 まるで鼓膜が何かの中毒に侵されたかの様に、僕の聴覚は四六時中、“TMGE”を貪欲に求め続けた。

 “いつまで同じ歌ばっかり聴くんよ。あたしもう頭がどうにかなりそうやわ”

 当時、付き合っていた彼女は何度もそう言っていたが、構わず僕は飢えた鼓膜に“世界の終わり”や“アンジーモーテル”を与え続けた。

「やっぱり!夏にミッシェルのTシャツ着てんの見たもん!今だにあれ着てるヤツ中々、おらんよ!」

 ミッシェルと答えた僕に先輩は鋭く反応してくれ、暫く二人で“ギヤブルース”やら“ランブル”の話で盛り上がった。

 ただその後「他には、何聴くの?」と聞かれて、「石野卓球久石譲…それにアジカン宇多田ヒカルなんかが好きです」と僕が答えると先輩は「天才ばっかりやんか。自由やね…」とだけ言い、そちらの話を広げ様とはしなかった。

 恐らく先輩は、洋楽のバンドにも僕が興味があるとふんだのだと思う。

 しかし僕は海外の音楽には疎く、それよりも幅広く日本人アーティストの曲を聴く事を好んでいた。

 それからはその先輩と会う度に、“UAベンジーにもう一曲歌ってほしい”とか“ダグアウトは名盤である”と言う熱が籠った話をした。

 話の途中で先輩は、いつも僕を飲みに誘ってくれたが、その都度、僕は何やかんやと理由をつけて断ってしまっていた。

 どう言う訳かその先輩と、仕事終わりに出会す日はいつも、週の中頃だった。

 先輩が、どう言う仕事に従事しているのか詳しくはわからない。

 だがいつも人の輪の中心にいると言う事実が、先輩の腕を証明していた。

 男社会ではやはり仕事で結果を残さない限り、本当の意味で人等、そう簡単に付いては来ない。

 そんな先輩とは違い、僕は毎日の仕事に何とか随いてゆくのが精一杯と言う有り様である。

 当然、仕事終わりには、心身ともに疲弊し、意識の何処かが溶けているかの如く、明瞭でない事の方が多い。

 そんな状態で先輩と飲みに行っても、場が盛り上がるとは思えなかったし、次の日、二日酔いで業務に挑む訳にもいかない。

 ただそんな不慣れな仕事の事を理由にするのは躊躇われ、何だか煮え切らない事を言っては先輩の誘いを躱してしまっていた。

 それが最終電車の座席で、古典的な狸寝入りを僕が決行せねばならなくなった背景である。

 今、もし先輩に“これから飲みに行こうや!”と誘われたらもう断る訳にはいかない。

 こんな展開が待ち受けているとも知らず、僕は今夜の宴会で調子に乗って酒を煽り切ってしまっている。

 明日が休日だと言う安心から、何とか自力で家まで辿り着くだけの意識と理性の欠片だけを残し、後の全てをアルコールに奪い去られていた。

 しかし困った事に縺れる自我が、今にも狸寝入りを放棄しようとしている。

 車輪と線路との摩擦音が、酷く鬱陶しい。

 先程よりずっと、血液が各々、身勝手に体内を駆け巡ってゆく。

 不意に”あと一杯くらいやったらいけるんちゃうか!”と言う気になった。

 なぜ特にやましい事もしていないのに、自分は隠れる様な真似をしているのか。 

 僕は、深く被ったフードに手を掛けていた。

 そこから先は確かな事は、何一つ覚えていない。

 どう言う経緯でそうなったのか、よく覚えていないのだが、それからー時間後、何故か京橋にある馴染みのホルモン焼き屋で、僕は先輩達と共にハイボールを煽っていた。

 先輩達の宴会は会社の近所に最近、開店したインド料理屋で催されたらしかった。

 何処からか“やっぱりインド人が作ったカレーは本格的やったな”と話す声がする。

 それに反応して僕は「そこの店長、カレークックでしたか!?」といきなりかました。

