あしたの鉄人

戦々恐々の日々

寄席


 久し振りに訪れたミナミの街は、相変わらず混沌としていた。

 細い路地の到る所で人が密集し、熱気を孕んだ空気が立ち上る。

 僕は十年以上、この街で暮らしていた。

 過去の残像が色濃く残るこの街は、やはり僕の気分を高揚させた。

 ミナミでの所用を終えて、僕はかつて月に何度も通っていたある建物に向かった。

 僕が、この街に住んでいた時の後輩が「ライブをやるから見に来ませんか?」と誘ってくれたのだ。

 ちょうどミナミに行く用事もあったので、僕はそのお笑いライブを見に行かせてもらう事にした。

 受付でネタ順が書かれた紙を貰い目を通す。

 ちらほら知っている名前もあったが、殆どが知らない若い人達だった。

 敗者は確実に淘汰されてゆき、変わりは毎年、幾らでも入ってくる。

 やっぱりシビアな世界だなと思う。

 来るべき大舞台に備えて、ネタを試したり、研いだりするための舞台。

 これが今日のお笑いライブの主題だった。

 出囃子が鳴り、芸人さんが出て来てネタを披露する。

 その繰返しが淡々と行われてゆく。

 それが潔くて心地好かった。

 ライブへの過剰な思い入れや、裏側の仲間意識等はこうやって見る側に回ってみると何の関係も必要性もなかったりするもんだなと思ったりした。

 ネタを見ている内に「凄い発想するなぁ」と素直に思ったコンビが何組かいた。

 こう言う事は努力して百人が百人できる事ではない。

 できる人の方が少ないだろう。

 でもそれがどうやったら金銭に結びつくのか、ぼんやり考えたりしたが、やはりわかろう筈もなかった。

 特殊な技能を有していながら、それが金銭に結びつかないとしたら…。

 そんな事を考えたりする僕が俗物なのだろうか。
 
 今日、僕を誘ってくれた後輩の出番が来た。

 彼のネタを見るのは、いつ以来だろうか。

 やはり彼の発想は目を見張る物がある。

 なかなか希有な事を考えるなと素直に思った。

 端から見ていると彼は迷っている様にも見えるかもしれない。

 不意に懸命に自身がやって来た事を中断し、他の分野に手を出したかと思えば、しばらくしてまた元居た場所に戻ったりする。

 僕が彼と深く付き合う様になってからも、そう言う変化が幾度かあった。

 しかし彼の行動や表現は変化しても、彼が面白いと思っている事は少しもぶれていない。

 彼が突如、お笑いと言う表現手段を放棄し、小説を書き始めた時期があった。

 “どうしたのか?”と回りもざわついていたし、正直に言うと僕も彼のその決断に疑問を持った。

 その時に彼が書いた小説に大体、目を通したのだが、その小説は彼のネタ、そのものだった。

 文字で読むと大抵の場合、面白味が失われるものだが、彼の小説は荒かったが十分に面白かったし、その希有な発想は存分に発揮されていた。

 表面的な物は、多少、揺れる事はあるのかもしれないが、彼の魂や根元はいつ見ても変わっていない。

 そんなに根がぶれない男が迷走したりするもんだろうか。

 薄暗い客席で、ぼんやりそんな事ばかり考えていると不意にある事に気付いて、はっとした。

 もしかしたら彼は、見切りが早いだけなんじゃないだろうか。

 興味がある事や、自分がやりたいと思った事には手を出す。

 しかしそこに自分が目指す物や未来がないと見るや、少しの未練もなく、ぱっと方向転換する。

 その見切りの早さは、一見すると思いつきだけで行動している様に見えるのかもしれない。

 ただ見切りの早さは武器だったりもするのだ。

 なかなか見切る事ができずに、ずるずると時間や労力を投入し、結局、何も手に入れる事ができないと言うのは始末が悪い。

 彼の様に見切りが早ければ、いつか何かを掴む瞬間がくるのかもしれない。

 そのライブがあった次の日、他の後輩達と共に彼も僕の部屋に来た。

 みんなで餃子を食べながら他愛もない話をした。

 僕も彼らも、まだまだ何かの途上である。

 彼らが何処かへ辿り着こうとしている様に僕にも辿り着きたい所があるのだ。

 またこうしてみんなで会って他愛もない話ができればいいなと思う。





 

 
 





 

 

 

 

 



 

 

いつか


 切れ間なく薄い雲が、空を覆っている。

 その下で波が揉み合い、飛沫を上げていた。

 そんな曇天の中を、巨大な船が進んでゆく。

 遠ざかって行く船には、僕の友人が乗っていた。

 大学時代から、旅に出る事にこだわって来た彼はこの日、ユーラシア大陸への長い旅に出て行った。

 当時、僕は養成所を出たばかりで、劇場に所属するための公開オーディションを受けていた。

 そのオーディションは、月に一度しかない。

 後の日々は、ひたすらアルバイトに明け暮れる。

 自分が何をしに大阪に出てきたのか、見失いそうになる日々を僕は送っていた。

 そんな自分に比べ、あらゆる障壁を超えて大海原に旅立って行く彼は、恐ろしく格好良く思えた。


 あれからもう十年以上の時間が流れた。

 彼とは二十代後半まで、ぽつりぽつりと連絡を取ったり、会ったりしていたが三十代に入ってからは、それも途絶えた。

 “ある時期、ある目的のために、共に力を尽くして生き切ったあとで、まだダラダラと結びついていると言うのは気持ちが悪かった”

