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あしたの鉄人

戦々恐々の日々

広島 1

 
 新幹線の窓越しに見える空の色が濃い。
 
 まだ午前中のためかそれ程、外気は熱を帯びていない様だった。
 
 僕が向かっている広島市内も、今日は涼しいのだろうか。
 
 あの日の広島は、湿度の高い蒸し暑い日だったらしい。
 
 七十一年前の八月六日、広島市内は僅か一キログラムのウラニウムが引き起こした核分裂によって消失した。
 
 僕が後方に飛散してゆく景色を目で追っている今頃、当時の広島市内では核爆発によって生じた衝撃波と爆風が、何もかもを破壊し尽くしていたのだ。
 
 この国で生を受けた以上、一度は真剣に向き合わねばならないのが原爆投下と言う、胸を抉られる様な史実だと思う。
 
 一度、ここらで確りと考えねば。
 
 そう腹を決めて、新幹線で広島に向かってはいるものの、幾度も気が重くなり、それを粉らわすために、持ってきた本に手を伸ばす。
 
 しかし手元にあったのは、中村文則氏の新刊で、これはまた違った意味で重かった。
 
 こんな気分になるのなら、オードリー若林氏の“社会人大学人見知り学部”を持ってくるべきだった。
 
 若林氏の不器用ながらも、決して格好つけたり、背伸びしたりしない、あの等身大でぶつかってくる潔い文章が今、無性に読みたかった。
 
 何かしらで気を散らしたい気分だったが、ここまで来て何を避けているんだろうと思い直す。
 
 すぐにケータイを弄り、数ヵ月前に広島を訪問したオバマ米大統領の演説に目を通してみる事にした。
 
 何度かそれを読んでみたが、世界で最も影響力のある人物が、公の場で本音を語るわけもないし、自分の言葉を紡ぐ筈もない。
 
 そこから何かしらを、感じ取ると言うのはなかなか難しかった。
 
 かと言ってその裏に隠された物を、読み取れる程の知識も度量も僕は持ち合わせていない。
 
 ただ一つだけ思ったのは、戦争相手が最早、国家ですらなくなったアメリカ合衆国は、もうこれ以上、たった一人の人間をも、敵に回すわけにはいかなくなっていると言う事だけだ。
 
 数年前の僕なら、この演説に対して「何を他人事みたいに言うとんねん!」と無駄に血を沸騰させていたに違いなかった。
 
 長年、僕にとってのアメリカ人と言うのは、日本を手玉にとったルーズベルトであり、WBCの時に、西岡のタッチアップが早いと難癖をつけてまでアウトにしたあの醜い審判だった。
 
 奴等は国益や利害のためなら、どんな手でも使ってくる。
 
 己の価値観を絶対的正義だと決めつけ、潤沢な国力と圧力によって、他国にも自分達のナショナリズムを強引に押し付ける。
 
 それが全米国人の国民性だと本気で思っていた。
 
 今時、この国では少数しかいないであろう完全なる反米主義。
 
 アメリカに対し、そんな偏ったスタンスを僕はずっととり続けてきた。
 
 しかしそんな僕の強固な偏見が、解ける日がやってきた。
 
 就職して半年ほど経った頃、僕は数人のアメリカ人と一緒に仕事をする事になったのだ。
 
 しかも数日で終わる様な仕事ではなく、数ヵ月間、同じチームで協力して仕事を進めていかなくてはならない。
 
 国籍で人を判断し、ろくに話した事もない癖に敵愾心を抱く。
 
 冷静に考えてみると、僕は僕でやはり視野の狭い、何もわかっていない奴だった。
 
 何十年も、そんな偏った思想を抱いていたのにアメリカ人と一緒に働き始めて一ヶ月も経たない内に僕は彼らと打ち解けていた。
 
 それは彼らが、協調性に溢れたとてもいいヤツだったからだ。
 
 僕の英語力は惨憺たるものだったが、若い通訳の子が常についてくれていたし、同僚にハーフの子もいて、その子が間に入ってくれたお陰で何の問題もなくコミュニケーションをとる事ができた。
 
 打ち解けてくると僕が適当に話しても、彼らは僕の言ってる事を理解してくれたし、逆に僕も通訳を挟まなくても、彼らの言っている事が何となくわかる様になった。
 
 一緒に汗水流して、同じ仕事をすると言うのは人と人との距離を急激に縮める。
 
 最も、彼らは僕なんかよりよっぽどテキパキと仕事をこなしていたし、とても熱心に働いていた。
 
 ある朝、親しくなった二人のアメリカ人がニヤニヤしながら僕に近寄ってきた。
 
 「何?」と僕が言うと「ユーは有名なコメディアンだったらしいな」と言って二人は爆笑した。
 
 会社の誰かが、僕の職歴を二人に話したらしい。
 
 “ジャパニーズフェイマスコメディアン”と言う単語が聞き取れたので、すぐに意味は理解できた。
 
「ノー!フェイマス!!」
 
 と僕が全力で否定すると彼らは、またオーバーに笑い出した。
 
 “おちょくってんのか!”と腹も立ちそうなものなのだが、彼らの陽気さと底抜けの明るさには、そんな小っぽけな感情を霧散させるパワーがあった。
 
 一緒に飲みに行った時は、テキーラで喉から胃袋を焼かれて悶え苦しむ僕を尻目に、彼らはお店のお姉さんに声を掛けていた。
 
 会社関係の宴会で何とか盛り上げねばと僕が空回りした時には、誰かが仕込んだのか彼らが「スベッテルヨ!」と声を張り上てくれた。
 
 すると場は爆笑に包まれ、一気に空気が変わる。
 
 これは何度、どこで試みても鉄板で味をしめた僕達は事ある毎に、この絡みを投下した。
 
 彼らは、よっぽどこの絡みが気に入ったのか、最後の方は僕が何か言う度に「スベッテルヨ!」と連呼する様になった。
 
 多少、面倒くさくも感じたが、凄く楽しくもあった。
  
 仕事中に彼らの姿を見ていると、僕の祖父の世代は「本当にこの人達と憎しみあったのだろうか?」と言う不思議な思いが沸く事があった。
 
 もっと言うとガダルカナルペリリュー島、硫黄島で双方、甚大な死者を出す凄惨な殺し合いをしたのかと。
 
 そして本当に彼らの母国は、軍事施設でもない市街地に原子爆弾を投下すると言う、許される事のない愚行を犯したのだろうか。
 
 もちろんそれらは全て事実だ。
 
 しかしそんな真実を曖昧にしてしまう程、生身で触れ合った彼らは当然ながら一人の人間だった。
 
 僕は、そんな当たり前の事にすら気づけない狭い世界で生きてきた。
 
 しかも七十年前ではなく、この国や地域の距離が緩く密接になった現代でだ。
 
 お笑い芸人と言う職業を、あきらめて暫くは僕は自分が思っていた以上の喪失感を味わう事となった。
 
 その思念は強烈で、無意識の内に僕の何かを蝕んでゆき、以前より無気力になったり、ガッツが失われた様な気がした事があった。
 
 しかし就職して、なかなかできない様な経験を積ませてもらったお陰で偏見は払拭され、いつの間にか喪失感も振り払われていた。
 
 あと三十分程で新幹線は、広島に着く。
 
 僕は、喫煙室で煙草を吸いながらLAに帰った彼らの事を思い出していた。