 脳が痺れ濾過装置が機能しなくなり、何もかもが、垂れ流しになっている様だ。

 どう解釈しても全く面白くないし、酷いとしか言い様がない。

 そんな代物に先輩は、机を叩いて笑ってくれた。

 もうあらゆる物の質等、どうでも良く、この酒席が欲しているのは、何らかのきっかけだけの様だ。

「開店セールやっててな、カレークックの頭のカレーもえらい安くなっとったで!」

 先輩は一切、僕に突っ込もうとはせず、ひたすら乗っかってくるタイプらしかった。

 それから一旦、場が納まり、酒をちびちびと飲みながら、様々な話に興じていると、また先輩が店の壁に貼られている水着姿のイガワハルカの古いポスターに目をやり、

「え!?元阪神のイガワやん。今、グラビアやってるんや。大変やな」等と言い出す。

 余りに煩わしかったのとかなり酒が入っていた事もあり、僕は先輩の頭を小突いた。

 するとまた酒席が笑いに包まれた。

 何と言う締まりのない空気感だろうか。

 二次会と言う物の相場なんて大概、そんな物で“職場のガス抜き”や“親交を深める”と言った明確なテーマがある一次会とは違い、“何だかこのまま帰るのもあれやからもう一軒だけ行っとこか”くらいのあやふやな所から出発し、だらだらと終わってゆくもんである。

 酔いも疲労も眠気もピークだったが、二次会特有のこの緩さを、僕は気に入っていた。

 それから暫く、そんな潤けた時間が続き、気がつくと酒席の主題は音楽話になっていた。

 先程まで下らない事ばかり口にしていた先輩の目に、いつの間にやら熱い物が混じり始めている。

 何かのきっかけで、先輩と同じ職場の人が「もう何年もCDは買うてへんなぁ…」と言った。

 それは、そうだろうと思う。

 僕達は、もう世間から中年と呼ばれる年代に達していて、熱心に音楽を聴いていた年頃からは遠ざかり過ぎている。

 しかも好きな曲を獲得するための、時代の主流はダウンロードであり、CDは徐々に需要を失いつつあるのだ。

「俺は、今だにレコードばっかり買うてるで!」 

 何ともやり切れないと言った具合に先輩が口を挟む。

 そこから先輩は“好きな曲だけを、かい摘まんでダウンロードする何て事は、愚かで下品な行為としか言えず、音楽への冒涜である”と呂律が回らない中、延々と語った。

 その話が一段落つくと、先輩は僕に同意を求めてきた。

「僕も今はCD、あんま買ってないんすよ…」

 僕が、そう答えると「マジで…」と言って先輩はさみしそうな顔をした。

 最後に僕がCDを買ったのは、もう二年近く前だと思う。

 ミッシェルの解散を境に、僕の音楽への 熱は緩やかに冷めていった。

 それでも、今も同年代の人達に比べたら音楽を聴く方だとは思う。

 三ヶ月に一度は、気になった曲や好きなアーティストのアルバムを一気にウォークマンに移し込み、それをスピーカーに繋げて休日は一日中、聴いている。

 しかしそれは、ミッシェルを聴いていた時の貪る様に前のめりで、スピーカーに張り付いていた頃と比べると、明らかに真剣さに欠けた。

 その時の気分に合わせて、歌詞の解釈で悩む事も考える事もせず、遠くで鳴っているそれを、ただ鼓膜に通過させているだけにすぎない。 

 ミッシェルが解散した時に味わった、激しい虚無感は暫く、僕を音楽から遠ざけた。

 “ギアブルース”で湿り、“カサノバスネイク”で渇き、“ロデオタンデムビートスペクター”で融合したミッシェルは、アルバムをリリースする度に、ある階段を確実に掛け上ってゆき、日本屈指のバンドとして広く知られる様になった。

