三億円事件 2
いつもと同じく、長い休みの初日の朝は、二日酔いからくる不快感のなかで明けていた。
一年のうち、そう何度もない長期休暇が始まったというのに、なんの昂りも感じられない。
休みが始まってしまうと、あとは終わりに向かって、急速に時間は過ぎていく。
高揚感が大きければ、休暇が終わるときに激しい喪失感を感じることとなる。
それが嫌な所為か、いつの頃からか、なるべく平静な心持ちで休日を過ごすようになった。
ぼくの胸奥が、よけいなことを考えずに解放されるのは、休暇前日の仕事後の夜だけである。
その夜は、痺れるほど自我が高ぶる。
仕事が無理なスケジュールで進んだあとだったり、疲労感が深いときほど、休暇前夜の胸の高鳴りは大きい。
いまの自分は、そこに大きな喜びを感じているらしかった。
リビングのテーブルの上に、真新しい紙製のブックカバーに包まれた、文庫本が置かれている。
昨夜、忘年会の帰りに、アルコールでうわついた意識のなかで、深夜でも開いている大型書店によって、買ったものだ。
忘年会が始まるまでの、時間潰しで入ったイオン内の書店で、目についた本があった。
話題になっている書籍が、大量に平積みされた棚の上に、その本も置かれていた。
三億円事件の真犯人と名乗る人物が今年、ネット上にあらわれ、真相を語ったらしい。
そのネット上の独白がまとめられて、書籍として売られていた。
結局、その本が気になり、ぼくは酒に酔いながらも、深夜でも開いている近所の大型書店によってみたのだった。
少し動揺したのは、自分がその本の存在をまったく知らなかったことだ。
三億円事件にぼくは若い頃から、強い興味を持っている。
興味を持つと言うよりは、惹かれていると言った方がいいのかもしれない。
この事件をベースにした小説や映画は、数多く存在し、いまでも定期的に新しいものが世に出てきたりする。
その殆どに、ぼくは目を通してきた。
しかし話題になっていたらしい、この独白本のことを、ぼくはまったく知らなかった。
少し前から気になっていたことだが、どうやら自分のすすんでいる道程は、緩やかに今までとは、違う順路に踏み入っているようだ。
必死になってなにかを獲得しようとしていた時期は、いつの間にか終わっていて、今はそのなんとか手にしたものを、堅守していく段階に入っている。
忙しいと呆けていた所為で、そんな自分の周囲の変化にすら気づかないでいた。
自我のアンテナの範囲が狭くなっているというのに、自覚症状すらなかった。
刺激的なことや、気持ちが上がることが少なくなったと嘆いている場合ではない。
己の範囲を、自分で狭めているだけのことだったのだ。
うっすらとそんな焦りを感じていた所為か、ぼくは酒が入りつつも深夜の大型書店にむかったのだった。
大型書店でも、やはり話題の書籍として、その本は高く積まれていた。
早速、ぼくはその“府中三億円強奪事件を計画、実行したのは私です ”を手に取り、軽く目を通してみた。
冒頭のかなり早い段階で、ぼくは少し落胆し、この本を買うまいと決めていた。
妻を亡くし、自身も病魔におかされている老いた男が、息子に促されて、自身が実行した三億円事件の詳細をネット上に公開する。
残念ながらそこには、ぼくが求めているものはないように思われた。
雷雨の府中刑務所前で、強烈な行動をとった男と、後づけのような貧弱な理由で突然、ネット上に出現したこの老いた男が、同じ延長線上に存在しているとは到底、思えなかった。
そうなってくると「わたしが、真犯人です 」と名乗って、ネット上に出現し、注目を浴びたがっているだけの軽薄な人物の姿だけが浮かび上がってきてしまう。
そんな人物が、書いたものをぼくは読みたいとは思わなかった。
ただこの一連の流れも、ネット上でリアルタイムで目にしていたら、印象はずいぶんと違ったものになっていたと思う。
ネットには、書籍にはないライブ感と言うものがある。
三億円事件の真犯人を名乗る人物が、ネット上に出現したとなると、その場はすごく盛り上がったんだろうなと思うし、おもしろそうな気もする。
場がざわつき、あらゆる質問や感想が、ユーザーから書き込まれたんだろうことは想像がつく。
ただ残念ながら、こうやって書籍になって、冷静にみてみると、そのチープさや稚拙さばかりが浮きぼりになってしまう。
三億円事件ともなると、今まで数えきれないほど、ノンフィクションや小説の題材にされてきた。
そのなかには、映画化された“閃光”やヒットメーカー、横山秀夫のデビュー作である“ルパンの肖像”など名作が多数、存在する。
書籍化となると、やはりそこと比較してしまうのだ。
それにノンフィクションとして、自分が真犯人になり切るのであれば、嘘でもいいから、その証拠を読み手に突きつけてほしかった。
三億円事件で盗まれた現金のなかには、わずかだが、札に刻まれた“記番号“が判明しているものが存在する。
五百円札で二千枚分のナンバーが、わかっているのだ。
しかもどういう狙いや、意図があったのかは不明だが、事件が発生して早々に捜査本部は、このナンバーすべてを、公表してしまっている。
この二千枚は、事件発生当初から現在まで、一枚たりとも世間には流通していない。
そのため犯人グループがその二千枚を焼くなり、なんなりして処分したか、どこかに隠蔽したんだろうというのが定説となっている。
真犯人を名乗って、独白するのなら、その五百円札のナンバーの画像を、フェイクでもなんでもいいから、ネットに晒すくらいの気概がほしかった。
思い入れが強いせいか、三億円事件の真犯人を名乗るのであれば、それなりの覚悟や知識を持ってやれよとか勝手に思ってしまうのだ。
もしくはエンターテイメントとしてつき抜けろよと。
それはそれで十分、おもしろいし受け入れられる。
質が悪いのは、三億円事件のネームバリューだけをかりて、浅い知識だけで表面を撫で、エンターテイメントとして昇華していないものだ。
そういうものと関わると“あぁ時間の無駄だったな“と酷い気持ちになる。
そんな勝手な思い入れがあるぼくが、三億円事件のことを考えるおりに、犯人としていつも頭にあるのは、白バイに跨がっているたけしさんの姿だ。
府中刑務所前の道路で、三億円が強奪されるときの再現映像には、様々なパターンのものが存在する。
そのなかには、再現場面の筈なのに雨が降っていなかったり、快晴だったりと、まったくリアリティがないものも多い。
雷雨のなかであっても、緑色のシートを引きずっていなかったり、府中刑務所前ではなく、ただの郊外での犯行になっていたりとみている途中に、細部で冷めてしまうことも多々ある。
そんななかでぼくの心に強く印象に残っているものが、三つほどある。
一つは若き日の、織田裕二が実行犯を演じているものだ。
この作品は織田裕二の熱演が、全編の空気を引き締め、リアルな緊迫感を見事に生み出している。
なかでも三億円を強奪していく時の、あの疾走感とひりひりした感じは、織田裕二にしか出せないものだと思う。
二つ目は、実行犯の役をまさかの宮崎あおいが、演っている映画“初恋”である。
三億円事件の犯人が、少女だったらという独創的な切り口が目を引く。
この映画は、そんな大胆な試みをしながらも強奪シーンでは、雷雨、緑色のシート、府中刑務所の黒い塀と細部までこだわって再現されている。
しかも白バイに絡まってしまったシートを、宮崎あおいが雨の中で必死になってはずそうとするのだが、少女の力では、はずすことができずに焦るというシーンまでがある。
しっかりと史実に沿って、実行犯が少女だったらという設定を成立させている。
ただこの映画全体の内容となると、あまり思い出すことができない。
なにか“硬いなぁ“という印象くらいしかない。
“初恋“というタイトルなのに、ポップさがあまりなく、息苦しさばかりを感じた記憶がある。
もう何年も前にみた映画のことなので、すべてが曖昧で感想などを書ける状態にはない。
そしてもっとも、ぼくの中で強く印象に残っているのが、ビートたけしさんが実行犯役を演じたものだ。
三億円事件の実行犯は若いとされているが、この時のたけしさんはすでに四十代だったと思われる。
この作品は、テレビ用の映画として撮影されたもので、当然、北野映画ではない。
当時、たけしさんは大久保清役や児童輸血拒否事件の父親役など、実際に起こり、社会に大きなインパクトをあたえた事件の人物を演じることが多かった。
三億円事件で、淡々と白バイに跨がるたけしさんは、無表情なのに特有の狂気を撒き散らし、一度みたら忘れられないくらい絵になっていた。
このテレビ映画では、立川のあるグループが犯行を起こしたことになっている。
たけしさんは、その中で先生と呼ばれている立場で、犯行グループの他の二人を長瀬智也と松田龍平が演じている。
テレビ映画にしては、今では考えられないくらいの豪華キャストである。
悔やまれるのは、映画ではないので、レンタルなどがされていないことだ。
このテレビ映画、“三億円事件~二十世紀最後の謎~”の原作はフィクションではない。
一橋文哉氏が書いた同名の、ノンフィクション小説である。
これが数多ある事件物ノンフィクションの中でも、頂点に位置するくらいのおもしろさなのだ。
一橋文哉とは、東京の一ツ橋に席を置く、新聞記者たちのリーダーのペンネームだとされている。
一ツ橋のシンブンヤで、イチハシフミヤ。
記者出身の書き手が、手掛けただけあって、この“三億円事件”は、莫大な量の資料の整理と、徹底的な取材によって構成されている。
三億円が強奪された時の、詳細な状況や関係者の証言、犯人が残していったとされる遺留品など、そんな膨大な資料に一橋氏が長い年月をかけて、丁寧に向き合ったことがわかる。
その本の中で、一橋氏は三億円事件の真犯人だと思われる人物にぶち当たり、何度も取材をこころみている。
ただ三億円事件が、時効という結末を迎えている以上、どの人物も真犯人とはなりえず、怪しいという範疇から出ることはない。
永遠に真実を知ることができないのが、未解決事件というものである。
よく酒の席などで“俺は真犯人を、知っている“みたいなことを言う人物がいるがセンスのないひとやなぁと思ってしまう。
それはだいの大人がああでもない、こうでもないと、無駄に熱くなるところに楽しみがあるとぼくが思っているからである。
ぼくは、この一橋氏が唱える真犯人説を支持している。
それは単純に、読んだ関連書籍のなかでもっとも、一橋氏の本が印象に残っている所為だ。
一般的に三億円事件の真犯人として知られているのは、事件から五日後に青酸カリを飲んで自殺した“S少年“である。
このS少年は、バイクや自動車の窃盗を繰り返していたり、父親が白バイ警官であったり、モンタージュ写真に激似だったりと、犯人ではないかと疑われる要素を周辺に数多くもっている。
ただやはり逮捕されなかった以上、逆に真犯人などではないという証拠も、たくさんあるのだ。
三億円事件の捜査にあたったのは、帝銀事件や吉展ちゃん誘拐殺人事件を解決した昭和の伝説の刑事、平塚八兵衛である。
この平塚八兵衛が少年の両親から何度も事情を聞いた結果、犯人ではないという結論を出した。
S少年は、三億円事件以前の一年間を鑑別所に出たり入ったりし、無為としか言いようのない日々を生きている。
犯人サイドからみれば、三億円事件を実行する直前の一年間は重要な準備期間であったはずだ。
事件では、日本信託銀行国分寺支店や支店長宅への文書による執拗な爆破予告が、効果的な役割を果たしている。
この脅迫文書が送付された日の大半、S少年は鑑別所のなかで身柄を拘束されていた。
念のため捜査本部は、脅迫文書の筆跡鑑定を行ったが、S少年の筆跡とは一致しなかった。
では、鑑別所にいるS少年に協力した何者かがいたのだろうか。
平塚は、協力者の存在を否定している。
そもそもS少年はバイクや車の窃盗や暴走、コンビニ強盗など、短絡的な犯罪ばかりを起こしている。
そこにはなんの計画性もなく、S少年が世間で言われているようなカリスマ性と知性を合わせ持った悪党などではないことが伺える。
大体、車やバイクの窃盗ですぐに逮捕されているような男が、用意周到な完全犯罪を計画できるとは考え難い。
誰かがS少年に指示を出して、三億円強奪を実行させたという線はあるのだろうか。
長期的で的確な犯行計画からすると、この事件を統括していたのは、とても冷静で成熟した人物だったと思われる。
供述によるとS少年というのは、昭和のプロトタイプを地でいくような不良少年であったらしい。
そんな男が大人の言いなりになって悪事を働くようなダサいことはしないだろう。
社会や権力への反発こそが、彼らを突き動かすエネルギー源のすべてである。
大人が介入してきた時点で、S少年は身を引く筈だ。
ではなぜ実行犯のモンタージュ写真に、S少年は酷似していたのだろうか。
ここには、あまり知られていない捜査本部の怠慢ともいえるある事実が存在する。
よく知られている犯人のモンタージュ写真は、じつはモンタージュなどではない。
捜査本部は三億円事件が起こって、すぐに実行犯としてS少年をマークした。
立川に住み、バイクの改造や運転に慣れた札付きのワル。
その父親が、白バイ警官だとなると捜査本部は、もう犯人がS少年だと決めつけていたふしがある。
そのためモンタージュ写真などは制作されず、S少年によく似た、少し前に事故で亡くなった人の写真を、そのまま犯人として世間に公表した。
このまったく関係がないのに、犯人として写真を晒されてしまった、亡くなった人の遺族はその後、警視庁に強く抗議している。
大体、激しい雷雨の中での混乱した状況で、現金輸送車に乗っていた行員たちが犯人の顔を、はっきりと覚えているはずがない。
こうして捜査本部から厳しくマークされたS少年は、事件から五日後に青酸カリを飲んで自殺してしまう。
その日、別件逮捕を目論んで、S少年の家を訪れた捜査員に応対した母親が「息子は出掛けてていない 」となぜか嘘をつく。
その後、S少年の家から揉めているような声がし、不自然な物音がするなどしたため、もう一度、捜査員が踏み込むと、今度は父親が出てきて「息子が自殺しました 」と衝撃的な事実を口にする。
この日のS少年宅の現場検証によると、なぜか青酸カリを飲むためのコップが二つ用意されていたとなっている。
状況からすると、世間を大きく騒がせる三億円事件を起こしてしまった息子と、家族の誰かが無理心中をはかったが、S少年だけが亡くなってしまったのではないかと推測できてしまう。
これが今でも、S少年が実行犯だと言われる悲しすぎる根拠である。
若き日の織田裕二が演じたのが、このS少年であった。
この後、平塚はS少年の両親を何度も事情聴取し、厳しく追及する。
その結果、平塚は「S少年は三億円事件とは無関係である 」という結論を出したのだった。
ただやはりどう見ても、突然のS少年の自殺は不可解であり、母親はなぜS少年は不在だなどと嘘をつかねばならなかったのか?