 これは沢木耕太郎の“リア”と言う短編の中にある一文である。

 この感覚は僕の中にも強くあり、人に冷たく映ろうがどう捉えられようが、過ぎ去った時間を共有した人達と、まだ惰性で関わっていたいとは余り思えなかったりする。
  
 彼もそう思っている筈だ。

 それに自分の守るべく家族や仕事を持ちながら、そこに時間を割く事はなかなか難しい。

 たまに飲みに行ったり、いつかまた結びつけたらその時はまた共に時間を過ごせばいい。

 そう思っているうちに、彼と会わなくなってもう十年近くが経っていた。

 今年の春、彼が奈良に引っ越してきた。

 いつかまた…と思っていたそのいつかが不意にやってきたのだ。

 それから僕達は何度か大阪で飲みに出掛けた。

 会わなくなった時間の途中で僕も彼も結婚し、あの頃に限りなくあった自由は失われていた。

 若い頃は自分が信ずる物にだけ、自分の人生を使い切ってしまえばいいと本気で思っていた。

 彼とは昔、よくそう言う話もした。

 しかしここまで生きてきて今、僕はそう思っていない。

 自分の家族を守り、慎ましく生きてゆければそれで十分だと思っている。

 人には、自分の身の丈にあった生き方と言う物がある。

 彼とまた会う事になった。

 彼の家族を紹介してくれると言う。

 僕の嫁さんも彼に紹介したかったのだが、あいにく嫁さんは仕事で、それは次の機会に見送りとなった。

 待ち合わせの時間に天満橋に行くと彼と奥さんと一歳半になる息子さんが、僕を待ってくれていた。

 大学を出て二十年近くが経ち、彼がここに辿り着いたのかと思うと何か感慨深い物があった。

 彼の奥さんの笑顔は慈愛と母性に満ち溢れていて、彼が手にした物が何物にも変えがたいと言う事が伝わってくる。

 彼の息子さんを僕が抱くと不機嫌に手足をばたつかせた。

「ごめん。じっとしてられないんだ」

 目を細めながら彼が言う。

 一所に留まる事を良しとせず、旅に出続けた彼がそう言った事が何か可笑しかった。

 この子もいつか曇天の中、ユーラシア大陸に旅立っていったりするのだろうか。

 今度は彼に僕の家族を紹介したいなと思った。








 
 



 



 

往来


 ここ数週間、頻繁に人に会っている。

 目前に迫った夏の気配に少し浮き足だっている所為かもしれない。

 それは必ずしも僕だけに限った事ではなく、「会わないか?」と誘ってくれる人達がこの時期に重なると言うのは、人の気分を高揚させる何かがこの時期にはあるのかもしれない。

 とにかく僕は、梅雨時期の湿った空気の中で様々な人達と会っている。

 昔、深く関わった人達や今、同じ時間を共有している人達まで様々な人達と色んな場所で会い他愛もない話をする。

 突発的に気持ちの準備がなく行った酒席で、思いがけず心が揺り動かされる様な事があったりした。

 何とも贅沢な時間を過ごしているなと言う実感がある。

 昨夜も近くにある居酒屋で友人と会った。

 すっかり懐の寂しくなった僕に変わり、その友人が酒代を出してくれた。

 数年前、長く続いたある時期を終え、僕は職業訓練学校に通った。

 その時の友人で、彼とは家が近所と言う事もあり今でも頻繁に会う仲だ。

 職業訓練学校時代の友人達には何か特別な思いがあったりする。

 同じ会社にも何人かこの時の友人達がいるのだが、部署も違うし敷地も広大なので中々、顔を合わせる事はない。

 たまに仕事中、敷地内ですれ違ったりする時はお互い何故か半笑いで目だけを合わせたりする。

 「今日も残業か?お互い頑張ろうや」

 口に出さずとも、そんなニュアンスが伝わってくる。

 昨夜は久しぶりに友人と差しで飲んだ。

 お互いの仕事の話や、訓練学校時代の知人の話、家族の話、桑田と清原の話等を経て何故か話題は、太宰治の悪口になった。

「太宰は生き方がダサいわ!坂井三郎や小野田さんと同じ時代を生きたと思われへん!」

 と僕が酔った勢いで宣うと友人が笑いながら聞いてくれた。

 僕は酔うと必ず文学の話をし、どの友人達もそんな面倒くさい話に巧く付き合ってくれる。

 僕達は、店を出てぷらぷらと歩き拘置所の近くの橋で別れた。

 また夏に飲もうと約束した。



 
 
 


 

 

 

 

 

 