 戦後、幾万にも及ぶバンドに削り倒され、残滓しか漂っていない音楽界に“打ち込み”なしの、生演奏と絆だけで挑みかかり、“音“に革命を起こす事に成功する。

 ライヴに拘り、不可能と言われたアリーナでの数万人規模のオールスタンディングライヴを決行し、この国に“踊り、暴れ狂い、音を浴びる”と言う形態を定着させた。

 そして僕が三十代に突入する直前、“サブリナヘブン”、“サブリナノーヘブン”と言うアルバムを立て続けにリリースする。

 この二枚のアルバムは、ミッシェルと言う一つの塊が、繰り返し挑戦してきた全ての事柄を結実させ、ある高みに到達した事実をリスナーの鼓膜と精神に告げるものだった。

“遂に到達してしまった…”

 “サブリナ”を聴いた多くのヘビーリスナーは、そう感じたのではないか。

 到達した以上、次はその高みからどう下るのか、それとも新たな到達点を探るのかと言う、以前とは側面が異なる闘争が、これから始まってゆくのだと思っていた。

 しかしミッシェルは、分岐点を迎える度に「俺達はストーンズにはならない」と公言し続けてきたバンドである。

 そう言う価値観を共有する、惑星群の様な一塊が次に向かう行先は、果たして何処なのか。

 決して、下ったり、堕ちたりだけはしてほしくない。

 しかしでは、どうするのか…。

 相変わらず“サブリナ”を、鼓膜とその先にある自我に刻み込む様な日々を、送っていた僕は、ある日、ミッシェルの解散を唐突に知った。

 解散の理由は一切、公表されなかった。

 しかしラストツアーのタイトルには、ミッシェルが“燃え尽きた”と受け取れる言葉が、さらりと使われていた。

 ある頂に到達し、その高度を維持したまま、美しく散る。

 人や事象が、まさに燃え尽きようとするその瞬間に遭遇できるなんて事は、一生のうちにそう何度もある事ではない。

 なかなか人は、そんな格好良くは生きられず、ある頂きに立ったまま、散華を選び取るなんて事は不可能に近い様に思える。

 “あしたのジョー”が、世代や時代を超えて、今も尚、多くの人に支持される理由は、燃え尽きる事を強く望むジョーが長期間に渡り、悶え足掻く過程を何とか乗り越えて、ラストシーンで見事に完全燃焼を成し遂げるからだと思う。

 そのジョーですら、“燃え尽きる”までの道程でぼろぼろになっている。

 しかしミッシェルは、解散を決定した時点で、疲弊し磨り減ってはいない。

 屈指のロックバンドでありながら、デビュー前から、クスリや退廃を嫌悪し、ステージに立つ時は、常にスーツを纏ってきた彼らは、硬質な美学を貫き通し、下りる事も、ぼろぼろになる事も拒否し解散を選んだ様だった。