この辺りが不透明なため、S少年犯人説は根強くあるのだと思う。
平塚はこの家族のことを考えて、全ての事情は明白にせず、濁したままにしたようである。
S少年の両親の供述証書と平塚が残したメモを合わせて読んでみると、あの日、あの家族になにが起こっていたのかが、朧気ながら見えてくる。
残されている資料によると、S少年の両親はわが息子が、三億円事件の犯人だと疑われているとは、まったく知らなかったようだ。
どの親でも、成人していない息子があんな大事件を起こすことができようとは思わないだろう。
ただS少年が度々、起こす犯罪行為によって、この家族はもう後がないくらいの所まで追い詰められていた。
警察の事務職畑を歩いていた父親は、S少年が逮捕されたことで左遷され、中年に差し掛かってから、白バイ隊に入隊しなければならなくなった。
そうなってもまだS少年に、更正の兆しは見えない。
それ所か、あろうことか身柄を拘束されている鑑別所から脱走まではかった。
このままS少年を放っておけば、家族が崩壊するのは目に見えている。
次になにかS少年が、しでかしたらその時は… 母親は、そんな悲壮な決意を固めていたのかもしれない。
そんな今にも、臨界点を迎えそうな家族の元にいきなり刑事が尋ねてくる。
刑事はS少年が、三億円事件と関係があるかもしれないとは一言も言っていない。
ただこの刑事の訪問という事実が、S少年家族のなにかを壊した。
S少年が悪事を重ねるたびに、少しづつ亀裂が入っていた家族間の重要なパーツは完全に破壊され、なんとか繋ぎ止められていた感情の渦が決壊する。
そして家族のなかで、なにか決定的なことが起こり、S少年は亡くなってしまう。
S少年の両親の供述調書や、平塚のメモを合わせて読むと、少年の死が自殺ではなかったことと、三億円事件が彼の死とはなんの関係もなかったことが読みとれる。
そしてこのS少年の死は世間や捜査本部の耳目を集め、結果的に三億円事件の真犯人を隠してしまうという効果を生んだ。
では真犯人は誰なのか?
S少年家族のごたごたに、捜査本部や社会の視線が注がれるなかで、真犯人たちは巧妙に逃走を図ったのではないか?
じつは、S少年の顔見知りに三億円事件の後、アメリカに渡った三人組が存在する。
この三人組は、“先生“と呼ばれる中年の男、“ジョー”と言う黒人とのハーフ、“ロク”と言うレーサー志望の若者からなるグループである。
しかも一橋氏の著作によると、先生は、元警察官で身内がらみで、日銀と東芝府中工場、そして警察に恨みを持っていたとされる。
ただ読んだ印象からすると、先生が日銀や東芝に恨みを抱いたとされる理由が、なんとも曖昧で取材班のこじつけにすぎないのではないかともとれてしまう。
そして日銀や東芝、警察に恨みがあったとしても、なぜそれを晴らすために三億円事件を起こす必要があるのかが、何度、読み返してみてもぼくにはよくわからなかった。
このあたりがノンフィクションというジャンルの難しいところで、ただ収集した情報だけを書き連ねていったところで、誰がそれを飽きずに最後まで読んでくれるのかということになる。
読者の目を引きつけようとすれば、当然、起きた事実をもとにした演出が必要となってくる。
この先生の怨恨の話は、ノンフィクションの領域を超えてしまっているような気もするのだが、本の前半部分でかつてないほどの綿密な取材がなされているため、それが効いて、ただの脚色とは取りにくくなっている。
この三人組が、登場したあたりから、一橋氏の著作“三億円事件”は急激に加速していく。
先生の共犯とされるジョーの父親は、米軍の横須賀基地に務めていて、そのせいでジョー自身も米軍関係者に友人が多くいたらしい。
取材班は、先生が三億円強奪の計画をたて、ロクがそれを実行し、ジョーがその三億円を横須賀基地に隠し、あるタイミングで米軍機に乗せ、アメリカ本国に持ち出したのではないかという仮説をたてる。
本の後半部分は、いよいよアメリカで実業家となった先生に取材班が、数々の疑問をぶつける“最終決戦”へと突入していく。
かつて沢木耕太郎氏が、ロス疑惑の三浦知義と対峙したときの文章を読んだときもそうだったのだが、ジャーナリストが事件の核心に迫るシーンというのは、鋭い緊張感に満ち溢れたものとなる。
そこには、決して小説からは、感じることのできないひりひりとした臨場感と迫力が生まれる。
これは現実をもととした、ノンフィクションを読むことでしか味わうことのできないものだと思う。
ぼくが、定期的にノンフィクションを読んでいるのは、そんな臨場感を味わいたいためでもある。
三億円事件では、便宜上かも知れないが誰も直接的な被害を受けていないことになっている。
犯行が鮮やかだったため、強奪の瞬間には誰も傷ついていないし、消失した三億円も海外の保険会社によって補填されている。
ただ加害者として疑われている人物は、皆、不幸になっている。
S少年は不可解な死を遂げ、先生、ジョー、ロクからなる三人組も、誰一人として浮上していない。
テレビドラマで三人組を演じた、たけしさん、長瀬智也、松田龍平からは、なんともいえない哀しみが滲み出ていた。
忘年会帰りの、酒で揺らいだ自我には、大型書店の照明が煩わしくてしかたがなかった。
ぼくは、興味を失った“府中三億円事件を起こしたのはわたしです”を派手なポップの下に戻した。
その横に数冊だけ、申しわけ程度に積まれている本があることに気がついた。
それはNHK取材班が、“グリコ森永事件”の捜査員300人へのインタビューをまとめたものだった。
これは、ぼくが大好きな番組であるNHKスペシャル“未解決事件”の記念すべき初回放送が書籍になったものだ。
最近、加筆され文庫化されたらしかった。
なぜネットを騒がせただけの与太話が高く積まれ、記者が苦労して纏め上げたであろう“グリコ森永事件捜査員300人の証言”が数冊しか置かれていないのだろうか。
そんなものかと思い文庫の方を手に取り、レジにむかった。
閉店が近付いている所為か、店員さんはレジにはおらず、自動ドアの点検をしていた。
店員さんを呼びに自動ドアに近付くと、アルコールの抜けていない疲れきった自分の赤ら顔が硝子に映り込んだ。
なんともいえない気分になった。
三億円事件 1
初めて降り立った駅は、師走の喧騒に包まれていた。
会社員生活が長くなるにつれ、仕事などで関わる人の数は年々、増えていく。
あらゆる人をのみ込みながら、コミュニティーの外周はいつの間にか広がっている。
そんな人との繋がりも、仕事や家庭の雑事に追われる日々の中では、とくに気にとめることはない。
ふと気がつくと、昨年より参加せねばならない忘年会がいくつか増えている。
この時期、週末のスケジュールが埋まっていくことで、改めて今年も多くの人と出会っていたんだなと実感したりする。
仕事納めだったこの日も、普段ともに働いている同僚たちや直属の上司と酒を呑むことになっていた。
気心が知れたメンバーと呑みにいく所為か、取引先や親会社との忘年会の時にはある、あのなんとも言えない“億劫さ“が今日は、まったくなかった。
忘年会が始まるまで、まだ少し時間があったので、ぼくは上司を喫茶店に誘ってみた。
自分の上司を喫茶店に誘うなんてことは今まで、経験したことがない。
これまでの上司は、忘年会が始まるまでの僅かな空き時間に、ぼくや若手を居酒屋に誘う人が多かった。
そこで一杯目のビールを呑みながら、皆で軽く雑談をしているうちに、ちょうど忘年会が始まる時間帯となり、慌ただしく店を出て会場に向かう。
そういう時間は、なにかあやふやな楽しさに満ちていて、ぼくの気分を高揚させた。
しかし今の上司は酒を呑む人ではない。
そのため適当な時間の潰しかたが思いつかず、とりあえず喫茶店に誘ってみたのだった。
「いや、やめとこ 」
そんなぼくの申し出は、あっさりと上司に断られた。
“うわっ まじか。どうしようかな… ”などと内心、思っていると上司が意外な提案をしてきた。
「お前、お子さんに買うおもちゃとか本とか見たことあるんか? 」
上司は、ぼくにそう言うと目の前に見えているイオンに向けて歩き始めた。
ぼくは、今年の梅雨時期に双子の父親になっていた。
この上司の方も、三人のお子さんを持つ父親である。
その所為か、同時に二人の子どもの父親となったぼくのことを、普段、なにかと気にかけてくれていた。
それから上司と二人で、イオンモールではない昔ながらのイオンに入り、おもちゃや絵本を見て歩いた。
このことを会社の他の連中に話すと、恐らくリアクションに困るだろうと思う。
忘年会の直前に、上司と一緒に子どもの絵本を選びに行ったなんて話は聞いたことがない。
昔ながらの気風が色濃く漂う、うちの会社の中では、なかなか味わうことができない時間の潰しかたである。
その異色さに戸惑ってしまう人も、いるのかもしれない。
しかしぼくには、この上司の行動が凄く誇らしく思えたのだ。
古ぼけたイオンの廊下を横切る上司の後ろ姿や、絵本を手に取った時の真剣な眼差しからは、酷く純粋で透明なものが発せられていた。
ある意味、その度を越した真面目さにぼくはとても好感を持った。
書店の絵本コーナーから移動する時に、あるポップに書かれた文字が目に入ってきた。
ポップは針金で吊るされ、平積みされた本の上で微かに揺れている。
“三億円事件の真犯人!ネットで独白! ”
ポップには、やけにツヤのある黄色い下地の上に、角張った文字でそう書かれていた。
“欲しかったのは、金じゃない。あの事件は僕の青春、そのものだった ”
ポップの真下に平積みされた本の帯には、そんなうんざりするような青臭い言葉が並んでいた。
三億円事件──
その言葉を見聞きすると、ぼくの中でぼんやりと浮かび上がってくる一つの風景がある。
激しく降りしきる雨の中、濡れた路面の上を一台の白バイが疾走していく。
灰色に染まった大気を時折、雷光が照らす。
白いヘルメットから白バイのタイヤにいたるまで、男のすべてがすぶ濡れだった。
激しい雷雨の中、白バイ警官が急を要する現場に向かっている。
端からはそう見えていた。
恐らく雨を避けるために使っていたであろう緑色のシートが、白バイに引っかかったままになっている。
よほど慌てているのか、そのことに男は まったく気がついていない。
ずるずるとシートを引きずりながら、白バイは走っていく。
やがて男の視界の片隅に、府中刑務所の黒い塀が、ちらちらとはいりはじめた。
罪人たちの世界と、平穏な日常とを隔てる暗黒の壁もまた雨に濡れている。
一瞬、その壁にずぶずぶと吸い込まれ、白バイごとむこう側に、とり込まれてしまうイメージが男の脳裡にうかんだ。
その妄想は、男の気力を根刮ぎ奪いさってしまうほど強烈なものだった。
自分が練り上げた計画にもし綻びがあるなら、あまんじて罰を受けよう。
そう男は思っている。
しかし一方で、金が欲しいからとなんの計画も立てずに強盗に押し入り、住人を殺害したあげくに、僅かな金額しか手に入れられなかった、短絡的な犯罪者と自分が一緒にされるのだけは我慢ならなかった。
たとえなにをしたとしても、捕まりさえしなければ、この塀の向こう側にいくことなどないのだ。
その意識は、男の崩壊寸前だった自我を再構築した。
雑念が消えた男の前方には、黒塗りの六四年式セドリックが走っていた。
赤いブレーキランプが雨に滲み、虚ろに明滅している。
この車は日本信託銀行が、所有するもので現金輸送車として使用されていた。
現金輸送車には、信託銀行の関係者四人が乗り込み、東芝府中工場の従業員四千五百二十五人分のボーナス、約三億円の運搬にあたっていた。
男の白バイは一気に加速すると、現金輸送車を抜き去り、前方にまわり込んだ。
現金輸送車を運転していた信託銀行の関谷は、突然あらわれた白バイに驚き、アクセルを弛め、車を失速させた。
すると白バイの男は片手を上げて、路肩の方をさし、現金輸送車に停車するよう命じた。
このとき、関谷は白バイが緑色のシートを引きずっていることに気がついた。
なにか妙な違和感のようなものが、関谷の胸中に広がっていく。
ただ小波が彼の心の核に到達する前に、白バイからおりた警官の男が小走りで近づいてきていた。
関谷はレバーを回し、雨が入ってこないよう少しだけ窓を開け、男の方を見上げた。
激しい雨のうえ、男がヘルメットを深くかぶっていたため、男の顔はよく見えない。
「日本信託銀行の車ですよね…? 」
「はい。そうですが… 」
そう関谷が答えると、男は少し焦ったようすで一気に捲し立てはじめた。
「巣鴨署から連絡があり、支店長の自宅が爆破されました! この車にも爆弾が仕掛けられているとの連絡を受けています! 車のなかを見せて下さい! 」