小雨の中 2


 初めて梅田にある病院に行く日、僕は平常心を保てていなかったと思う。

 人で溢れ返る地下街を抜けて、地上に出ると小雨が降っていた。

 傘を持っていなかったため、細く冷たい雨に僕は全身を晒す事となった。

 自分に障害があるのではないかと言う不安と、もし障害がないのだとしたら仕事中に不可解にミスを犯す原因がもう見当たらなくなってしまうと言う不安。

 そんな相反する二つの不安に僕は苛まれていた。

 どちらにせよ、一刻も早く明確な答えが欲しかった。

 雑居ビルの六階にそのクリニックはある。

 木製の洋式椅子が並ぶ小洒落た待合室は、リラックスを強要されている様で全く落ち着かなかった。

 何故、心身ともに健康な自分がこんな所にいるんだろう。

 会社の健康診断で出る数値は、ずっと正常を示している。

 そしてメンタル面での図太さが、僕の売りではなかったか。

 それは単なる幻想で、ずっと以前から僕の何かしらの回路が破損していたと言う事なのだろうか。

 待合室で受付の女性に、様々な質問が書かれた紙を渡された。

 相場は、この受付の女性が美しかったり、色気が凄かったりするもんじゃなかろうか。

 それ目当てでクリニックに通ったりするから人生とは釣り合いが取れると言うものだろう。

 僕に紙を渡してきた女性は、いかにも大阪のおばちゃんと言う風体で、これから自分にとっていかつい展開が待っていそうだと言うのに一時、気を紛らわす事さえ叶わなかった。

 僕は、その紙を熟考し丁寧に書いた。

 暫くして診療室に呼ばれた。

 かなり広めの診療室には、ゆったりとした椅子があり、そこに僕と同年代くらいの医師が座っていた。

 その医師に今までの自分の経歴やら、職歴やらをこと細かに聞かれ、様々な事を質問された。

 始めは僕も緊張しつつ丁寧にその質問に答えていた。

 しかしあまりに長時間、執拗に様々な事柄について聞いてくるので、途中から仕事終わりで疲れていたのもあって頭が惚けてきた。

 何時間経ったのかは、よくわからなかったが
最後に医師は、僕がある障害を抱えていると言った。

「え… マジっすか?どの辺でそうなんすか?」

「私は質問する時に声をひそめたり、はっきり話したり、ペースを変えたりしていたんです。気づいてましたか?」

「いや、全く…」

「そうでしょう。全然、それに対応できていませんでした。よく話しが飛ぶとか、人の話を聞いていないとか言われませんか?」

 確かに僕は話す殆どの人達に、よく「話し飛ぶなぁ」と言われていた。

 しかもそれに全く自覚がなく、そう言われて初めて“話し飛んだのか”と気が付く始末だ。

 そしてもう一つの「人の話を聞いていない」と言うのが問題で、僕はその所為であらゆる人とトラブルになったり信頼を失ったりしてきた。

 若い時には、それが原因で彼女から別れ話を切り出された事もあった。

 そんな事が頻繁に起こり、平気で何の改善も試みない人等、いるのだろうか。

 当然、僕は会話中、意識的に聞こう聞こうと何度も意識したり、阿川佐知子の「聞く力」や吉田豪の「聞き出す力」を何度か読んだりもした。

 しかし何をしても効果はなかった。

 始めは話を聞けているのだが、何処かで必ず他に意識が飛んでしまう。

 気がつくと相手の話が終わっている。

 しかも何処に意識が飛んだのかも思い出せなかったりするのだ。

 これはシリアスな場面では致命的で「おい!聞いてんのか!お前!」となってしまう。

 それは当然の事だと思う。

 医師は、「それはこの障害の典型的な症状です。あなたに話を聞けと言うのは、目が不自由な方に見ろと言う事と同じですよ。努力でどうにかできる物ではありません」と言葉を選びながら言った。

 これから人と話しをする度に、その話しを遮って「僕、障害ありますねん。人の話しが聞けなかったりしますねん」とでも言わねばならないのだろうか。

 その場にどんな空気が流れ込むのかなんて考えたくもないし、そんな面倒くさい奴と誰が話しをしたいと思うのか。

 それに今まで起こってきたトラブルに誰にも非がなかったとなると一体、僕は何のために信頼を失ってきたのか。
 
 暗い気持ちに支配され黙っていると、その沈黙に耐えかねたのか医師が話し掛けてきた。

「この年齢になるまで障害を治療もせず、何の援助も受けられていないんですよね?それで大学も出て、芸能関係のお仕事を長年やられて、今もちゃんとお仕事をしていらっしゃる。それに結婚もしておられる。ハンデがあってなかなかできるもんじゃないですよ」

 そんなもんだろうか。

 大体、僕には今まで自分がハンディキャップマッチを戦っている自覚が全くなかったのだ。

 ただ漠然と何かがおかしいとは、ずっと思ってはいた。

 それにしても、医師の口から“ハンデがある”と実際に言われるとなかなか堪える物がある。

 今まで散々、“天然”とか“おかしい”とか言われ続けてきたが、自分はその範疇ではなく、“ほんまもん”だったのだと思うと何かやり切れない気持ちになった。

「先生、乗り越えられるんでしょうか…?」

 心が乱れているせいか全く意味のない質問が口をつく。

 乗り越えられるかどうかなんて人に聞くものではないし、そう聞かれて「無理です」と言う医師なんているわけがない。

 劣勢を跳ね返せるのは、当人の強い意思だけだ。

 そんな事は痛い程、わかっている筈だが聞かずにはいられなかった。

 しかしこんな面倒くさい質問に対しての医師の応答が秀逸だった。

「何を言ってるんですか?乗り越えるも何もあなたはもう乗り越えてるじゃないですか。会社だって解雇されるわけじゃないでしょう。障害があるからってあなたの奥さんは離婚する様な人なんですか?」