 欠かさずライヴに足を運んでいた僕は運良く、ラストツアーの最前列中央に位置するブロックのチケットを手に入れる事に成功した。

 どんな心持ちで、その日を迎えるべきかと考えあぐねていたら、あっさりとラストツアー当日に仕事が入ってしまい、ミッシェルの最後を見届ける事は叶わなくなってしまった。

 この頃、三十代を目前にして急激に仕事が増加し、ひたすら舞台に向かう日々が始まりつつあった。

 何とかいつかは燃え尽きたいと、僕は僕で足掻いていたのだ。

 最後にミッシェルは、幕張で大規模なオールスタンディングライヴを決行し、その幕を下ろした。

 僕はそれを、狭い部屋の紫煙で霞んだブラウン管越しに観た。

 余りにミッシェルの解散が絵になり過ぎていた所為か、僕はミッシェルの次に鼓膜を委ねるアーティストを見つける気にはなれなかった。

 多くのTMGEリスナーは、その後、チバが新たに組んだバンドに旨く移行していった様だ。

 チバが唄う曲は、今も恐ろしく格好良い。

 しかしその独特の唱方の向こうに、ばきばきと唸るウエノのベースや、ざかざかと刻まれるエッジの利いたアベのギターは鳴っておらず、

 内臓に響くキューちゃんのドラムだけが、あの頃のままそこにあると言う事実に、僕は酷く感傷的な気分になったりする。

 ミッシェルの解散後、僕は音楽とかつてと同じ熱量では向き合えなくなった。

 その結果、ここ数年は好きなアーティストのCDを懐に余裕があって尚且つ、気が向いた時にだけ購入し、後はダウンロードで済ませると言うスタンスに落ち着いていた。

「音楽を、ただのBGMにしたらあかんでぇぇぇぇぇ!」

 深夜のホルモン焼き屋で僕達、目掛けて先輩が雄叫んだ。

 その叫びは緩過ぎる雰囲気を霧散させ、呆やけ切った僕の心を強く打った。

 酒席に居た他の人達は笑っていたが、僕は痺れていた。

 だがそれでも、もう二度とあの頃の様な姿勢で音楽を聴く事はないだろうなとも思った。

 それから数ヵ月が経ち、もう先輩が叫んだ夜の事等、忘れてしまっていた。

 秋にさしかかる頃、宇多田ヒカルが数年に及んだ“人間活動”とやらに区切りを着けて、CDをリリースした。

 迷う理由等、何処にもなく、僕はそれを直ぐに買う事に決めた。

 宇多田ヒカルのCDを購入した天六からの帰り道、久し振りに気分が高揚し、薄くなり始めた空を眺めつつ、自転車を漕ぐ足に自然と力が込もった。

 橋を渡る時に、吹きつけてきた秋の風が心地好かった。      

     

 

  

  

 

  

   

   

 

     

 

 

   

 

   

 

  

   

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

  

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

相方 2

 

 我が家のリビングは来客があると、必ず濃いソースの匂いが立ち込める。

 

 それは最近の僕が、訪問者と酒を酌み交わす折りに、アテとしてお好み焼きを好んで選んでいる所為だ。

 

 長方形の鉄板の上を、均等に半分に分け、二枚のお好み焼きを焙る。

 

 どろどろと粘り付く、水で溶いた小麦粉を鉄板に流し込む刹那、自分と相方のお好み焼きが同じ大きさになる様、僕はそれなりに気を配った。

 

 鉄板を挟んで相方と向かい合う度に、僕は自分の傲慢と無神経を自覚した数年前の、ある出来事を思い出す。

 

 当時、僕と相方がアルバイトをしていた運送会社の傍に焼肉店があった。

 

 その焼肉店は千円だけ払うと、一時間十五分以内なら、幾らでも肉を食べる事ができると言う、低価格化時代の最先端を駆け抜けて行く様な体系を導入していた。

 

 当然、いつ訪れても店外には、客の列が伸びている。

 

 空腹を抱え、肉の焼ける匂いや、鼓膜を素通りし胃袋に直接、囁き掻けてくる“じゅうじゅう“と鳴く音に悩まされながら、走馬燈の中に恐らく登場しないであろう無為な時間を店の外で過ごす。

 

 神経がささくれ立った頃、漸くテーブルまで辿り着いて、長年に及ぶ困窮の所為で、すっかり味覚を見失ってしまった口内に、急いで肉を放り込む。

 

 ただ肉を気が済むまで食べ続けられると言う事実は、僕達の何かを満たしてはくれた。

 

 一応に満足し煙草に火を点けて、さてこれから相方と次のネタの話や、気になる子の話でもしようかな等と思っていると、店員の年配女性がテーブルの周囲を不自然にうろつき出し、何だか見ていられない仕草で、下手な圧をかけてくる。

 

 いた堪れなくなり店を出て、油塗れになった己の臓器に苦しめられながら、相方とあれこれと話をして家まで自転車を漕ぐ。

 

 その道中、僕は“金があるくせに安い肉ばかり食う奴の気がしれん!”とか“あのババア!”等とやたらと吠えた。

 

 三十代に突入し、まだ学生の頃に出入りしていた様な店で、自分が胃袋や心を満たさねばならないと言う現実に、僕は酷く蝕まれていた。

 

 そんな時も、相方は決して僕に同調する事なく、達観したかの様な顔で前だけを見て、黙々とペダルを漕ぎ続けていた。

 

 懲りずにその焼肉店に僕達は通い、肉を頬張っている最中にある事に気がついた。

 