「さ、昨夜、車内を点検しましたが、なにもなかったですよ… 」
混乱した関谷が、言い終える前に男は素早く車の下を覗き込んだ。
男の切迫した動作が、さらに車内の空気を硬直させた。
「くそ! 本当だったのか!? 」
車内の誰かが叫び、直後、ドアが開く音がした。
関谷の全身から一気に汗が吹き出す。
いきなり支店長の自宅が爆破されたと言われたら、意味が理解できなかったかもしれない。
しかし一年ほど前から、日本信託銀行国分寺支店と、その支店長の自宅に、怪文書による執拗な爆破予告がなされていた。
この事前工作が効いて、関谷たちは疑問を抱かず、瞬時に男の言葉を信じたのだった。
関谷もエンジンを切って、現金輸送車の外に飛び出た。
その直後、不意に車体の下から勢いよく煙が立ち昇った。
「あったぞ! 危ない! ダイナマイトだぁぁ!逃げろぉぉ! 」
ボンネットの下を覗き込んでいた男が鋭い声で叫んだ。
男の声で、この場のなにかが弾け飛び、関谷たちから冷静な思考や理性を奪い去った。
場は完全に秩序を失い、現金輸送車に乗っていた信託銀行の四人は、それぞれ別々の方向へ逃げ出した。
無意識のうちに関谷は、ごみ箱の陰に身を隠していた。
四人の中で一番、年長者の中田だけは、なににも身を隠さず、勇敢にも道路の中央に立ち、後続車に危険を知らせようとした。
ごみ箱の陰から、恐る恐る現金輸送車の方に目をやると、立ち込める煙の中、男が運転席に乗り込んでいくのが見えた。
現金輸送車のハンドルを握った男は、躊躇せずアクセルを踏み込んだ。
カーラジオからは、高度経済成長のテーマソングとまで言われた水前寺清子の“三百六十五歩のマーチ”が流れていた。
この曲が持つ、明るく力強いメロディーは、わずか数十年で焼け野原から、経済大国へとのし上がった、我が国の空気に見事にマッチし、この年、百万枚を売上げる大 ヒット曲となっていた。
土砂降りの雨の中、男が運転する現金輸送車が遠ざかっていく。
現金輸送車が見えなくなって暫くの間、 関谷は茫然としていた。
ほかの三人も、降りしきる雨の中にただ立ちつくしている。
あの警官は仕掛けられたダイナマイトが爆発しても、被害が最小限に食い止められる場所に現金輸送車を運んでいったのだと皆、思っていた。
しかし──
なにかがおかしい。
急速に、場に強い違和感が広がっていく。
あの警官の男が、ダイナマイトだと叫んだ筒が路上に放置され、爆発もせずにまだ煙を発し続けている。
落ち着いてよく見ると、その筒がダイナマイトなどではなく、ただの発煙筒であることにすぐ気がついた。
白バイが引きずっていた緑色のシートが視界に入る。
まさか……!?
男が乗り捨てていった白バイに、四人が一斉に駆け寄る。
「この白バイ…… 偽物じゃないか!やられた! 」
その声を聞いたとき、関谷の足には力が入らなくなり、急に地面が消失し、宙に放り出されたような、たよりない感覚に襲われた。
どうやら男は白バイ警官などではなく、まんまと現金輸送車を強奪していったようだ。
関谷が、偽白バイ警官から停車を求められてから、まだ五分くらいしかたっていない。
僅か五分で、あの男は三億円を積んだ車を、誰も傷つけずに我々から奪っていったことになる。
三億円もの現金が、車ごと盗まれる。
これは、今までの日本の犯罪史上、類をみないことであった。
そのため関谷たちが、日本信託銀行や警察に通報しても、内容がうまく伝わらず、初動捜査は大幅に遅れた。
三億円もの現金が奪われたことを、誰もまともに信じられなかったのだ。
雨は、まだ激しく降り続いていた。
白バイ警官に扮した男は、雷雨のなかに消え、永遠に人前に姿をあらわすことはなかった──
上司とともに、イオンのなかを彷徨いていると案外、すぐに時間は過ぎていった。
ぼちぼち忘年会の会場である居酒屋に、むかわなくてはならない。
あの日、三億円とともに姿を消した男も年末になると忘年会に参加したりするのだろうか。
イオンの書店で見掛けた、三億円事件にかんする新書は、久し振りにぼくにあの事件のことを思い出させてくれた。
ぼくには若いころ、熱をもって三億円事件関連の本を読み漁ったり、あらゆる映像を視つくした時期がたしかにあったのだ。
明日から、年末休みである。
久しぶりに三億円事件の本でも読んでみようかなと思いながら、上司と一緒に居酒屋へとつづく、地下への階段をおりていった。
なにか今夜は、美味い酒が呑めそうな気がした。
揺れる老木 3
約十年振りに再会した親友と酒を呑んでいた。
互いの近況を報告し合った後で、他愛もない話が続く。
酒を呑んでいる彼の横顔を見ていると、不意に自分の中でなにかが明滅し、そして弾けた。
日々、積み重ねられてゆく記憶によって随分、下の方に追いやられてしまっていたものがゆっくりと浮上してくる。
あれは大学三回生の春のことだったと思う。
野球部の春期リーグ戦が終了し、めずらしく週末の練習が休みになったときのことだ。
僕はすぐに彼に電話をかけて、「何処かへ行かへんか?」と誘ってみた。
急な誘いなのに彼はすぐに承諾してくれ、電話を切る頃には、何故か京都にゆくことになっていた。
数日後に長野から京都に向かう。
しかも電車や夜行バスでゆくのではなく、ヒッチハイクで京都を目指す。
そんな今思えば、粗暴で無計画な時間を、あの頃の僕と彼は頻繁に過ごしていた。
──大学一回生の冬に、僕は妙な危機感に苛まれ続けていた。
大学という場には、独特の時間軸が存在する。
高校までのように学業のスケジュールは詰められておらず、夏や春には二ヶ月に及ぶ休講期間が設けられていた。
大半の学生たちは、この長い休講期間を実家に帰省して過ごしたり、リゾートバイトに励んだりして学生の期間にしかできない経験を積むことに費やす。
この休講期間中は、大学の学舎や激しく老朽化した我が寮から学生たちの姿が消える。
寮には、体育会系のクラブに所属する学生が多くいたが、休講期間中はそのクラブも大半は休みになっていた。
しかし野球部の練習は、年末と正月の期間以外は休むことなく続けられた。
夏のお盆の時期ですら、僕たちは北関東一帯に長い遠征に出ていた。
遠征先で民宿の近くに海があると試合後、みんなで泳ぎに出掛けることが許された。
それは決して無意味なものではなかったが、大学生の夏期休暇の過ごし方としては薄く、なにかが決定的に欠けてしまっていた。
遠征先では、禁じられている酒を気の合う数人と呑んでは、規律に従順なグループのヤツらに何度も咎められたりした。
しかし一方で、何処かそんな生活に酔っているところもあって、休講期間に合わせて練習まで休みにする体育会系クラブの連中を皆、心底から軽蔑していた。
長い休講期間が終わりに近づくと、様々な体験を積んだ仲間たちが続々と寮に帰ってくる。
久し振りに顔を合わせた友人たちの充実した体験話を聞いていると、彼らが皆、何かを掴んで帰ってきたように僕には映った。
大学内の寮とグランドだけを往復し、遠征の時ぐらいにしか外界に出ない自分は、貴重な何かを掴み損ねているのではないかという焦燥が急激に胸に渦巻いてゆく。
リゾートバイトに出掛けていった友人たちからは、そこで出会った女性との淡い日々のことも聞いた。
大学の構内に閉じ籠り、毎日、限られた人としか顔を合わせない自分に、そんな出会いなど訪れよう筈もない。
このまま学生生活を送っていると、後で酷く後悔するのではないか。
その思いは、日を追うごとに膨張してゆき、一回生の終わり頃には、自分で何らかの行動を起こして、この状況を打開しようと試みるようになっていった。
実家が商売をしていた所為で、僕はうちにアルバイトにやってきた大学生たちとよく親しくなった。
僕が中学生の頃は、実家はある国立大学に通う学生さんをアルバイトとして雇っていた。
大人しい学生さんだったが、この人から僕は様々なことを教わった。
その学生さんは大学で“冒険部”というクラブに所属し、探検家である植村直巳さんの真似事のような活動をしていたらしく、その話をよく聞かせてくれた。
中でも印象に残っているのは、うちの実家近くにある山にパラグライダーを担いで登り抜き、その山頂から大空に駆け出した時の話だ。
学生さんは山頂付近から走って、パラグライダーで大空に飛び立ったまでは良かったものの、急に疲労に襲われ、宙に浮いたまま眠ってしまったらしい。
激しい衝撃で目を覚ますと、パラグライダーが木に引っ掛かり、学生さんの身体は宙吊りとなっている。
そこから学生さんは、何時間もかけてなんとか自力で脱出し、山を下りた時に泣いたそうだ。
この話に中学生だった僕は痺れ、とても憧れた。
興奮した僕は、すぐにこのことを父親に話してしまった。
話の途中で父は「あいつやったんかい!」と怒り始めた。
観光協会の役員をしていた父は、この無謀な大学生の遭難騒ぎに巻き込まれてしまっていたらしい。
この話が印象に残っていて、自分もあの学生さんのように“冒険部”のようなことを大学生活の間にしてみたいと強く思い始めた。
一回生も終わりに近づく頃、僕は寮の仲間や同じゼミの友人たちに“冒険部”の話をし、一緒にやらないかと声を掛けてみた。
仲間たちの中に、何人かそれを面白がってくれるヤツらがいて、すぐに話は進んでゆき、月に一回のペースで何かやろうということになった。
ただ疲弊し、歪んでゆくだけだった僕の大学生活は、ここから一気に動き出すこととなる。
“冒険部”というネーミングはダサ過ぎると仲間たちの猛反対にあい、“あるこうかい”と改められた。
今、考えても“あるこうかい”という名前の何処にスマートな要素があるのかは、さっぱりわからない。
“あるこうかい”の最初の活動は、すぐ近くの長野市までヒッチハイクで行ってみようということになった。
もちろん仲間たちの誰もヒッチハイクなんてしたことがなかったし、アメリカの大地なら兎も角、長野の片田舎でそんなことが成功するとは、とても思えない。
それを面白いと捉えられるのが、きっと若さというものなのだろう。
僕達は早朝に、行き先を告げるスケッチブックを持ちよって、大学の駐車場に集合した。
あの冷え切った大気の中で見た、長野の薄く青光りする空と、身体と自我を激しく揺さぶる高揚感のことは今でも、はっきりと思い出せる。
少なくとも僕と彼の、この後の道程は、あの底冷えする朝に決定づけられたのだ。
籤引きで二人一組に別れて、僕たちはヒッチハイクを開始した。
乗せてくれる人などいるのだろうかと思っていたが、仲間たちは皆、ヒッチハイクに成功し昼前までに長野市に到着した。
大したことはしていないのだが、その時の僕たちは大冒険を終えたような気分になった。
特に寮での集団生活と野球部の練習だけしかない日々を送っていた僕は、やっと学生生活というものの一端に触れられたような気がして感情を激しく揺さぶられた。
それからは憑かれたように、野球部の練習が休みになると様々な手段を考えだしては、色んな所に出掛けてゆくことにひたすら興じるようになった。
それだけこの初期衝動は強烈なものとして、僕の胸奥に刻まれた。
自転車で新潟県の県境にある湖まで行ったり、夜中に延々と歩いて見晴らしの良い峠に登ってゆき、朝焼けに染まる長野の街を飽きるまで眺めたり、他の人から見たら無為にしか映らないであろうことに僕たちは若い情動をひたすらぶつけ続けた。
一年経ってみると仲間たちの何人かは、この“あるこうかい”での活動を大学生活の主軸に据えるようになっていた。
その中でも、彼はいつしか旅に出掛けることだけに、生活の全てと若い情熱をぶつけるようになった。
いつの頃からか彼の印象は、大学生というよりも、旅人と呼んだ方がしっくりとする佇まいと空気感を持つものに変わった。
彼の旅は、僅かな時間で尖鋭化されてゆき、仲間内の誰もが、彼の動向に注目した。
夏期休暇の長い日々も、彼はその全てを旅にあてた。
アルバイトは旅に出るための費用を稼ぐためだけに行い、ちゃんと講義に出席するのも、一刻も早く大学を卒業し、海外へ長い旅に出掛けるための準備の一つらしかった。
相変わらず、僕には野球部の練習があり、彼の長い旅に同行することは叶わない。
何度かいっそのこと、野球部を退部して自分も彼と同じく、旅に出ることだけに賭けてみようかと考えたことがある。
だが何故か、二回生の夏頃から野球部での練習の中に充実したものを感じられるようになっていた。
練習の合間に色んな体験をしたことで、物事を捉える角度に少しづつ変化が起こった所為かもしれない。
そして三回生の初夏に、僕と彼はヒッチハイクで京都にゆくこととなった。