 確かにミスは普通の人よりは多いかもしれない。

 しかし何とか利益を出せているから、僕は会社から淘汰されずに済んでいる。

 ただこの先、会社での自分のポジションが変化するにつれて、それに対応して利益を生み出せるのかどうかには不安があった。

 そして医師が言う様にうちの嫁さんは、僕に障害があると知っても、動揺する様なタマではない。

 ただ新婚早々、旦那に障害があると発覚するのは、きついだろうなとは思う。

 障害が発覚した直後である。なかなか前向きな思考を構築する事は難しかった。

 今まで朦朧としていた物の輪郭がはっきりとし、実体を表したのだ。

 今までにない好機が訪れているわけで、ここで今後の対処を医師と相談しなければならないと頭では思うのだが、ハートがそれについてゆかない。

 とりあえず自分の脳髄が何故、機能していないのかその辺から知ろうと医師に尋ねてみた。

ドーパミンの量が、健常者の人に比べて六割くらいしか出ていません。そのせいで前頭葉が巧く機能していないんです」

 六割と言う数字が更に僕を暗澹たる気分にさせた。

「ただ心配する事ばかりではないのです。障害と言うのは、一つあるとそれをカバーしようと他の機能が発達します。あなたの場合もそうで、ある部分では健常者の方より劣っています。しかし違う部分では健常者の方より優れている部分もあるのです」

 マイナスばかりではなく、プラスの部分もあると言う事なんだろうか。

 医師のその言葉に僕の闘志が微かに反応した。ここに攻略の糸口があるのかもしれない。

「それ詳しく聞かせて下さい」

「健常者の方の様々な能力を五段階に分けるとします。個人差はあるでしょうが大体、三付近に均等に能力値が振り分けられるのです。あなたの場合は能力値が一の所もあれば、五の所もあるのです。脳の発達に偏りがあるだけなんです」

 野球に例えると普通の人はどんな投手が来ても大体、三割前後はヒットにする事ができる。

 しかし僕の場合は投手によって、三振かホームランかのどちらかしか結果が出ないと言う事だろうか?