 相方が、何故か金網の先端部の僅かな空間だけを使って、肉を焼いているのだ。

 

 ちまちまと動く相方の箸先が、僕の膨張した神経をやけに刺激する。

 

「せこい食い方すんなや…」といつもの如く悪態をつこうとして、はっとした。

 

 金網上の大方の空間が、僕が置いたハラミ群によって占められていたのだ。

 

 そのハラミの群は、暗黙の境界線を我物顔で越え、末端に微かに残された相方の領土ですら、今にも奪い去らんとしている。

 

 僕はハラミを口に放り込む事に没頭し過ぎていて、自分が侵略行為に手を染めている事に気付いていなかった。

 

 何とも卑しい限りである。

 

 急に恥ずかしくなって、「すまん…」と言う言葉が口を衝く。

 

「やっと気付いたか…」

 

 そう言って相方は、何だか寂しそうに笑った。

 

 我相方とは、そう言う男なのだ。

 

 自宅のソファーで横になり、うっかりと幻の国境を越えてしまった瞬間、鋭い蹴りを“びゅんびゅん”と叩き込んでくる、うちの嫁さんとは違うのである。

 

 取り留めのない事を思い出したり、相方と他愛もない話をしているうちに、どうやら鉄板の上のお好み焼きが、良い頃合いになったらしい。

 

 話を中断し、お好み焼きを切り分ける。

 

 もう粗方、一通りの思い出話にも触れた様な気がして、そろそろ本題に入ってゆくべき時間帯が来ている様な気がした。

 

「ほんで、これからどうする感じ?」──

 

 こうして急に相方と会う事になったのには、理由があった。

 

 先日、相方のブログを見ていると彼の生活に何らかの変化が起こりつつあるらしき事が書かれていた。

 

 最も相方のブログは暗号めいた単語が乱発されている為、乱数表を所持していない僕には、全く意味を捉え切れない事が多々ある代物だ。

 

 映画の感想が書かれた文章では、正式なタイトルすら記載されておらず、ストーリーも感想も暗号に阻まれて、やっぱりよくわからない。

 

 だから目を通すと、どうやら相方が何処かで、誰かと何かの映画を観て、何事かに感謝したらしいと言う輪郭が呆やけた事しか伝わって来ず、読後にもやもやとした物だけが残ったりする。

 

 一度、誰か暗号を紐解く解読表を所持していないか、仲間内で集まった時に聞いてみた事がある。

 

 しかし皆、「うーん…意味わからんすね…」と表情を曇らせるばかりだった。

 

 僕達意外の誰かに向けて、相方はブログを書いているのだろうか。

 

 しかし逆に、伏せたり、隠したりすればする程、鮮明に浮かび上がってくる事柄があり、それが人に伝わってゆくのが文章と言う物の本質だったりもする。

 

 読後に独特の消化不良を抱えながらも、僕は相方のブログを読み続けた。

 

 ほんの一時であれ、同じ夢を追ったのだ。

 

 そんな男の動静を、気に掛けないでいる事の方が難しい。

 

 先日、久方ぶりに更新された相方のブログを見て、すぐに僕は彼に電話を入れた。

 

バイト、やめたん?」と聞くと、相方が「なんで知ってるん?」と聞き返してきた。

 

 相方のブログが更新される度に、目を通している事を本人に伝えるのは、何だか気恥ずかしい物がある。

 

 適当に誤魔化そうとも思ったが、そんな上辺だけの事を言う間柄でもない。

 

 それに相方が、いよいよ就職するとなれば、どんな形であれ、自分のできる範疇で協力を惜しまないと言う気持ちで僕はいるのだ。

 

 なかなか本心を明かす事のない相方に、僕の方から嘘を言う訳にはいかない。

 

「ブログ見たんや」

 

 そう僕が言うと、自分のブログが読まれていると思っていなかった所為か、相方は何も答えなかった。

 

 「お好み焼き旨いな」と言い合いながら、僕は相方に今後の身の振り方について尋ねてみた。

 

 相方は、取り合えず知人に仕事を紹介してもらうつもりだと答えた。

 