初めは、すぐ近くにある長野市にすらたどり着けないかと思っていたものだが、この頃になると時間さえあれば、ヒッチハイクで日本の何処にでもゆけることを僕達は知っていた。
僕は、何度か東京にヒッチハイクで行っていたし、彼もあれからヒッチハイクで何度も遠出をし、二人とも一度も失敗したことがなかったからだ。
ただこの京都までの道中では、名古屋でなかなか乗せてもらうことができずに、何度か場所を変えているうちに道に迷ってしまい、かなりの時間を浪費してしまった所為で、京都にたどり着いた頃には、夜が明け初めていた。
早朝に祖母の家を訪ねるわけにもいかず、桃山御陵にゆき、そこのベンチでなんとか二人で仮眠をとった。
丘の上にある桃山御陵からは、盆地である京都市内が何処までも見渡せる。
目の前にある向島団地が、朝焼けに染まってゆく。
大学に入ってからの数年で、彼とは様々な場所で朝焼けに染まる街並みをともに見てきた。
夜通し話をし、まだ覚醒しきっていない街が朱く染まってゆくのを黙り込んで眺める。
そんな時は不意に胸をつかれ、危うく涙を溢しそうになることが何度もあった。
今は、もうああ言う激しい感情を抱くことはないだろうと思う。
そう言う季節を僕達はともに生きていた。
この京都への旅の道中で、夢枕獏が書いた“瑠璃の方舟”と言う本に僕は出会った。
僕は高校生の頃から、この夢枕獏のファンであったのだが、この“瑠璃の方舟”と言う本のことは全く知らなかった。
昼前に祖母の家へと上げてもらい、すぐにこの“瑠璃の方舟”を読み始めた。
この“瑠璃の方舟”は、夢枕獏の体験を元にして書かれた青春小説なのだが、ここまで純文学として完成度が高く、しっかり魅せることが成立している青春小説に僕は今も出会えていない。
近年、巷で話題になっている純文学系青春小説と読み比べてみても、“瑠璃の方舟”は遥な上方に位置しているように思える。
勿論、夢枕獏は大物作家の一人であり、数多くの賞も獲得しているのだが、この“瑠璃の方舟”は全くと言っていいほど、知られていない。
ひっそりと存在する名作が放置されている一方で、逆に歪な部分に目を瞑られ、妙なまつり上げ方をされている青春小説があることを思うと、なんとも勿体無いような気になる。
この夢枕獏の“神々の山嶺”と沢木耕太郎の“深夜特急”が“あるこうかい”の仲間の中で、バイブルのようになっていた。
60年代から70年代に吹き荒れた学園紛争という狂騒の中で、当時の大学生たちはバリケードの奥で“あしたのジョー”を好んで読んでいたという。
確かに“あしたのジョー”の中には、青い情動の指針となるような場面や言葉が数多くある。
それと同じく“深夜特急”や“神々の山嶺”には、当時の僕たちを指し示すものが確かに存在していたのだ。
京都への旅から数年後、彼は“深夜特急”で沢木耕太郎が旅した道程をなぞるようにユーラシア大陸へと旅立っていった。
僕はその時もやっぱり自分の状況を手放すことができず、彼に同行できなかった。
沢木耕太郎のある本の中に、中年の男が旅をする若者を羨む場面がある。
若者は「今からあなたも旅に出てみてはどうか」と中年の男にすすめてみる。
「もう遅い…」とだけ言い残し中年の男は去ってゆく。
今ならその逸話の意味が理解できる。
まだ青い色硝子のようなものが、自我の何処かに漂っているうちに国外に飛び出さないと、感じられないことがあったのだ。
残念ながら僕は、そういう巡り合わせには恵まれなかったし、それはやはり自分では強く望んではいなかったと言うことなのだろうと思う。
海外にゆくことが叶わなかった僕は沢木耕太郎のスナップ集である“天涯”を何度も開いてきた。
あえてインパクトを押さえて、何気なく撮られた写真ばかりが集められた“天涯”には色んな国の自然な光景が何処までも続く。
ある写真の焦点は滲んでいるし、ある写真にはデジタルの日付が刻まれている。
雑ともとれる幾枚の写真の何処からも、小難しく面倒くさい芸術的なものは感じられない。
この疲労なく海外を眺められる“天涯”は、僕の旅への未練を何度も静めてくれた。
十年振りに再会した京橋の居酒屋でも、僕と彼はあの頃、桃山御陵や姨捨山でも何度も話した沢木耕太郎のことを話題に選んだ。
「最近の沢木耕太郎の本、読んだかい?」と彼が尋ねてきた。
僕は数年前に、クライマーである山野井夫妻の苦闘を書いた“凍”を最後に、沢木耕太郎の本から離れていた。
“凍”でも沢木耕太郎は自分を完全に消し去り、山野井夫妻に起こったことだけを細部まで詳細に書き切るという斬新な試みに挑戦していた。
好きな作家が増えた所為か、この数年はなかなか沢木耕太郎の新刊を読むことに気が向かなかった。
「“凍“から読んでへんわ。最近の沢木耕太郎はどんな感じなん?」と聞き返してみると、彼は間を置き、俊巡したのち──
「老いたかも…」
とだけ言った。
その彼の言葉に僕は思っていた以上に動揺し、最近の沢木耕太郎がどんなものを書いているのか事細かに聞いてみたくなった。
彼は僕が浴びせかける質問に丁寧に答えてくれた。
その中で沢木耕太郎が宇多田ヒカルの母である藤圭子さんのことを書いて長らく封印していた本を解禁し、出版していたことを僕は初めて知った。
沢木耕太郎が藤圭子さんのことを取材し、書いた作品を結局、出版しなかったことは僕も知っている。
何度か沢木耕太郎が藤圭子さんの今後へ影響を及ぼすことを配慮して、出版しない決断を下した時のことを綴った文章を目にしたことがあったからだ。
それを藤圭子さんが亡くなった後に出版する行為にどんな意味があるのか。
そのことについて沢木耕太郎は、誰もを納得させる明確な返答を持ち得ているのだろうか。
僕も彼も、あの頃のようにもうヒッチハイクで旅をすることはできない立場となった。
旅人の間には、何かを得てしまったらヒッチハイクからは卒業しなければならないという格言のようなものがある。
それはヒッチハイクが持たざる者だけに許されている特権のような移動手段だとされているからだ。
僕も彼も家庭を持った今となっては、ヒッチハイクをする側ではなく、持たざる若者たちに自分のできる範囲で力をかしてゆく側にまわらなくてはならない。
自分たちが、あの頃にしてもらったように。
僕達ですらこうやって年齢を重ねているのだ。
沢木耕太郎が老いることも自然なこととして捉えなければならないのかもしれない。
何処か引っ掛かるのは、その老い方がどんな類いのものなのかということである。
夢に破れた僕も、長らく旅に出続けた彼も、身を持ち崩すことなどなく、今は社会で戦い家庭を守っている。
それは、あの頃に僕達が指針とした沢木耕太郎の言葉に少なからず影響を受けたからだとも思う。
その沢木耕太郎の老い方が、思いもかけないものだったとしたら…
彼と再会を果たしてから数日後、僕はまだ読めていなかった沢木耕太郎の新刊を片っ端から購入した。
当然、宇多田ヒカルの母である藤圭子さんのことが書かれた“流星ひとつ”もすぐに手に入れた。
かつて不可解な理由でカンバックしたモハメドアリの試合を、沢木耕太郎はアメリカまで観に出掛けている。
その時に綴られた“砂漠の十字架”からは、アリは、いつまでもアリとして存在してほしいという沢木耕太郎の切実な思いが行間から、零れている。
あの時に沢木耕太郎がアリに抱いた思いを、僕は味わうことになるのだろうか。
アリの試合のチケットを沢木耕太郎に快く譲ったのは、高倉健さんである。
その高倉健さんも、藤圭子さんが亡くなられた翌年にお亡くなりになられている。
誰の時も流れてゆく。
揺れる老木 2
夏の遠征が近づき、硬式野球部の練習は日に日に苛烈さを増してゆく。
目前に前期試験が控えていようが、課題小論文やレポートの提出期限が迫っていようが、そんなことは全く配慮されることなどなく、果てることのない練習が日々、続いてゆく。
この頃、僕と同じ年代に名門高校出身の選手が多数いたため、硬式野球部は創部以来、最強の布陣と言われるほど戦力が充実していた。
事実、僕の同期生たちは入学してすぐに先輩たちからポジションを奪い取り、今まで苦汁を飲まされ続けてきた格上の大学を相手にした試合でも、一度も負けることはなかった。
夏の遠征で、よりチーム状態を固め、秋の公式リーグ戦を制し、上部リーグとの入れ替え戦に突入してゆくことになるだろうと部員全員が確信していた。
弱小野球部などと言われていたチームが突如として変貌を遂げ、勝利を重ねてゆく。
講義を終えて、クラブハウスに向かうと、そこには熱狂ともよべる濃い高揚感がいつも立ち込めていた。
もっとも名門校出身でもなく、大した実力もない僕は、練習場や球場で躍動する同学年の選手たちを、外側からただぼんやりと眺めているだけだった。
レギュラーの座を手中に納めた選手達が実戦的な練習を重ねているのを尻目に、僕や補欠となった数人は毎日、初夏の強い日光に炙られたアスファルトの上を、ひたすら走り続けねばならない状況に陥っていた。
講義を終えて、仲間たちと笑い合いながら、最寄り駅まで向かう学生たちの傍を汗だくになりながら走り抜ける。
いつも意識は朦朧とし、自分を縛りつけているこの過酷な時間が、無為なものとしか思えなくなってゆく。
夏の輪郭が濃くなるにつれ、闇夜が訪れる時刻も遅くなっているはずである。
しかし疲労感に心身を支配され、ふらふらと寮にたどり着くのは、いつも陽が落ちた後だった。
そこから練習着の洗濯などに追われる。
寮には、二層式の洗濯機が数台しか置かれていない。
寮生の大半が体育会系のクラブに所属しているのだ。
二層式洗濯機、数台という手薄な物量でその需要に応えられるわけがない。
くたくたになって寮に帰り、洗濯室を覗いてみても、いつも洗濯機は可動しており、洗濯機が空くまで何度も部屋と洗濯室を往復しなければならなかった。
しかも二層式洗濯機というのは、洗濯層と脱水層とが別れており、洗濯が終わるとすぐさま、洗い物を脱水層に移し代えなければならない。
その作業が少しでも遅れると、順番待ちをしている寮生に洗濯物を放り出される羽目となる。
自分だけの部屋を借りることができ、全自動洗濯機を所持している他の学生たちが羨まくて仕方がなかった。
この洗濯機の争奪戦は幾度となく、寮内で諍いごとの種となった。
寮長が何度も学生課に洗濯機の台数を増やすか、全自動洗濯機に代えるかして欲しいと陳情に行ってはいたが、一向に改善される気配はない。
大半の寮生たちは、洗濯が終わるまでの空白の時間に部屋まで戻っていた。
しかし僕は何度か脱水層に洗濯物を移し代えるタイミングを逸し、濡れた練習着を放り出されたことがあったので、洗濯が終わるまでの間、そこで待つことにしていた。
洗濯室の床に腰を下ろし、洗濯が終わるまでの間、本を読むことが僕の日課だった。
クーラーなんてあろう筈もなく、うだるように暑い寮の中で、洗濯室の床はひんやりとしていて酷く気持ちが良い。
この時期、僕は沢木耕太郎の“一瞬の夏”を貪るように読んでいた。
洗濯室で本を読む時間は、僕にとって大切なものだった。
ある夜、練習着を洗濯機に入れていると洗濯室の扉が勢いよく開いた。
目をやると一つ学年が上のテニス部の男が立っている。
男は僕が洗濯物を入れているのを見ると睨みを利かせ、いきなり「かわれ!」と言った。
僕は、この男と言葉を交わしたことすらない。
なぜそんな男にいきなり命令されなくてはならないのか。
僕が通っていた高校は、地域でもガラが悪いことで有名だったし、母親は僕がその高校に通うことになったとき、絶望し泣いてしまったほどだった。
そんな高校時代に、つき合いのあった野獣のような“ヤンキー”たちと比べると、このテニス部の大学生は滑稽なほど迫力に欠けた。
無視して洗濯を続けようとすると「代われと言ってるだろ!」と男が怒鳴りながら、近づいてきた。
寮生活の鬱憤を晴らせる好機だと、僕はなぜか高揚していた。
「なんでお前に代わらなあかんねん!」
そう言って男に向かってゆくと、男は舌打ちをして洗濯室から出て行ってしまった。
野球部の先輩か寮長を連れて来られたら面倒なことになるなと頭に過ったが、この場を離れるのが、何だか酷く格好悪いことに思えて、いつも通り、床に座って“一瞬の夏”を読むことにした。
二層式洗濯機の音が耳に届き、冷えた床からその振動が伝わってくる。
その感触に身を委ねながら、ぱらぱらとページをめくっているといつもすぐに“一瞬の夏”の世界に身を浸すことができた。
日本人と米国系黒人とのハーフであるボクサー“カシアス内藤”と沢木耕太郎の姿が僕の脳裡に現れる。
センスに恵まれながら、根の優しさと臆病さとが足枷となり、リングの上で煮え切らないボクシングを続けているカシアス内藤。