 監督の立場なら三振かホームランかと言う人物よりも、手堅くどんな時も三割ちゃんと結果を残せる人物の方が安心して使える。

 だけど三振しかしないヤツよりは、たまにホームランを打てるヤツの方がよっぽどましではある。

 大体、僕は人生諦めたり辛いとか言ってる様なヤツは好きになれない。

 楽天的だとか何も考えてないとか言われ様が今よりも浮上しようと、足掻かなければ意味がないと思っている。

 すぐに医師に、この障害のマイナス面とプラス面を聞いた。途中、話しが聞けなくなるといけないので医師に頼んでそれを箇条書きにしてもらった。

 マイナス面
⚪集中力の欠落による、作業中のミスの増加。指示がうまく理解できない所がある。

⚪空間把握能力が乏しく、末端運動が巧く行えない、不器用。

⚪ワーキングメモリーの不調による頭の中の混乱。覚えておかなければならない事を忘れてしまったり、重要ではない事を覚えていてしまう。情報の整理ができない。

 他にもたくさんあるのだが、仕事に支障が出ているのは主にこの三つだと思われる。

 特に頭の中の混乱は酷く、仕事中に幾つかの仕事を振られると発狂しそうになる程、意識がうまく統一できなくなる。

 僕は以前、お笑いのライブをまとめなければならない立場にいたのだが、ライブ前にはしなければならない準備が多く、よくこの状況に陥っていた。

 プラス面
⚪いざと言う時の行動力、迷わず決断する力

⚪豊かな創造力と独創性

⚪人間関係に執着せず根にもたない

 医師が書き連ねてくれた、ずらりと並んだ箇条書きを見ているといかに自分の人生が、良かれ悪かれこの障害によって左右されて来たのかが理解できた。

 確かに仕事で支障が出ている部分はあるが、人間関係や行動力の部分で救われている部分も多いにあるのだ。

 医師が言った「この障害の特性を生かして成功している人も多くいます」と言う言葉にも頷けた。

 僕が恵まれていたのは、やはり障害を見抜いて通院まで進めてくれた人に巡り会えた事だ。

 このまま自分の障害に気付かず放置されてゆくとなると、かなり厳しい状況に自分は追い詰められていた事だろう。

 普通、仕事でミスを重ねるとなると駄目なヤツだと解雇されるか、他の部署に飛ばされて終わりだと思う。

 なかなかその原因まで掘り下げて考えてくれる人なんていない。

 感謝はしても仕切れないし、やっぱり凄い人と言うのはいるものである。

 障害と言うのは、病気とは違って治る事はない。

 これから僕は投薬と対処療法で、この障害と対峙してゆかねばならない。

 莫大な借金を抱えた人が開き直って、それを笑い話に変えたり、生死の境をさ迷った人の価値観が大きく変わる事が世の中にはある。

 三十代後半から初めて社会に出て、しかも障害まで発覚したとなるとこれはなかなか今の僕では手に負えない物がある。

 だからこそ僕は何とかこれを乗り越えて、大きく殻を破りたいとも思うのだ。

 最後に医師が僕の書いた症状等を説明した紙を見て「あなたは文章を書いた方がいい。聞く事で十分に得られない情報をあなたは読む事で補完してきたと思われます」と言った。

 確かに本は集中力が切れてきたら閉じてしまえばいいし、気が向いたらまた続きから読めば良い。

 肌身離さず、自分が何かの文庫本を持ち歩いている意味がわかった様な気がした。

 少しして僕はブログを書こうと思った。

 ある人が昔、僕につけてくれた“鉄人”と言うあだ名をタイトルに入れた。

 その人も様々な病気と戦っている人だ。

 クリニックを出ると、もう雨は止んでいた。

 濡れたアスファルトから懐かしい匂いが立ち込めていた。











 

 






 

  






 
 

 





 

小雨の中 1


 通院の日は、今月も雨が降っていた。

 診断が終わり、来月からの投薬量を決めると毎月、主治医と他愛もない話をする。

「お休みとれないんやったら、奥さんに区役所に行ってもらえばいいじゃないですか」

 主治医が言う通り、早急に区役所に書類を提出する必要があった。

 この書類を提出すれば、ばかにならない毎月かかる薬代の一部を、行政が負担してくれると言う。

 “とうとう、俺もお国の世話になる様になってもうたか。焼きが回ったな”