 夢を諦めた以上、一度は企業や店舗に正式な形で所属し、ある程度の社会経験を積んでゆく必要があると僕は思っているので、それを相方に伝えてみた。

 

 しかしそれは旨く躱された。

 

 相方のこれからの人生を左右する事なので、僕も自分の考えだけを独善的にぶつける訳にはいかない。

 

 先日、うちの会社のトップクラスにいる方と酒席を共にする機会に恵まれた。

 

 僕はその席で相方の事を、その方に相談してみた。

 

 何百人と言う人間を纏め上げ、その家族の生活までを気に掛けねばならないと言うポジションに何年も就いておられる方だ。

 

 仕事で結果を残すだけではなく、確実な人間性や道徳観を、常に求められている人である。

 

「うーん…。難しいかも知れんが、何かの実用的な資格をとって、就職を目指すしかないんやないか。今からでは、遅いかも知れんが… それは本人次第やからな」

 

 その方にも、そう言っていただいた。

 

 勿論、僕自身もその直後に「人の心配していられる立場ちゃうやろがい!」と発破を掛けられ、「ひぃぃぃ!そうでした!」と大仰にあたふたして笑かし、なんとかその場を切り抜けたのだった。

 

 兎に角、ちゃんと社会性のある人の意見と言う物を相方にぶつけてみた。

 

 それも相方は、即座に「無理だ」と言う。

 

 何故か聞いてみると、様々な負債があり、それは難しいと言う返答が返ってきた。

 

 そこで僕は、痛恨の思いに駆られた。

 

 コンビを組んでいる時代から、相方に負債がある事は薄々、気付いてはいた。

 

 後輩から、そんな噂が入ってくる事も多々あった。

 

 しかし恥ずかしい話、僕達のコンビはアルバイトをする時間が圧迫される程、芸の仕事量があった訳ではない。

 

 以前、組んでいたコンビでは、舞台に多く立たせて貰っていたため、なかなかアルバイトに精を出しているわけにもいかなくなり、その時期には僕もカードローンに手を出した。

 

 その借金も、相方とコンビを組み直し、芸の仕事が減少した頃から、再びアルバイトに励み出し、すぐに返済する事ができていた。

 

 そんな状況だったので当時、相方の負債の事は軽く考えてしまっていたのだ。

 

 あの時に強く意見していたら、何かが変わっていたのかもしれない。

 

 そう思うと、何だかやり切れない気持ちになった。

 

 だが不思議な事に、厳しい状況に置かれている筈の相方からは、何の切迫感も伝わってこない。

 

 負債や問題を抱えて、何とかそれを必死で跳ね返そうとしている人からは、特有の切迫した気流が漂ってくる。

 

 そしてそう言う人程、暫くして会ってみると難題を何とか切り抜けていたりするものだ。

 

 しかし目の前にいる相方は、何年にも及ぶ自分の状況に慣れてしまったのか、負債の話をしながら涼しい顔で電子煙草をふかしている。

 

「何処にそんな金があんねん!」と思わずツッコミそうになるが、そう言う事態ではない。

 

 これが僕と相方の立場が逆なら、いくらでも成立するし、仲間達も「本当にあの人、どうしようもねぇな」と笑ってくれたに違いないのだ。

 

 しかし普段はいい加減に振る舞っている僕の方が、堅実な選択を好み、皆が口を揃えて真面目だと評す、相方の方が後先を考えずに、一時の感情に心身を蹂躙されたりする。

 

 それが我々コンビの何ともややこしく笑いに変わり難い所なのだ。

 

 急に僕の方が焦燥し、自分では相方が今、抱えている問題を好転させる事等できないと言う気がしてきた。

 

 僕は相方に、共通の知人に相談する事をすすめた。

 

 その知人には、僕達は若い頃から世話になっている。

 

 何より知人は、僕や相方が誤った方角に舵を切ろうとした時に、僕達を全力で叱ってくれる人だった。

 

 会社の先輩や上司や同僚、何なら嫁さんでもいい。

 