彼は三度、東洋チャンピオンの座に挑戦する機会を得るものの、その都度、敗退を繰り返す。
いつもカシアス内藤の挑戦を退けるのは柳という韓国人ボクサーであった。
沢木耕太郎は同年代ということもあり、カシアス内藤に興味を抱き、取材を続ける。
いつしかそれは取材という範疇を超え、沢木耕太郎はカシアス内藤というボクサーと、ともに歩み始めるようになる。
燃え尽きることもなく、己の熱量や夢といったものを、現実との摩擦によってすり潰されてしまった内藤は消え入るようにボクシングの世界から、いつの間にかいなくなっていた。
後に“深夜特急”として綴られることになる一年にも及ぶ、長い旅を終えて帰国した数年後、沢木耕太郎は己が生きてきた道程から弾き出されたカシアス内藤が、再び自分の居場所を求め、ボクシング界にカンバックしようとしていることを知る。
多くの旅人のバイブルとなっている“深夜特急”は、世界旅行の紀行文として世の中には知られているように思う。
しかしその旅の本質は、若きノンフィクションライターの世界見聞録というような優雅なものではない。
沢木耕太郎がその旅に出たのは、外国が文字通り、自国の遥か外側に位置していた年代である。
現在のように国境が緩くなり、PCの画面から地球上にいる誰かの生活を覗くことができるような時代ではなく、異国の文化や治安の不透明な部分は己が身を投じてしか確かめることができない頃だ。
沢木耕太郎は何ごとかにアプローチをするとき、必ず人とは異なる方法を試みる人物だと僕は認識している。
未知の世界と対峙した若き沢木耕太郎は、インドのニューデリーからイギリスのロンドンまで乗り合いバスだけを使って行き着こうとする。
ユーラシア大陸を路線バスだけを使って横断してゆく。
これはなかなかに無謀で、イカれた行為のように映るし、かなりの熱量と勇敢さを持ち合わせていないと成就できないことのように思える。
“深夜特急”から影響を受け、海外に旅立った末に、運悪く様々な危険に遭遇してしまった若者も少なからずいることだろう。
そこには気の抜けない日々が、連なっていそうだと想像できる。
そんな張り詰めた渡航の中にあって、若き沢木耕太郎は将来への不安や、社会や自我との折り合いのつけかたに葛藤したりする。
長大な“深夜特急“の中に時折、出てくるこのシーンが僕は好きだった。
これが執拗なものだったり、過度に感情的なものだったりすると途端に自分には合わなくなる。
「あぁ面倒くさ。安っぽいな」と萎えてしまうのだ。
生々しくならない程度に挿入されている自己語りは、逆に真に迫ってくるものがある。
この辺のバランス感覚を持ち合わせることが、嫌悪感や疲労感を与えずに、人にものを伝える“技量”のようなものらしかった。
長い旅を終えた沢木耕太郎は、帰国するとともに再びルポルタージュを書き始める。
ルポルタージュの書き手というのは、あくまでその取材対象である人物や事柄が存在しているから成り立つ職業である。
語り手は、その役割を全うせねばならず、自分の思考や意思を伝えたいと願うならば、対象の行動や思念に沿う形で小出しにしてゆくしかない。
それは、果たして自分の道程を全力で生き切っていると言えるのか?
沢木耕太郎の作品からは、そのことで悩んでいるらしいことが伺えた。
悩みの濃度が四六時中、思考を支配しているほど濃いものなのか、それともふとした瞬間に自我を掠めてゆく程度のものなのか、その辺りは読み手側が、勝手に想像するしかない。
同じ作家が綴ったものを、幾つか読み進んでゆくと、その作家の人生観や悩みの輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる時がある。
ある時期までの沢木耕太郎が綴ったものからは、ルポルタージュライターという職業への迷いみたいなものが染み出していた。
ただある年齢に差し掛かると、生きてゆく上での役柄など、自分の道筋にとって大した問題にはなりえないことに人は気づいてゆく。
“一瞬の夏”での沢木耕太郎は思う存分、自我をぶつけている。
カシアス内藤というボクサーを取材対象とし綴られてはいるが、それは決してカシアス内藤一人にフォーカスしたものではなく、何かが吹っ切れたように沢木耕太郎はそこに介在し、“主観“をぶつけその物語を書き切る。
“一瞬の夏”は“私ノンフィクション“と命名され、ルポルタージュの中に新しい方法論と可能性を示したことで新田次郎文学賞を授賞した。
“一瞬の夏”の以前に、沢木耕太郎はカシアス内藤の東洋タイトルマッチに同行した時のことを描いた“クレイになれなかった男”という短編を発表している。
そのラストシーンで不甲斐ないファイトに終止したカシアス内藤が弁解するように「僅かなファイトマネーで命を掛けるような試合をするわけにはいかない」と呟く。
その言葉を聞いて沢木耕太郎は深い徒労感に襲われながら「いつそんな試合をするの?」とカシアス内藤に問う。
「いつか…そういう時がきたら、いつか…」
それを聞いた沢木耕太郎は、人間には“燃え尽きる人間“と“燃え尽きない人間“、そして“いつか燃え尽きたいと願い続ける人間”の3つのタイプがあると結論づける。
その直後、恐らくカシアス内藤にそのいつかがやってこないように、自身もいつかを迎えることはないだろうことを悟る。
このラストシーンからは、ある種の強い哀切と酷く湿ったものが感じられる。
それから数年が経った“一瞬の夏“でカシアス内藤と沢木耕太郎は、今度こそ燃え尽きようと再び試みるのだった。
“一瞬の夏”のラストは、“クレイになれなかった男”のように湿ったものではない。
タイトルマッチに敗れたカシアス内藤には暫くして子供が生まれ、沢木耕太郎はその“一瞬の夏”でタイトルを得た。
自我が燃焼するような瞬間は、やってこないのかもしれないが、それに向かって挑戦することは決して無駄ではないという前向きなメッセージを沢木耕太郎は自身と読み手に激しさを持って伝えている。
“一瞬の夏”の中に沢木耕太郎が高崎までカシアス内藤の対戦相手である若いボクサーを取材しにゆく場面がある。
そこで取材しにゆくのか、ある同じ夢に向かって突き進んでいる内藤のために偵察しにゆくのかという葛藤が生じる。
そのあたりを夢中で読んでいると、不意に洗濯室の粗末な扉が開いた。
この学生寮には不釣り合いなスーツ姿の男が入って来て、僕を見て「君か…」と呟いている。
この人物は学生課の吉岡さんという人で、野球が好きらしく、高校生になる息子さんを連れて我が野球部の試合を頻繁に観に来てくれていた。
そんな吉岡さんがなぜ寮の洗濯室に、いるのかと不思議に思い「どうしたんですか?」と僕はすぐに尋ねた。
「また洗濯室で学生が揉めてるって寮母さんから電話があったんだよ」
吉岡さんの返答に激しい怒りが湧く。
先程、言い掛かりをつけてきたテニス部の男が寮母さんに何事かを言ったらしい。
「いや別に何もないっすよ」と言って事情を説明している最中に酷く億劫な気分になり、弁解めいたことをしている自分に嫌気がさした。
僕がとるに足らないような男を相手にしたばかりに、吉岡さんはわざわざこの寮まで足を運ばなければならなくなったのだ。
すぐに謝罪に切り換えると「野球部にとって大事な時期なんだから、つまらないやつを相手にしてはだめだよ」となんとも優しい言葉を掛けてくれた。
何故か張り詰めていたものの何処かが決壊したような気分に襲われ、涙が零れそうになる。
それを何とか押し留めていると「うちの息子は来年、東京へ進学するんだけど、君たちくらい逞しかったらなぁ」と吉岡さんが息子さんの話を始めた。
球場で見掛けた息子さんの線のか細い姿が思い出された。
確かにあの子が一人で東京に出てゆくとなると心配は尽きないだろうと思う。
うちの両親のように「どうとでもしよる」と言うスタンスではいられなそうだ。
脱水が終わるまでの間、吉岡さんは僕につき合ってくれて、様々な話をした。
その行為が親元から離れて、時代にそぐわない寮で集団生活を送っている僕の何らかの感情を癒そうとしてくれていることは明らかだった。
高校時代の僕は、なかなか進路を決めきれず片田舎の街に残り、アルバイトをしていたレンタルスキー屋でそのまま就職でもしてしまえばいいとくらいに思っていた。
大して勉強などに励んでいなかったが、極端に偏差値の低い高校では目立つくらいには成績は良かった。
進路を決める時期になると、担任の教師から学校推薦を受けられるからと強く大学への進学をすすめられた。
教師はうちのクラスから大学へ進学する生徒を出したいと熱っぽく語り、文章が巧いという理由から、小論文で試験が受けられる大学を僕より熱心にピックアップして渡してくれた。
大学への進学を薦められるなどと夢にも思っていなかった母親は酷く感激し、やたらと僕の行く末に介入してくるようになった。
父親の方は「金がかかるなぁ」と露骨に嫌な顔をし、「三つだけ受けてもいい」と言ってくれた。
最初は乗り気ではなかった僕も、同じ年齢の子たちに文章を書くことで負けるのは嫌だと思い始めた。
そんな経緯で始まった大学生活は、野球部の練習と寮での集団生活にただ疲弊してゆくだけの日々だった。
運動部にも所属せず、自分だけの部屋を借りアルバイトや宴会にだけ精を出しているような学生たちには、何とか一矢報いねばならない。
「頑張ってね」と吉岡さんは僕に声を掛けて、洗濯室から出ていった。
興味の湧かない語学系やペーパーテストを用いている講義の試験で負けるのはいい。
しかし文章を書いてレポートを提出する講義で負けるわけにはゆかない。
大学の四年間で僕は様々な文章を書く機会に恵まれたが、その全てにかなりの熱量を込めて挑んだ。
文章を書くうえで、いつも沢木耕太郎が綴ったものを頭に置いた。
何とか揺るがない自我を築き上げんと躍起になっていた時期に、沢木耕太郎に触れていたことで多くのものを学んだと思う。
社会との距離感や、人や事象を見るときの方向の変え方など、それは多岐に及ぶ。
そんな沢木耕太郎が老いて、判断を誤ったのではないかと疑念を抱く日がくるとは、当時は思いもしなかった。
揺れる老木 1
沢木耕太郎のことを初めて知ったのは、確かまだ高校生の頃だったと思う。
当時、好んで読んでいた作家の本の“あとがき“に、不意にその名が出てきたのだ。
その“あとがき“の中で、僕が好きな作家は沢木耕太郎への熱烈な思いを何の気後れもなく語っていた。
同業者への正直な気持ちを、読者に向けて熱く語る。
そんな親しみやすさが、その作家の魅力でもあった。
名前はそのときに覚えたものの、なかなか沢木耕太郎が書いたものを読む機会には恵まれなかった。
人との出会いと同じく、本との邂逅にも縁というものがあり、ベストなタイミングで手に取ることが何よりも大切だと僕は、今も思っている。
高校を卒業した僕は、大学の産業社会学部へと進学することとなった。
大学では、高校の頃に好きだった日本史や政経といった学問を、思う存分深めてゆくことができると僕は期待し、そして気負ってもいた。
しかしそんな青臭い一時の情動は、いざ大学生活が始まるとすぐに冷え込んだ。
社会学部の支柱であるはずの“社会学概論”という講義が、絶望的につまらないものだったからだ。
しかも“社会学概論”の講義を担当していた教授は毎回、出席カードの色を変えて配るような小狡い男だった。
その男はカードの色を変えて配ることで、“代返”と呼ばれる学生たちの不正行為を牽制したつもりでいたようだ。
我大学の学生たちが持つ士気は、そこまで低いものではなく、内容が濃く面白い講義の出席率はとても高いものだった。
講義に学生たちを集めることが可能な講師は、確固たる自信と信念のもとに、出席すら取ろうとしなかった。
そんな格好良い大人と同じ土俵に立ちながら、自身の退屈な講義を改善しようともせず、学生たちは不正行為を働くものだと決めつけ、姑息な策を弄す。
自分が行っている行為が、いかに卑しく、それによって学生たちの心がどれほど、離れてゆくものなのかを考えようともしない。
大学の教授ともあろう人物が、そんな精神性しか持ち得ていないことに、若い僕は酷く苛立ち、“社会学概論”と言う講義自体を嫌悪の対象とした。
一方で社会学部のもう一つの柱とされる“社会調査論”という講義には、とても興味を惹かれるものがあった。
恐らく三十代であろう女性講師が、その“社会調査論”の担当だった。
「この講義で学んだことを、あなたたちの人生や実社会で必ず役に立ててほしい!」
そう言う己が持つ願望を、講義の最中に過剰な熱量を込めて、その女性講師は僕たち学生に頻繁に伝えた。