 と情けない気持ちが浮かぶ。

「そんなん嫁が、行ってくれると思います?嫌やぁ言われて終わりですよ」

 僕がそう返すと先生が笑った。

 紫煙を吐き出しながら、顔をしかめる嫁さんの姿が一瞬、浮かんだ。


 この年になるまで自分が、障害を抱えているとは思ってもいなかった。

 若い頃に抱いた夢を放棄し、三十代後半で僕は社会に出た。

 若くなく、今までアルバイトくらいしかした事がない人間が、すんなりと適応できる程、社会は甘くない。

 そんな人間が簡単に社会で活躍し、自分なりの幸せを容易く手に入れられたら、若い頃から社会で揉まれ続けた人達はどうなるのか。

 仕事は、なかなかうまくこなせない。

 サラリーマンとしての生活ペースにも、馴染む事ができない。

 そんな僕を拾ってくれた会社には、恩を感じるし、半年経った時点で適正なしと判断された時も色んな人が関わってくれて何とか僕は会社に残る事ができた。

 当然、会社の足を引っ張ているのだから僕は周囲から何度も叱責された。

 四十手前まで好き放題、生きてきたのは自分である。

 そんな物は自業自得であり、急に真っ当な生活をしようと舵を切ったのだから、全てを受け入れて何としてでも会社の役に立てる様になるしかない。

 しかしそうは思っていても、やはり日々続くこの戦いに音を上げて、僕は何度か仕事中に涙を流した。

 四十手前のオッサンが職場で泣き出すのである。

 回りの人は本当に大変だったと思うし、そう思えば思う程、情けなさと悔しさで涙は止まらない。

 しかし人目を気にしていられる余裕何て物は自分にはなかった。

 泣こうが喚こうが前に進んでゆくしかないのだ。

 若いうちから好きな事だけをし、回りにいかにちやほやしてもらっていたか、その時に初めて気がついた。

 しかしそんな僕でも、職場から孤立する事だけはなかった。

 週末になると上司や先輩や若い子達が、僕を飲みに誘ってくれたし、仕事中も必ず誰かがフォローしてくれた。

 仕事ができずに塞ぎ込み、周囲と溶け込めずに辞めて行く人を何人も僕は見た。

 だから暗く沈んでゆく事だけはしてはならない、気持ちだけは折れてはならないと自分に毎日、言い聞かせていた。

 そんな僕を周囲の人達は、懐深く受け入れてくれた。

 いつも出会う人には、自分は恵まれ過ぎている。

 ただ僕も、漫然と虚ろな夢を追っていたわけではないのだ。

 若い頃から楽屋で先輩達には、自分から切り込んでいかなあかんと叩き込まれていたし、積極的に何処でも前に出ないと何も掴み取る事等できないと知ってもいた。

 その根底に根付いた精神は社会でも、十分に自分の武器になり得ると途中から気付いた。

 相変わらず、なかなか仕事で成果を上げる事は出来なかったが僕は喰らいつき続けた。

「あいつは根性だけはある」とそこだけは一定の評価をしてもらう事もできた。

 必死であがいていると時間は、まさに飛ぶ様に過ぎてゆく。

 気がつくと入社してから二年が経っていた。

 その間に僕は念願だった結婚もした。

 時が経っても、仕事でのミスは減らない。

 様々な事を自分なりに試してみたが、一向に改善されない。

 周囲からの目は、日に日に厳しくなってゆく。

 当たり前である。

 この仕事で金銭を得ている以上、結果が全てなのだ。

 何を試そうが工夫しようが、結果に変化がなければそれは、何も改善していないのと同じと見なされる。

 お笑いの賞レースもネタ合わせを幾らしようが、客席からの笑い声やネタに光るセンスが伴わなければ上にゆく事等、できない。

 正直、もう八方塞がりで、どうこの局面を乗り越えようかその手立てが全く見えなくなっていた。

 そんな時に僕は、親会社の上司に呼び出された。

 “あぁ、もう戦力外通告を下されても何も言えないな”と僕はびくびくしていた。

「何か異常があるのかもしれない。一回、ちゃんと見てもらえや」

 鋭い目で上司は僕にそう言った。

 僕はそんな風に自分は見られていたのかと一層、情けなくなり、あろう事かその上司からの助言を笑って誤魔化した。

 人としてどうかしている。

 人の機能に異常があるかもしれないなんて軽々しく口にできる事ではない。

 ある程度の確信と、後に起こるであろう波を受け止める覚悟がないと、なかなかそんな事は口にできないだろう。

 そんな事には何も考えを巡らせず、自分が受けるダメージを少しでも和らげようと笑って誤魔化す。

 そんなヤツは社会に適応できるかとか言う以前に、根底がもう腐り果てている。

「だからお前は真剣じゃない。もう結婚もしたんやろ…もういい…」

 上司は、こいつに言っても、徒労でしかないと感じたのかそこで言葉を濁した。
 
 さすがにこれは堪えた。

 親身になってくれる人からの助言を受け止めずに、自分が傷つかないためだけにかわす。

 いつも優先事項は保身や自衛であり、関わってくれてる人達の思いや労力に報い様としない。

 そんなヤツの何処に根性や精神力があると言うのか。

 何とかすんでの所で、自分を省みた僕は上司の言葉を回避せずに正面から受け止め様とした。

 自分に異常がある…?

 そんな事は考えもしなかった。

 確かに昔から何をやっても器用にこなせなかったし、人より時間をかけないと何でも一定の水準まで持っていく事ができない。

 ただそれは、自分が要領が良くないからだとずっと僕は思っていた。

 そして一番、自分でも説明がつかないのが仕事や家庭での不注意の原因である。

 はっと気がつくと仕事でミスを犯していたり、家では嫁さんから咎められて初めて自分が何かをしでかしたらしい事に気づく。

 その間の記憶が、ごっそりと抜けていて幾ら考えようともその原因がよくわからないのだ。

 そこには、自分が思いもかけない原因があるのだろうか。

 もしかしたら自分でコントロールできる範疇の外に、その答えがあるとしたら…。

 しかしもし自分が何かの障害を抱えていたとしても、それがこの年齢になるまで発覚しないなんて言う事が、果たしてあるのだろうか。

 家に帰り早速、パソコンで自分の症状について調べてみた。

 直ぐにある障害にぶち当たり、チェックシートが着いていたので、それをやってみる。

 幾つかの質問に答えて、キーを押すと結果が画面に表示された。

 “早急に医師の診断を受けて下さい”と警告文が出ていた。

 それでも半信半疑だった僕は、その障害について特集している動画を見てみた。

 それを見ている途中にはっとし、全身に鳥肌が立ってゆくのがわかった。

 動画では、ある障害を持った方がインタビューに答えている。

 その内容が、僕が今まで周囲の人達に漏らしていた事と類似していたのだ。

「集中力の照準が合わない…」

 僕が、それを話した人達はみんな不可解な顔をしていた。

 いつもそう言うリアクションが返ってくるので、僕はそれを余り言わない様になった。
 
「ヤバい事になってもうたな…」

 それから僕は、この障害を受診できる病院を探した。

 市内にも数件しかなかった。

 その全てに連絡を入れて、一番早くに診てもらえる所に予約を入れた。

 それでも予約がとれたのは、一ヶ月半後だった。

 今直ぐにでも診察してもらいたい僕は、悶々と日々を送る事となった。


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昇りくる太陽


 暑くなった所為か、仕事終わりの電車の中で僕は酷く疲れていた。

 もう何も考えられないくらい疲弊し、自分の中の、何かが確実に磨り減ってゆく。

 あと一駅で最寄りの駅だ。

 一刻も早く家に帰りたいと思う反面、こうやって呆けながら、電車にもう少し揺られているのも悪くないと思った。

 何気なく携帯電話で昔の仲間のブログ等をチェックする。

 小さな液晶画面に、ライブ情報が溢れ返る。

 相変わらず皆、戦っていた。

 当然、自分だけがもがいているわけ等なく、いや僕以上に皆、命を燃やし、

 自分が置かれた状況や事情やら感情やら、人が生きてゆく上で抱えているあれやこれやを引きずりながら、皆あがいている。
 
 それは何か心強い物があった。

 あるライブの告知に目が止まる。

 それは自分が一時期、深く関わったライブのスピンオフ企画の告知だった。

 微かに携帯を持つ手が震え出す。

 何気なく見ていた画面から、不意に自分にとって強烈なメッセージが放たれたのだ。

 心の準備等、していよう筈もなく幾つもの感情が溢れ出す。 

 “ああぁぁあぁぁぁ…”