 人には何歳になろうが、どんな立場になろうが、身近に自分を厳しく律してくれる人間が必要不可欠だと僕は思っている。 

 

 僕等と言う甘えや自己中心性の顕著な者は、そう言う厳しい人達のお蔭で何とか日々を前に進めていけている様なもんである。

 

 自分の力により今まで獲得できた物等、たかだか知れているし、もしかしたら皆無なのかも知れないと思う事すらある。

 

 だから時代に抗ってでも、結婚に否定的な友人達にその必要性を説いたりするのだ。

 

 “思い上がるな。ずっと一人でいて、偏ったり、硬直せずにいられる程、自分の平衝感覚は優れているのか”と。

 

 “一生続いてゆくかもしれない孤独に耐え抜ける程、強靭な精神を有していると思っているのか”と。

 

 特別な力や突き抜けた才能を持っていないからこそ、人の意見を数多く聞ける機会には恵まれる。

 

 こんな貴重な機会を生かさない手はない。

 

 しかし相方は、知人へ相談する提案も受け入れなかった。

 

 その理由も聞いてみたが、やっぱり判然としない。

 

 数年前に、耳の痛いその人の話こそ聞くべきだとよく言っていたのは相方自身である。

 

 何時からこんなに…。

 

 僕は何も、自分の意見が正しいとも、受け入れてほしいとも微塵も思っていない。

 

 ただ一つの見解を吟味したり、時には受け入れたりする土壌が、その人の中にあるのかどうなのかが重要だとは思っている。

 

 自分も年齢を重ね当然、縁がある近辺の人達も皆、年を重ねてゆく。

 

 仕事や結婚と言った悩みも年々、深刻度が増してゆく様に思われる。

 

 例外等あろう筈もなく、自分もその渦中にいる。

 

 いつ会っても、事態が好転してゆかない人達に共通している様に思えるのは、相談されたり、話題に持ち出したりするから皆、意見してみるものの、当人には全く響く事がないと言う点だと思う。

 

 自分の狭い範疇で既に結論が弾き出されており、色んな解決策が提示されても、己が導き出した結論や思考に固執し、枠が広まる事を何故か極端に拒絶する。

 

 柔軟に色んな道程を目の前に広げてみて、眺めてみるだけでも景色は随分と変わっていったりするもんだと思うのだが。

 

 若い人はいいと思った物は、発した相手が誰であろうと感ずる物が少しでもあれば、素早く反応を示す。

 

 仕事中に若い人を見ていて、僕はその柔軟性に何度も驚かされたりした。

 

 それに大前提として、どんなに厳しい状況に置かれていても、迸る様な動力感が全身から溢れ出ているヤツには誰も何も言わない。

 

“あぁ、こいつは今は厳しいかも知らんけど、自分で何とかしよるんやろな”と思うだけだ。

 

 もう近辺から様々な声が聞こえ始めた時点で、己の動力炉は正常に機能していない事が多い。

 

 なぜなら静止してしまいそうな人間に、何も手を差し伸べない程、周囲の人と言うのは冷たくはないからだ。

 

 何処かで精神をオーバーホールする事なく、新たな航海に向かおうとする相方の行く末が明るいものであってほしいと願う。

 

 本音を言うと、僕は別に悪路だろうが逆風だろうが、苦にせず、泥臭く進んでゆく相方がもう一度、見たいだけなのかもしれない。

 

 客席の空気が重く、回りの芸人が尻込みする中、逆に燃え上がり、舞台で無茶苦茶に暴れ出す。

 

 僕がいつも傍で見ていた相方は、そんな男だった。

 

 あの焼け焦げる寸前まで高速で回転し、自身と回りの人間までも巻き込んでいた野太い彼の動力源。

 

 そんな彼と再会したいだけなのだ。

 

 お好み焼きを何枚か平らげて、窓の外が暗くなっても相方と話したい事はいくらでもあった。

 

「そろそろ帰るわ」

 

 そう言って、我が家を後にする相方の足取りは、舞台に上がってゆく時と何も変わっておらず、軽やかなままだった──