大学には講話が巧い講師は何人かいたが、この女性講師のように直接、エネルギーをぶつけてくるタイプは珍しかった。
その社会調査論では、フィールドワークを主に学んだ。
フィールドワークとは調査対象である地域や団体に接触し、それに関わる人たちに聞き取り調査を行ったり、アンケートをとったりすることで、できる限り真実や実態を浮き彫りにする、基礎的な社会調査の手法である。
その講義の中で、僕は初めてルポルタージュ、報告文学と言われるものを読む機会を得た。
それまで純文学や推理、娯楽、SF等の小説や戦記物ばかり読んでいた僕は、このルポルタージュが持つ生々しい臨場感にすぐにのめり込んだ。
当時の精神病医療の実態を調査するために、筆者自身が酒浸りとなり、アルコール中毒患者になりすまして、精神病院に潜入して書いた“ルポ精神病棟”や、
大手メーカーの自動車工場で実際に数ヵ月間、ライン労働に従事した若者が書いた“自動車絶望工場”などのルポルタージュを僕は貪るように次々と読んだ。
学食横の生協には、小さな書籍売り場が併設されていて、そこでは主に講義で紹介された書籍が売られていた。
“社会調査論”の講義中に女性講師が、「このルポルタージュを読んでおくように!」と言うと僕は講義後、この小さな書籍売り場に直行し、言われた本をすぐさま購入した。
単純にルポルタージュという今まで読んだことのなかった新しい分野の本に、はまり込んでしまっただけのことなのだが、女性講師には随分、熱心な学生だと勘違いされてしまったようだ。
当時、僕は髪の毛を下品なくらいに赤く染めていて、そんなヤツが勉強熱心なはずがない。
現に全く興味が沸かない語学系の成績は惨憺たるものだったし、よく講義をさぼって、友人達と一緒に隣の女子短期大学の前を意味もなく往復することに興じたりしていた。
僕にとっては、講義で薦められたルポルタージュは“ジョジョの奇妙な冒険”と同じく、単純に面白いと感じられるものだっただけだ。
生協には、なぜか“週刊プロレス”も売られていて、頻繁にお堅い本と“週刊プロレス“を同時に購入していたため、友人達に「本当によくわからんヤツだなぁ」といじられたりした。
金銭にはいつも困っていたが、うちの母親が寮母さんに書籍代だけは預けてくれていて、お堅い本を買って寮母さんに見せにゆくと、その分の代金だけは受け取ることができた。
しかし金を受け取る際に初老の寮母さんが毎回、「それいやらしい本と違うやろねぇ。けけけ」などと何とも整え難いことを言ってくるので、面倒くさくて仕方がなかった。
不意に講義中に女性講師が、沢木耕太郎の名を出したときには、なぜか僕はどきりとした。
以前より名前は知っていたのだが、沢木耕太郎が優れたルポルタージュの書き手だということを、僕はこのときに初めて知った。
僕は勝手に沢木耕太郎は、小説家なのだろうと思い込んでいたのだ。
そのときの講義はフィールドワークで得た調査結果を、どうやって人に伝えてゆくかと言うような内容だったと思う。
いつものように女性講師は、大教室に漂う気だるい空気を余りある熱量で気化させ、壇上を所狭しと動き回っている。
「せっかく苦労して、手にした調査結果も人に読んでもらえなければ何の意味もないのです! 調査結果を、どうしたら人に読んでもらえるのか? ただアンケートの結果やインタビューの内容を書き連ねただけのものなんて誰も最後まで読みはしません! 読み手の興味を最後まで、どうやって持続させるのか? それをあなた達の若く瑞々しい感性で考えて欲しい! 」
女性講師が、もう何度も聞いたことのある言葉を口走っている。
何度も繰り返し語っているであろう話にいつもと変わらぬ心を込める。
なかなか誰にでもできることではないし、この女性講師が僕達、学生と手を抜かずに向き合おうとしていることが、ひしひしと伝わってきた。
僕は今でもそうなのだが、こう言う燃費の悪い人物に滅法、脆い。
いつもと同じ、慣れた何でもない道にありったけの燃料を後先も考えずに注ぎ込む。
決して器用などではなく、時には強く頭を打ち付けることもあるだろう。
だがそこには、何にも代え難い信頼でき得るものがあると思えてならないのだ。
「“象がそらを飛んでいる“この情報を得たとしたら、あなた達はどんなものを想像しますか?」
女性講師の言葉に触発され、僕は頭の中に何事かの想像を働かせようとした。
ふわふわと学舎の上空に浮かぶ珍妙な象が、長野の切り立った山景を背に頼り無く風に揺られてゆく。
「あなた達の頭の中を飛んでいる象を、信じることはできますか? またそれを人が信じると思いますか?」
女性講師の意図が理解できず、大教室には不可解な空気が漂う。
しかしこの空気感は、つまらない講義のときに場を支配している散漫なものとは、質が違っていた。
社会学部に籍を置き、卒業を目指すのであれば、ルポルタージュを書くと言う行為を避けて通ることはできない。
そう言った事情が、学生達の集中力を高めている側面はある。
しかしそれ以上に皆、女性講師の講話自体に引き込まれているようだった。
「“象が空を飛んでいる“こんな荒唐無稽なものを誰も信じないでしょう。 しかし“四千二百五十七頭の象が空を飛んでいる“と言えば信じてくれるかもしれない。 調査で得た正確な数値を記載することで、報告文の信憑性は増すのです!」
見事な話の落とし処に僕たち学生は納得し、ルポルタージュの基本をノートに書き記そうと一斉にペンを走らせた。
「先程の空飛ぶ象の話は、沢木耕太郎という人が書いていたことです」
沢木耕太郎の名が出た瞬間、僕はペンを走らせるのを止め、軽く息を吸い込んだ。
気になっていた作家の名が、まさか社会調査論の講義中に出てくるとは思いもしなかったからだ。
正確に言うと“空飛ぶ象“の話は、沢木耕太郎のものではない。
ガルシア・マルケスと言う作家がインタビューの中で語ったものである。
だが沢木耕太郎が、この“空飛ぶ象”の話を何度か著作の中に登場させていたことから、女性講師はそれが本人のものだと勘違いしたようだ。
この時期から沢木耕太郎の名は度々、講義中に出てくるようになった。
生協の書籍売り場にある平棚の上に、“深夜特急”が積まれていることに気が付いたのもこの頃だ。
“深夜特急”は文庫化されて間がない時期だった所為か、平棚にうず高く積み上げられていた。
好きな作家が語り、講義にも名前が上がり始めた人物の本を素通りできるわけがない。
しかも“深夜特急”と言うタイトルは、若い感性や冒険心を根刮ぎ擽る、強い刺激を持っている。
言語の大海原から二つの鋭い言葉を掬い上げ、繋ぎ合わせることで、より研ぎ澄まされた響きを生み出す。
こんな高度なセンスを、タイトルから垣間見せる人物が綴った本なのだ。
読んで何も感じられないなどと言うことが、発生する可能性は極めて低いように思えた。
それでも“深夜特急”を、なかなか読み始めることに踏み切れなかったのは、“深夜特急”が一巻から六巻まであるシリーズものだったからである。
六巻まで全て購入しようと思えば当然、金がかかるし、読むとなればそれなりに時間も費やさねばならない。
何だかんだと迷っているうちに夏が近づき、社会調査論の前期課題に取り組む時期がやってきた。
前期課題のテーマは女性講師が指定したルポルタージュの中から、数冊を選んで読み、リポートを書いて提出することだった。
その指定されたルポルタージュの中に、沢木耕太郎の“一瞬の夏”が含まれていた。
“一瞬の夏“──
このタイトルは、痺れるほどにただ眩しい。
“深夜特急”も“一瞬の夏”も、ぱっと思いつきで出てくるような言葉ではなさそうである。
人が手に取ってくれるならと言う願望と、自らの作品に対する強いこだわりとが交錯し、時間を費やして確りと悩み考え抜いた末に、沢木耕太郎がタイトルを選定しているらしいことが窺えた。
“一瞬の夏”は、ルポルタージュと言うよりもスポーツノンフィクションに分類された方が自然なように思う。
女性講師が前期課題用に選定したルポルタージュの中には、他にも三菱銀行人質事件を扱った“破滅”などが含まれていた。
事件もののルポルタージュが広く支持されるようになったのは0年代以降であり、僕が大学で社会調査を学んでいた頃は数も少なかった。
幅広い分野のルポルタージュが前期課題に選ばれていたことから、女性講師がルポルタージュの面白さや奥深さを、学生達になんとしてでも伝えたいと願っていることが読みとれた。
これはずっと先になってから少しづつわかってくることなのだが、健全な大人と言うのは、自分が情熱を持って取り組んできたことを、若い世代にも好きになってもらおうと心血を注ぐということだ。
決して自分自身へ若い世代の目を向けさせるのでなく、自分の歩んで極めてきた道筋や分野に、若者たちの興味が向くように促す。
そういう年長者というのは、バランス感覚も優れているし、真っ当な年の重ねかたをしている。
兎に角、僕は大学一回生の初夏に沢木耕太郎の“一瞬の夏”を読むこととなった。
その邂逅は、まだ地固めが完了していなかった僕の未熟な自我を激しく揺さぶるほど大きなものだった。
宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 3
仕事を終えて、会社のゲートを潜ると細い路地に、最寄り駅に向かう人達の列がびっしりと伸びていた。
会社の規則は厳格で、だらしない服装をした人等いないし、況してや歩きながら煙草を吸っている人や、スマホを操作している人も見受けられない。
この細い路地に軒を連ねる居酒屋や、スナックには粗方、行き尽くした。
どの店の人達も皆、親切にしてくれ、礼節を重んじる社風を褒めてくれた。
以前、一緒に働いていた米国の友人達は、この密集した路地を見て、「アメージング!」と大仰に驚いていたものだ。
古来よりの秩序が確りと伝承され、不思議な調和を成す、この箱庭の様な街路を、僕は気に入っていた。
しかし最近は、そんな情景に目も止めず、最寄り駅まで全力で駆けて帰っている。
仕事終わりに更衣室で着替えを済ませると、いつも電車の発車時刻までに、数分の猶予しか残されていない。
その便を逃してしまうと、次の電車が来るのは十数分後だ。
数分以内に次の便が来る様に、ダイヤグラムは組まれている筈なのだが、何故かこの時間帯だけ、ぽっかりと隙間が空いている。
疲れた心身を晒しながら、ホームでぼんやりと佇む十分と言う時間は思いの外、長く感じられ、自我が薄まり不鮮明になってゆく様な気にさせた。
一体、この無為としか思えない十数分を自分はこれから先、どれだけ積み上げてゆかねばならないのだろう。
一週間で換算してみると、一時間近くに達する。
月単位では…
その辺りまで行き着くと大体、嫌気が差し、自分は酷く馬鹿げた事を考えていたなと気がつく。
計算までして、積み重なってゆくであろう無為な時間を算出した所で、そんなものは思考を無駄に暗くさせるだけだ。
今まで吐いて捨てる程、何事とも名付け難い時間を過ごしてきたのだ。
今更、おたおたしても仕方がない。
そう思い直してみても、ただの待ち時間をこれから、永遠と過ごさねばならないとなると酷く抵抗感が沸いた。
ある時、夕刻の狭い路地を、走り抜けて行く若い男の姿を見掛けた。
会社の巨大なゲートから、最寄り駅まではいつも通り、帰路に着く人の列が切れ目なく伸びている。
若い男は、ゆったりと動いてゆく人の群れの脇を、確かな足取りで走行し、次々と追い抜かしてゆく。
あのスピードなら、何とか数分後に最寄り駅を出発する電車に間に合うだろう。
不意に僕の少し前を歩いていた中年の男達が、走っている若者に声を掛けた。
しかし若い男は軽く会釈をすると、中年の二人組が発した何事かの質問にろくに答えもせず、そのまま走り去ってしまった。
どうやら中年の男達とあの若者は、同じ職場で働く顔見知りらしかった。
若者が、最寄り駅の方角に消えて行った後で二人組は「あいつあんなに急いで帰って、何やってるんやろ?」と話していた。
会釈だけをしてその場をやり過ごし、駆け抜けて行った若者の表情には、何処か切実なものがあった。
年を重ねると理解し難くなるのかも知れないが、きっと若い彼には家路を急ぐ、何らかの明確な理由があるのだ。
僅かな時間も惜しんで、愛する彼女に会いたいのかもしれないし、友人達と深夜まで語り合いたいのかもしれない。
一刻も早く、自分の部屋に帰って好きな本を読んだり、映画を観たりする事で心身の均整を保っている可能性だってある。
よくよく思い返してみると、連綿と続くこの人の波に迎合せず、走り抜けてゆくのは若者ばかりだった。