 気がつくと回りの客が、驚いて振り返るくらいの唸り声が自分から発せられていた。

 同じ職場の人が車内にいたらどうしようと一瞬、思ったがすぐに

 やかましい!俺は今、それ所ちゃうんじゃい!と盛り返す。

 こんな時に自分は、何を糞みたいな事を気にしているんだろう。

 電車を下り、自転車に乗ってもその興奮は冷め止まず、何故か家まで立ち漕ぎで帰った。

 意味もなくその途中で、幾度か嫁さんの名前を叫んだりした。

 ライブに向かう彼らは、痺れるくらいにカッコ良く思え、立ち漕ぎしながら嫁さんの名を叫んでいる自分は酷く不様に思えてきた。

 不恰好だろうが卑小だろうがいい。そんな物は後でどうとでもなる。

 とにかく僕は今、突き動かされたのだ。
  
 どんな生き方をしていようと、人の心を打てない者に道は開けなかったりする。  
 
 彼らは、何も言わずして僕の心を強く打っていた。


 引退してから一つわかったのだが、僕はあまりお笑いを熱心に見る方ではなかったと言う事だ。

 現役の時は毎日、毎日、浴びる程、見ていた。

 その当時は、見て分析したり研究した気になっていたが今、思えば安心したかっただけだ。

 自分は無為に日々を送っているわけじゃない。ちゃんと前に進んでいる。そう思いたかっただけだ。

 引退してから、あまりお笑いのネタ等を見なくなってしまった。

 お笑いを見ると、昔を思い出し感傷的な気分になる。だからお笑いを避ける。

 生憎、そんな微細な感情を僕は持ち合わせてはおらず、単純に余りお笑いに興味を持てなくなってしまったのだ。

 会社の人達と飲みに行ったり、野球を観に行ったりはするし、嫁さんとは映画もよく観に行く。

 しかしお笑いを見に劇場へ足を運ぶ気には、ならなかった。

 自分と昔、大切な時間を過ごした仲間達のライブですら“行きたいな”とは思っても、途中で億劫になり結局、行かずに終わってしまう。

 しかしこのライブは違った。

 何が起ころうとも、見にいや目に焼き付けに行かなくてはならない。

 彼らがどれ程の物をくぐり抜け、そこに辿り着いたのかそれがわかる。

 正直、自分がそこに辿り着けなかった事への寂しさみたいな物もある。

 だが今更、それが何だと言うのか。

 彼らがそうしている様に自分も今を懸命に生き切るしかないのだ。

 
 彼らとともに戦っている頃、ライブのラストで僕は必ず、石野卓球の“risingsun”を流した。

 そこに込めた想いは、言わずもがな。

 6月22日ー

 昇りくる太陽を、心に焼き付けに行こうと思う。



 



 

 

   

  

 

 

 

 
 

 
 

 

 

あの頃の梅雨明け 2


 夜が更けていた。

 女子短期大学の紫陽花寮は、僕達が集団生活を送る寮から徒歩五、六分の所にあった。

 酒の勢いと、その場に発生したわけのわからないエネルギーに引き摺られて、紫陽花寮へ今から行こうと言う事になった。

 こんな夜更けにそこに行ってどうなるわけでもない。

 うちの寮の様に、男ばかりが集団で暮らしているのとは違い、紫陽花寮は年頃の女学生を親元から預かっているのだ。

 セキュリティも万全だろう。

 警備会社か警察にでも通報されて捕まるかもしれない。

 しかしそんな後先の事を、頭から放り出す破壊力が“寮長さんが巨乳”と言う言葉にはあった。

 紫陽花寮に行こうと決めたものの、僕達はすぐには狭い部屋から出なかった。

 アルコールと集団生活からくる欝屈で吹っ飛んだと思われた理性と恐怖が実は、少なからず残っていたからだ。

「普通の大学生はコンパに行く金もあるし、女と自由に電話もできる。何故、俺達はエロビデオすら見れず、電話すら好きに使えないのか!そんな俺達なんだからちょっと紫陽花寮を覗くくらい許される筈だ!」

「寮長さんの巨乳を拝む!」

「俺達には、その権利がある!」

「よっしゃ行こう!」

「おっしゃ!巨乳!巨乳!」

 そんな具合に数分に一回は必ず場が沸騰するのだが、僕もコーヘイもナベも実際に立ち上がろうとはしない。

 僕達の感情が臨界点に達した刹那、必ず微妙な間が空き、何とも言えない空気が流れる。

 その空気に耐えられなくなって僕は読みもしない文庫本を開き、コーヘイは煙草に火を点け、ナベが袖で眼鏡を拭き出す。

 それからまたちびちびと酒を飲み初め、何かの話題で盛り上がり、最後には「よっしゃ!巨乳!巨乳!」となる。

 しかしやはり誰も立ち上がらない。そんな事が数回、続いた。

 お前らは本気か?

 俺は、お前らが行くんだったら行く覚悟は持ってるぞ。

 そんな腹の探り合いが白けた空気の中で永遠と続く。

 「よし!じゃあ紫陽花寮に行こうぜ!」と誰も立ち上がりはしないが「やべえって、やめとこう。行っても何もならないって…」とは誰も言わない。

 そこは男としての意地がある。

 こいつびびってんなと悟られたくないし、何よりつまんないヤツだなんて絶対に思われたくなかった。

 不意に野球部に凄いピッチャーがいるらしいなと言う話題になった。

 神林の事だ。

 この神林は先日あった他の大学との練習試合でデビューし、いきなり勝利投手になっていた。

 今で言うイケメンで実際、神林は女にもよくモテた。

 しかも実家も裕福らしく大学から少し離れた場所に部屋を借りて一人で暮らしている。

 勿論、神林は大学へ車で通っていた。

 僕達が飢えて、手にしていない物を神林は全て持っている。

 神林の車の事を二人に話した時に“しもたぁ”と僕は思った。

 車の話題は、今夜のこの貧相な宴会の根源であり、“紫陽花寮に行こうぜ!”と言う提案の出発点でもあったからだ。

 引くに引けなくなる。

 実際に僕は「巨乳!巨乳!」と喚き、何故か立ち上ってしまっていた。

 つられてコーヘイとナベも立ち上がり、何か事を起こさないと誰も納得しない雰囲気となった。

 僕は、そこで二人に確認をした。

「俺達は、ただのいやらしい気持ちだけで紫陽花寮に行くんやないやんな?大学にある不平等への抗議の意味もあって行くんやんな?」

 コーヘイとナベが真剣な目で「当たり前だろ!」と答える。
 
 紫陽花寮に行って捕まりでもしたら「本当に寮の奴らはどうしようもねぇな」と他の学生達に言われるだろう。

 それは幾ら何でも惨め過ぎる。

 僕達には多少、強引でも自らの行動を正当化させる必要性があったのだ。

 愚かな行為には、相応な大義名分が必要なのである。

 それから僕達は、寮の倉庫に向かった。

 倉庫には全共闘時代に寮生達が、かぶっていたヘルメットが今だにしまってあった。

 新入生歓迎会の準備をするために入った倉庫で、僕達はそのヘルメットを目にしていた。

 高度経済成長の中、若者達はその溢れる情動を社会のあらゆる矛盾にぶつけた。

 その波は我が大学にも波及し、激しい闘争があったと年配の教授が話してくれた事がある。

 大学生活に存在する不平等へ抗議するなら、全共闘運動の象徴であるヘルメットをかぶって行くしかない。

 何事も格好から入るのが、僕達の世代である。

 薄暗い倉庫には、足が折れたソファやぼろ布と化した布団に紛れて、埃を被ったヘルメットが積まれていた。

 ヘルメットを拾い上げると、側面に当時の学生達が書いたであろう文字が見えた。

“世界革命成就!”

 片田舎の大学で多少、暴れたくらいで本当に世界に革命が波及していくのか甚だ疑問だったし

 逆側には“生かされるんじゃない 生きろ!”
と言う口に出したら、声帯が大火傷しそうな言葉が書かれていた。

 僕らは、それを早速かぶってみた。

 しかしとても全共闘運動の戦士には見えない。

 これでは、ただの日雇いバイトに来た使えない学生である。

 これはいかんと言う事になり、コーヘイがスキー用のゴーグルを取りに部屋に行き、僕とナベも部屋にタオルを取りに戻った。

 ヘルメットをかぶって、スキー用のゴーグルを装着し、口元にタオルを巻くと、やっとそれなりに雰囲気が出始めた。

 何がそんなに可笑しいのか全く理解できないが、僕達はこの謎の作業の最中、けたけたとやたらと笑った。

 中でも一番、笑いを誘ったのがナベのフル装備姿だ。

 ナベは今で言う“鉄オタ”で、身長は百八十センチと長身なのだが、枯れ木の様に痩せ細っていた。

 そんなナベがヘルメットにゴーグルを装着し、口元にタオルを巻いた姿は何とも滑稽で僕達は過呼吸になるくらいまで笑った。

 せっかくだからこの姿を写真に撮ろうと言う事になり、ナベが部屋から電車撮影用のカメラを持って来てくれた。

 僕とコーヘイの撮影が終わりナベの番となった。

 僕がカメラを向けると

安田講堂死守!」

と言って、ナベがファイティングポーズをとる。

 機動隊が出動するまでもなく、学生課のおばさんにすら排除されるであろうその姿に、僕達はまた狂った様に笑った。

 外はもう明るくなり始めていた。

 いつの間にか夜が明けた様だ。

 笑い疲れて、倉庫にあった足の折れたソファに座り僕達は少し休んでいた。

 その時ー

「家に帰りたいな」

 とナベがポツリと言った。

 それは寮生の誰もの心にあって、誰も今まで口に出さなかった事だ。

 みんなその言葉から目を逸らし、馬鹿話で何とか誤魔化していた本音だった。

 誰かが口に出すと感情は、そっちへ引っ張られてしまう。

 暫く誰も口を開かず、ただ時間だけが過ぎてゆく。

 一瞬、地元の風景が頭を霞めたが今日、寝てないから練習やばいなと現実がそれを上回った。

「もう寝るか…」

 と誰かが言い僕達は各々の部屋に帰った。

 寮の渡り廊下から見える朝の空の青が濃くなり始めていた。

 もう夏が近づいていた。


 僕達の学年の殆どの寮生が、大学三回生の時にあの寮を出た。

 そして僕達が四回生になった年に、「時代にそぐわない」と言う理由であの寮は廃寮となった。

 大学を出てからコーヘイやナベ、そしてあの寮の仲間達とは一度も会っていない。

 彼らも僕も、何とかこの社会で戦って、自分の家族を守る年代になっている。

 またあの寮の仲間達と会う機会があれば、色んな話をしながら、美味い酒を飲みたいと思う。
 

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