“おっさん“連中はいつも歩いている。
当然、“おっさん“と言われる領域に足を深く踏み入れている僕も、この列にぴたりと歩調を合わせ、緩慢な移動を続けている。
毎日の待ち時間に嫌気が差し、少しでも時間を短縮して、帰宅せねばならない理由が自分にもある。
しかし僕はこの緩い流れに身を任せ、揺蕩う様にして家路に着いている。
家路を急ぎ走っているのが、若者ばかりだと言う理由だけで。
自分は、彼らの様な年頃の時に「格好良い大人になりたい」と強く願っていたのではなかったか。
若者に混じって、様々な疲労や汚れが蓄積した、“おっさん”が若者に負けないスピードで全力疾走してゆく。
それは、何処か不様な光景に思えた。
だが一方で体裁を気にし、胸奥の声に耳を傾けない様にして、駅で過ごす不透明な時間をすんなりと受け入れている自分を、格好悪いとも感じる。
うだうだと考えている時間等、何処にあると言うのか。
ある時、僕は会社のゲートを出た瞬間、軽く走り出してみた。
大学時代の野球部での、ベース間ランニングは部員の中でも、下から数えた方が早かった。
しかし二キロを超えるランニングでは、殆んど誰にも抜かれずにゴールまで達する事ができた。
その日、走り出した僕は、全く息が切れる事なく、最寄り駅に辿り着いた。
ホームに下り立つと、すぐにいつもは乗り過ごしている電車が近づく。
軽い高揚感が、自分の何かを満たす。
良かれ悪かれ、僕の毎日は年々、感情が揺れ動き難い方向へと進んでいる様だ。
それを刺激がないと憂うのか、それとも手に入れた安息に寄り添うのかは、なかなか自分でも判断を着け兼ねる所である。
ただそう言う凍結した時間の中に、身を置いていると、胸中の変化に敏感にはなってくる。
穏やかな湖面に起きた小波を、見逃す事なく捉える事は容易い。
その日から僕は、会社のゲートを出た瞬間、駅まで全力疾走する様になった。
よくよく考えてみると、おっさんが一人くらい列の速度に抗った所で誰がそれを注視すると言うのか。
走っている最中に時々、会社の同期や飲み仲間を追い越す事もあった。
「なんで走ってんの?何か用事あるん?」
そう言う友人達の質問に僕は、本音で返した。
「早く帰って、宇多田ヒカルのCD聴きたいねん!」
この返答はよく受けたし、「中学生か!」と突っ込んでくる友人もいた。
みんな笑っていたが、僕は本気だった。
滑稽な全力疾走を繰り返し、一刻も早く帰宅して聴き込まねばならない程の崇高さを、宇多田ヒカルのニューアルバム“fantome”は持ち得ていた。
──宇多田ヒカルが、数年振りに復活すると言う情報を目にした時は、何か現実感が沸かなかった。
“人間活動に専念する”と言う聞き慣れない言葉を残し、宇多田ヒカルが表舞台から姿を消したのは何時の事だっただろうか。
それを思い出す事ができない程、余りにも膨大な時間が流れ去ってしまっていた。
ただ宇多田ヒカルが、ひた走っていたその順路から降りる決断を下した時に、自分が抱いた印象は、はっきりと思い出せる。
十五歳の時から、時代の先端の最も切り立った場所で行動を続け、シーンを牽引して来たのだから、この辺りで休息を挟む事は自然だと、その時の僕は思ったのだ。
その理由づけとして、宇多田ヒカルが選択した“人間活動”と言う言葉に、はっとさせられた。
この“人間活動”と言う響きには、国境や人種を軽々と跨ぎ越えてゆく事が可能な歌姫も、当然の如く一人の自分達と同じ人間であったのだと言う事実を強く思い起こさせるものがあった。
仕事や夢の狭間に、本当は最も優先させなければならない筈の自分を支えてくれた肉親や友を置き去りにしてきたのかもしれない。
地球上に拡散してゆく己の虚像に、知らぬ間に心身が浸食され、自分の本質が見え難くなっている可能性だってある。
そんな生々しい理由を今更、宇多田ヒカルが語れる筈もないし、誰もそれを望んでなんかいない。
“人間活動”の四字には世に出る事も、出す必要もない、宇多田ヒカルの胸中や体温が凝縮されている様に思えた。
しかしそれをすんなりと受け入れる程、この国の世相は器が大きくはない。
宇多田ヒカルが、“人間活動”に比重を置く様になってすぐに、「彼女が休養に入った本当の理由」等と言う記事が巷に出回り始めたのだ。
そう言った記事の全てが、推測や出所の不明瞭な伝聞で構成された、胡乱な物ばかりで中には、下品としか言い様のない物まであった。
当の本人が何も語っていない以上、真実も虚構も、そこには存在していない筈である。
この手の事はジャンルを問わず、名前が知られてくると誰にでも、ふりかかってくる事だと思う。
社会の根底には、粘液質な澱み腐った対流圏が常に横たわっていて、人の心の隙間を絶えず狙っているらしかった。
質が悪いのは、記事を書いた者も、またそれを読んだ者も日常に晒されるとすぐに内容等、忘れ去ってしまう事だ。
しかし恐らくその餌食になった当の本人には、簡単に拭う事のできないダメージが残り続ける。
胸奥に蓄積されてゆく損傷によって、心を破壊されてしまった人物等、何人にも及ぶ。
無責任で泡沫な言い掛かりも、それに絶えず晒されている者の精神には、決して消える事のない深い傷を残す。
自分にとって今、大切だと思える“人間活動”を優先させた結果、話した事も会った事もない人々が悪意の塊となって、次々と揺さぶりを掛けてくる。
この激烈な状況に、もし己が陥ったと考えたら、とても耐えられそうにない。
しかし宇多田ヒカルは一切、何の反論もせず“人間活動”意外の理由を語ろうとしなかった。
それからも、定期的に宇多田ヒカルの真偽が定かではない情報は流され続けた。
数年間、シーンから遠ざかり、“人間活動”が終結する気配も感じられなかったので、僕はもう宇多田ヒカルの事を、あまり考えなくなっていった。
自分の生活にも、様々な変化が起こり、年々、音楽自体を聴き込む事からも遠ざかってゆく。
ある年代を超えると誰にとっても、時間と言うものは、不思議なくらいに急激に過ぎ去ってゆくものらしい。
今日を味わい切る前に、もう明日が雪崩込んでくる。
そんな日々を過ごしていたある夏の終わり、また宇多田ヒカルの名が頻繁にメディアで流れて来る様になった。
宇多田ヒカルの母親である藤圭子さんが突然、亡くなったと言う。
数日間に渡り、テレビやインターネットのニュースはその話題で埋め尽くされた。
自身も大衆の記憶に深く刻まれている歌い手であり、世界でも認知される歌姫の母でもある藤圭子さんの最期は、痛々しく悲しいものだった。
自分の親を亡くした時の喪失感や悲しみほど、苛烈なものはないと思う。
それが突発的で、思いも寄らないものだとしたら尚更、深いものだと言う事は人であれば当然、想像がつく。
自分にとって、自我を見失いそうになる程の出来事が、大衆の目に晒され続けると言うのは耐え難い事だろう。
そんな悲しみに疲弊しているであろう人への配慮もできないほど、この社会に流れている空気は腐敗している。
藤圭子さんの訃報は、しつこい程に何度も様々なメディアで取り上げられ続けた。
暫くして、宇多田ヒカル自身のコメントがWEB上に公開された。
このコメントの行間からは、藤圭子さんを亡くしてしまった宇多田ヒカルの複雑な心情や、後悔の念が大量に零れ出ていた。
激しい胸の痛みに苛まれながら、僕はこのコメントを何度か読んだ。
もう宇多田ヒカルが復活を遂げる事はないのかもしれない。
再び音楽シーンに帰還を果すにしても、膨大な時間が必要だろうと誰もが思った筈だ。
それからまた時間が過ぎ去ってゆく。
僕の生活は、初めて宇多田ヒカルのCDを買ったあの頃から、大きく変化し、潤沢にあった筈の時間や自由は、いつの間にか何処かに消え失せてしまっていた。
しかしだからと言って、今の生活が嘆く様なものでは決してなく、失ったものよりも多くのものを手に入れられた様な気もする。
年齢を重ねてゆくと言うのは、そう言う事なのかもしれなかった。
僕の様な社会と言う大樹の傘下に納まっている人間でさえ、緩やかな変化の中にいるのだ。
世界中の耳目を集める人物であれば尚更、その振り幅は大きなものになるのだろうと思う。
宇多田ヒカルは、恐らく誰も手に入れる事等できない、途方もないものを獲得し、そして最もかけがえのないものを失ってしまったのかもしれない。
浪費した時間に傷つく事もあれば、時間の経過が深い傷口を癒してゆく事もある。
藤圭子さんが亡くなった夏の終わりから二年が経った盛夏、宇多田ヒカルは母となった。
その情報にも、余り僕は興味がわかなくなっていた。
宇多田ヒカルがイタリア人と再婚したニュースをいつか見て、何処かで二人で写った画像を見た記憶が、ぼんやりとはある。
イタリア人の男性が、好青年と言う印象だったのでとても好感が持てたし、色々と騒がれる日本での煩わしい生活より、海外での静かな生活を選び取ったのだろうと思っていた。
パートナーとの穏やかな日々。
それは“人間活動“の着地点としては至極、自然な成り行きであると思う。
安息の日々を送り、何らかの傷口が存在するならば、それを癒し切った所でまたゆっくりと音楽シーンに関わっていけばいい。
過去に宇多田ヒカルのCDを聴いていた、多くのリスナー達は、その様に感じていたのだと思う。
当の宇多田ヒカル本人は、そんな消極的で身勝手な願望を拒否する様に、母親になるとともに“人間活動”を終結し、いよいよ復活に向けて動き始めた。
数年振りに、数曲の新曲を発表し、秋にはニューアルバムをリリースする事となった。
かつて時代を席巻した歌姫が、受け止め難い現実を乗り越えた末に、母となり復活を遂げる。
しかも“人間活動に専念する”と宣言した以上、過去の自分より、人として成熟した姿で帰ってくる事を大衆は待っている。
そしてどんな形であれ、この数年の間に宇多田ヒカルの身に起こった出来事、全てが確りと歌に反映される事を望んでいる。
この戦いに逃げずに挑む、宇多田ヒカルは、やはりとても勇敢な人だと思えた。
否応なく期待値が高まった秋口、ニューアルバム“fantome”はリリースされた。
僕は、リリースされた直後にそれを購入した。
秋口は自分の生活でも、仕事でも思案を尽くさねばならない事が山積している時期で、なんとか自我を繋ぎ止めようと僕は躍起になり、焦燥し疲弊していた。
胸の高鳴りを押さえて、天神橋筋を抜けて毛馬へと続く橋の上から見た薄い秋空の事はよく覚えている。
家に着いてみると、嫁さんはまだ帰宅しておらず、僕は静かなリビングで“fantome”を聴いた。
音楽を聴かなくなったここ数年間で、鼓膜に付着した錆が完全に削ぎ落とされて、研ぎ澄まされてゆく。
約五十分間、鼓膜を通過しその奥に響いてくる宇多田ヒカルの歌声に僕は何度も、心を揺り動かされた。
宇多田ヒカルは目を背けても、誰も文句等、言えようもないものに真っ向から向かい合い、それをありのまま歌っていた。
その勇敢さは、僕の深い領域を揺さぶった。
そして数年振りに聴く、その美声には、以前は稀薄だった哀切や歓喜と言った体温が宿り、深みを増していた。
かつての斬新さや躍動感は失われておらず、そこに“人間活動”の成果が確りと加わる。
当然の如く、瞬く間に“fantome”は、世界中の人々の心に拡がっていった。
僕は惚けた様に、秋から冬にかけて時間が空くと、何度も“fantome”を聴き込んだ。
頂点を極めて尚、何かを追い求め曖昧な不安が透け初めていた休養前の宇多田ヒカルの姿はそこにはない。
“fantome”からは最愛の人の死に向き合い、新しい家族と言う安息の存在を手にした事で得た、“今の宇多田ヒカル”の強さが詰まっている。
年を越え冬になった今も僕は、“fantome”を少しでも早く聴こうと、会社のゲートから最寄り駅までの全力疾走を続けている──
藤圭子さんの事を綴った以上、沢木耕太郎に触れなくてはならないとも思う。
宇多田ヒカルと安部公房と太宰治によるジェットストリームアタック 2
早朝に目を覚ますと、窓の外には朝焼けに染まる空が見えた。
傍に建つ高層住宅を覆う灰色の壁面に、紅みが差している。
幸い出勤時間までには、まだかなりの余裕があった。
ベランダで一服しようかと煙草盆を手に取り、立ち上がる。
あるノンフィクション作家は、窓から街を眺めるのが最も好きな時間だと綴っていた。
確かに人の営みや街の気配を、こうやって離れた場所から感じていると、今日と言う平凡な一日が、何か特別な意味を持つのではないかと言う気さえしてくるから不思議なものだ。
朝一の煙草に直ぐ様、血管が収縮し、頭が痺れ出す。
リビングに移動し、テレビの電源を入れると懐かしい曲が微かに耳に届いてきた。
嫁さんの睡眠を妨げない様、音量は限り無く絞られている。
巷に溢れる数多の流行曲を一気に過去の混沌へと押しやり、日本の音楽シーンを瞬時に席巻したその曲は、十数年たった今、消え入りそうな音量で聴いても尚、躍動感に溢れていた。
その歌に、女性アナウンサーの上ずった声が重なる。
「デビューシングルの売上枚数は200万枚を突破!」
「1stアルバム、累計売上枚数765万枚を超え、日本国内の歴代アルバムセールス1位を獲得!」
「2ndアルバムでは初週売上枚数が歴代1位となる300万枚を記録!」
「2007年には、当時のデジタル・シングルのセールスにおいて世界1位に輝く!」
「アルバム4作品がオリコン年間アルバムチャートで1位!」
「休業前までのCD総売上枚数は、なんと3620万枚!」
アナウンサーが、曲に合わせて畳み掛ける。
僕の意識は、まだ覚醒仕切っておらず、しかも起き掛けに吸った煙草の所為で、随所が眩んでいる。
そんな惚けた自我も、余りの“戦績”の凄まじさに圧倒され、すぐに明瞭なものとなった。
朝から資本主義の指標である数字だけに光りを当てて、人の耳目を惹き付けようとする情報番組の手法もどうかとは思う。
だが、それでもやはりこの天文学的数値が訴えかけてくるものは大きく、我々の様な小さな幸福感を抱きかかえる様にして生きている者達にとっては、愕然とする以外に対処法等ないと思い知らされる。
まだしつこくアナウンサーが、何事かを捲し立てている後方で、薄くあの懐かしい曲が鳴っていた。
数字は、ますます積み重ねられてゆき、この曲の唄い手が、人が憧れたり、妬んだり出来る重力圏には、存在していない事を実感させた。
微かな音量で鳴っていた“Automatic”が止み、“真夏の通り雨” が後を引き継ぐ。
──アナウンサーは、宇多田ヒカルの完全復活を告げていた。
先程とは打って変わって、深みのある曲調へと変化しているにも関わらず、アナウンサーは興奮している所為か、全くペースを合わせ様としない。
八年半振りにリリースされた宇多田ヒカルのアルバム、『Fantôme』は世界中のセールスランキングでも上位に食い込んでいるらしかった。
アナウンサーが大仰な嬌声を上げ、各国でのアルバムの売れ行きを盛んに紹介してゆく。
何だかうんざりして、テレビを消そうとすると甲高い声で「私もアルバムを今、聴いているんですが、斬新で重厚で…」と語り出した。
そこで限界を向かえ、テレビを消した。
あの女性アナウンサーの言動に嫌気がさしたわけではない。
誰がどう褒め称え様が、貶そうが宇多田ヒカルと言う巨大な存在を前にすると、その全てが安っぽく感じられてしまうのだ。
自分の言動が、聞き手に陳腐に伝わるとなると、なかなか迂闊に発言できなくなるのが人だと思う。
そう言った局面で数字と言うのは、とても便利なもので、“世界各国のランキングで上位を占めている”等と結果だけをアナウンスしてしまえば、言葉を紡ぐ努力をせずとも、人の行為の勝敗を簡単に伝える事ができてしまう。
僕は数日前に、この宇多田ヒカルの復活作を購入していた。
約二年振りに買ったCDは、社会生活を送る上で生じてくる様々な感情の粟立ちを、見事に何処かへと押しやった。
音楽に熱心に触れる事で、溢れる自我をコントロールしていた頃の様に、僕は熱を込めて『Fantôme』を聴き込んだ。
また宇多田ヒカル本人が『Fantôme』をどの様に語っているのかを知りたくなり、動画を見たり、記事を読んだりして、かなりの時間を、インターネットに広がる情報の海峡へと潜行してゆく事に費やした。
秋口頃から考えても仕方のない雑多な乱れた波に僕は晒されていて、何か早急に他の事へと没入し、この頭を悩ませている事柄から、意識を散らさなければならない必要性に迫られていた。
そんな時に、『Fantôme』を手にできた事はとても幸運だった。
己が作り出した乱気流によって、精神の両翼を揺さぶられかねない緊張した状態を、『Fantôme』に熱量を注ぐ事で脱せそうな所までは、何とか辿り着けたのだ。
全ては、宇多田ヒカルが復活し『Fantôme』をリリースし、自分がそれに反応した事で得られた結果である。
己の言動が安くなる等と恐れている場合ではない。
僕は等身大の自分で、宇多田ヒカルと言う巨大な存在の復活劇を書き残さねば…と言う身勝手な使命感に駆られたのだった。
大学を卒業し、僕が大阪に出てきた年に宇多田ヒカルはデビューを果たす。
身の回りの環境が、大きく変化した所為か、そのデビューが余りに鮮烈だったからなのか、はたまた二つの理由による相乗効果なのか、この国の音楽シーンにとっての転換期の事は、酷く印象に残っている。
僕達の世代にとっても、我が国にとっても、大きな衝撃を残しているのは、阪神大震災や地下鉄サリン事件が起こった1995年である。
二十世紀が、その象徴である激動を最後に炸裂させたのが1995年であった。
一つの時代が95年を境に、終着点を求めて加速してゆく。
国内の音楽シーンは、90年代に入ってから暫く、小室哲哉のものとなっていた。
小室哲哉がプロデュースした若者達の唄声は、急速に日本の隅々まで伝播してゆき95年、社会現象にまで昇華した。
そろそろ飽和状態なのは、誰の目にも明らかだったが、一つのシーンが変革を遂げてゆくのには膨大な時間を要する。
緩やかに変化を続け、新しい世代が台頭してくるのは、世紀を跨ぎ超えた後になる様だった。
二十世紀、音楽年表の最後の一行は“小室哲哉ブーム”と書き記され、閉じられる筈であった。
しかし98年、そんな緩やかな流れを拒否する様に、後の音楽シーンを牽引して行く事となる新しい波が突如、次々と押し寄せてくる。
その中でも一際、強大で速度を伴った波は、宇多田ヒカルと言う十五歳の帰国子女か起こしたものだった。
気がつくと、デビュー曲『Automatic』は街角のあらゆる場所から聴こえてくる様になり、仲間との会話の中にも、“宇多田ヒカル”や“Automatic“と言った単語が頻繁に登場してくる様になっていた。
この“Automatic”は後年、巷に溢れていた全ての曲を色褪せさせたとまで言われている。
“Automatic”を聴いた後、どんな曲が流れても、リスナーは「この曲はもう古い」と感じる様になってしまったと言うのだ。
この挿話には、多分に大袈裟な物が含まれている。
しかしそれをただの与太話では終わらせない、リアルな斬新さを“Automatic”は持ち得ていた。
ただ当時の僕は、“Automatic”に鋭く反応する事など到底できず、「えらい本格的な発音する娘が出てきたなぁ」くらいにしか思っていなかった。
都市に出て来て、時間も浅かった為、音楽について深く語れる仲間も機会も、僕はまだ手にしていなかったのだ。
まだ大学に通っていた、その頃の彼女は定期的に僕に会うためだけに、大阪まで出て来てくれていた。
その彼女は、大学で“Automatic”が流行していると会う度にしつこく言っていたし、口ずさんでもいた。
僕が巧く喰いつけなかっただけで、宇多田ヒカルは若者の心を的確に捉えていた様だ。
その後、すぐに発売されたセカンドシングル“Movin' on without you”で、やっと僕は宇多田ヒカルの音楽性に感応する事ができた。
“Movin' on without you“は歌詞だけに、目を向けてみると、十代の少女が綴っているだけあって、何処か青臭いものが漂っている。
だからこそ大人の介入が拒まれている事を証明しているし、青臭くてもそこはやはり宇多田ヒカルで、言語の切断面が鮮やかで、そのセンスは十分に発揮されている。
この詞が、リズムに乗り、透明感のある美声で歌われると、途端に青臭さが抜け落ち、一気に完成度が増す。
宇多田ヒカルは、その歌詞からも受け取れる様に、十代の未成熟な感受性、若者が共感できる部分をちゃんと持っている。
しかし作曲や歌う事に関しては、もう出来上がり過ぎていて、とても十代と言う稚拙な枠内に納まり切るものではなかった。
高速で流れる様な疾走感と、本能に訴えかけてくる躍動感は、斬新さとして世の中に、瞬く間に受け入れられていった。
ロック、パンク、ガレージ…等の周辺を彷徨き回っていた僕も、宇多田ヒカルには酷く惹きつけられ、それ以後はCDがリリースされると、軸に据えていた“ミッシェル“の聴き込みを一時、中断させて、暫くの期間は宇多田ヒカルの聴き込みに時間を充てる様になった。
そんなサイクルを僕は数年の間、続けた。
ただ今になって、振り返ってみると、それはスリリングな経験とは言えなかったと思う。
リリースされる度に購入した宇多田ヒカルのアルバムは、毎回、高い水準で安定していて、必ず聴き込んだ分だけの一種の見返りを僕に与えてくれた。
“traveling“の様に全てが、その時の自分が欲していたものとピタリと符号し、「完璧だ!」と思えるものもあれば、当然、そうでないものもあった。
ただどんな曲も、高々度を飛行していて、全く何も感じられないと言う事は皆無だった。
例えば、同時期くらいから今も読み続けている作家、中村文則氏の著作には、心の深部に強く刻まれるものもあれば、読後に「何がしたいんじゃい!」と怒りすら覚えてしまう程の、消化不良感を伴うものがあったりする。
それに比べると、常に高水準を軽々と突破してくる宇多田ヒカルの新作は、必ずリスナーの期待に応えてくれるだけに、聴き込んでいて、スリリングな感情は沸き難かった。
溢れる才能ゆえに、危機に陥る事のない絶対的な王者。
若くして才能を認められ、しかもそのセンスは世界を魅力する事が可能な程、桁違いであり、名声も富も既に手にしている。
この大衆の生活と大きく解離してしまっている状況の中で、果たして宇多田ヒカルはいつまで人々の心を打ち続ける事が、できるのだろうか。
音楽シーンでは、何年も陽の光を浴びられなかった歌い手が、何とか這い上がってきて、受難の季節を耐え抜いてきた強靭な精神力や、あらゆる物への飢えを飼い慣らした末に手にした説得力や、そして抜け落ちてしまった若さと引き換えに獲得した味等を、全て一曲にぶつけた結果、人々の魂に強く響く曲が生まれると言う事が稀にある。
リスナーは、そんな苦労人にこそ自分を重ね合わせ、より感情移入する。
そう言った一種の泥臭さみたいなものを、宇多田ヒカルは一切、感じさせない。
それは、それで他にはない利点ではあるのかもしれない。
宇多田ヒカルと同じく、歌に“1/fゆらぎ“なる物が現れるとされる美空ひばりの歌声には、過酷な時代を生き抜いてきたと言う自負と凄味が含まれている。
少女時代に戦争によって、心身を痛めつけられた人々の心を癒すためだけに歌ったと言う壮絶な体験が、御嬢の歌声には籠もっていて人の心の奥底を揺さぶる。
環境や才能に恵まれている様に、人には見えている宇多田ヒカルの歌声に、センス以外の何かが宿る時が果たして来るのだろうか。
いつしか僕は真新しさや独創性以外のものを、宇多田ヒカルの歌声に期待する様になっていた。
それは何も自分だけに限った事ではなく、デビューしてから数年を経た宇多田ヒカルに対するリスナーの視線はいつしか、徐々に厳しくなっていった。
大衆の勝手で気ままな要求は、世の常である。
しかし時の空気感を顕著化させず、そんな虚ろなもの等、霧散させる程の圧倒的な完成度と数字を、変わらずに宇多田ヒカルは啓示し続けた。
ただ自ら振り払ったものを良しとしない冷静さと、敏感さを持ち合わせているのが宇多田ヒカルと言う人であると思う。
奇しくも映画、“あしたのジョー”の主題歌である“Show Me Love (Not A Dream)“では、そんな心中が浮かび上がっている様な歌詞が散見される。
抑え込んだ其れは消えず
二兎を追う者、一兎も得ず
矛盾に疲れて 少し心が重くなる
逃げたら余計怖くなるだけって
分かってはいるつもり
自信の無さに甘えてちゃ見えぬ
不安だけが止まらない
私は弱い
だけどそれは別に恥ずかしいことじゃない
築き上げたセオリー忘れよう
山は登ったら降りるものよ
実際 夢ばかり見ていたと気付いた時
初めて自力で一歩踏み出す
宇多田ヒカルは、デビューしてからずっと率直であったと思う。
いや率直でしかなかったと言える。
そんな人が、綴った詞だ。
全てが全て、自分の心情を余す事なく吐露できるとは思えないが、生々しい苦悩の欠片みたいなものが、胸に迫ってくる。
若い頃より心酔してきた“あしたのジョー”の実写映画は何度、観ても、宇多田ヒカルの心情にばかり、心が向いてしまい、全く内容が入ってこなかった。
この曲を歌って暫くすると、宇多田ヒカルは永く、過酷な休業に入る事となった。