あしたの鉄人

戦々恐々の日々

往来


 ここ数週間、頻繁に人に会っている。

 目前に迫った夏の気配に少し浮き足だっている所為かもしれない。

 それは必ずしも僕だけに限った事ではなく、「会わないか?」と誘ってくれる人達がこの時期に重なると言うのは、人の気分を高揚させる何かがこの時期にはあるのかもしれない。

 とにかく僕は、梅雨時期の湿った空気の中で様々な人達と会っている。

 昔、深く関わった人達や今、同じ時間を共有している人達まで様々な人達と色んな場所で会い他愛もない話をする。

 突発的に気持ちの準備がなく行った酒席で、思いがけず心が揺り動かされる様な事があったりした。

 何とも贅沢な時間を過ごしているなと言う実感がある。

 昨夜も近くにある居酒屋で友人と会った。

 すっかり懐の寂しくなった僕に変わり、その友人が酒代を出してくれた。

 数年前、長く続いたある時期を終え、僕は職業訓練学校に通った。

 その時の友人で、彼とは家が近所と言う事もあり今でも頻繁に会う仲だ。

 職業訓練学校時代の友人達には何か特別な思いがあったりする。

 同じ会社にも何人かこの時の友人達がいるのだが、部署も違うし敷地も広大なので中々、顔を合わせる事はない。

 たまに仕事中、敷地内ですれ違ったりする時はお互い何故か半笑いで目だけを合わせたりする。

 「今日も残業か?お互い頑張ろうや」

 口に出さずとも、そんなニュアンスが伝わってくる。

 昨夜は久しぶりに友人と差しで飲んだ。

 お互いの仕事の話や、訓練学校時代の知人の話、家族の話、桑田と清原の話等を経て何故か話題は、太宰治の悪口になった。

「太宰は生き方がダサいわ!坂井三郎や小野田さんと同じ時代を生きたと思われへん!」

 と僕が酔った勢いで宣うと友人が笑いながら聞いてくれた。

 僕は酔うと必ず文学の話をし、どの友人達もそんな面倒くさい話に巧く付き合ってくれる。

 僕達は、店を出てぷらぷらと歩き拘置所の近くの橋で別れた。

 また夏に飲もうと約束した。



 
 
 


 

 

 

 

 

 

小雨の中 2


 初めて梅田にある病院に行く日、僕は平常心を保てていなかったと思う。

 人で溢れ返る地下街を抜けて、地上に出ると小雨が降っていた。

 傘を持っていなかったため、細く冷たい雨に僕は全身を晒す事となった。

 自分に障害があるのではないかと言う不安と、もし障害がないのだとしたら仕事中に不可解にミスを犯す原因がもう見当たらなくなってしまうと言う不安。

 そんな相反する二つの不安に僕は苛まれていた。

 どちらにせよ、一刻も早く明確な答えが欲しかった。

 雑居ビルの六階にそのクリニックはある。

 木製の洋式椅子が並ぶ小洒落た待合室は、リラックスを強要されている様で全く落ち着かなかった。

 何故、心身ともに健康な自分がこんな所にいるんだろう。

 会社の健康診断で出る数値は、ずっと正常を示している。

 そしてメンタル面での図太さが、僕の売りではなかったか。

 それは単なる幻想で、ずっと以前から僕の何かしらの回路が破損していたと言う事なのだろうか。

 待合室で受付の女性に、様々な質問が書かれた紙を渡された。

 相場は、この受付の女性が美しかったり、色気が凄かったりするもんじゃなかろうか。

 それ目当てでクリニックに通ったりするから人生とは釣り合いが取れると言うものだろう。

 僕に紙を渡してきた女性は、いかにも大阪のおばちゃんと言う風体で、これから自分にとっていかつい展開が待っていそうだと言うのに一時、気を紛らわす事さえ叶わなかった。

 僕は、その紙を熟考し丁寧に書いた。

 暫くして診療室に呼ばれた。

 かなり広めの診療室には、ゆったりとした椅子があり、そこに僕と同年代くらいの医師が座っていた。

 その医師に今までの自分の経歴やら、職歴やらをこと細かに聞かれ、様々な事を質問された。

 始めは僕も緊張しつつ丁寧にその質問に答えていた。

 しかしあまりに長時間、執拗に様々な事柄について聞いてくるので、途中から仕事終わりで疲れていたのもあって頭が惚けてきた。

 何時間経ったのかは、よくわからなかったが
最後に医師は、僕がある障害を抱えていると言った。

「え… マジっすか?どの辺でそうなんすか?」

「私は質問する時に声をひそめたり、はっきり話したり、ペースを変えたりしていたんです。気づいてましたか?」

「いや、全く…」

「そうでしょう。全然、それに対応できていませんでした。よく話しが飛ぶとか、人の話を聞いていないとか言われませんか?」

 確かに僕は話す殆どの人達に、よく「話し飛ぶなぁ」と言われていた。

 しかもそれに全く自覚がなく、そう言われて初めて“話し飛んだのか”と気が付く始末だ。

 そしてもう一つの「人の話を聞いていない」と言うのが問題で、僕はその所為であらゆる人とトラブルになったり信頼を失ったりしてきた。

 若い時には、それが原因で彼女から別れ話を切り出された事もあった。

 そんな事が頻繁に起こり、平気で何の改善も試みない人等、いるのだろうか。

 当然、僕は会話中、意識的に聞こう聞こうと何度も意識したり、阿川佐知子の「聞く力」や吉田豪の「聞き出す力」を何度か読んだりもした。

 しかし何をしても効果はなかった。

 始めは話を聞けているのだが、何処かで必ず他に意識が飛んでしまう。

 気がつくと相手の話が終わっている。

 しかも何処に意識が飛んだのかも思い出せなかったりするのだ。

 これはシリアスな場面では致命的で「おい!聞いてんのか!お前!」となってしまう。

 それは当然の事だと思う。

 医師は、「それはこの障害の典型的な症状です。あなたに話を聞けと言うのは、目が不自由な方に見ろと言う事と同じですよ。努力でどうにかできる物ではありません」と言葉を選びながら言った。

 これから人と話しをする度に、その話しを遮って「僕、障害ありますねん。人の話しが聞けなかったりしますねん」とでも言わねばならないのだろうか。

 その場にどんな空気が流れ込むのかなんて考えたくもないし、そんな面倒くさい奴と誰が話しをしたいと思うのか。

 それに今まで起こってきたトラブルに誰にも非がなかったとなると一体、僕は何のために信頼を失ってきたのか。
 
 暗い気持ちに支配され黙っていると、その沈黙に耐えかねたのか医師が話し掛けてきた。

「この年齢になるまで障害を治療もせず、何の援助も受けられていないんですよね?それで大学も出て、芸能関係のお仕事を長年やられて、今もちゃんとお仕事をしていらっしゃる。それに結婚もしておられる。ハンデがあってなかなかできるもんじゃないですよ」

 そんなもんだろうか。

 大体、僕には今まで自分がハンディキャップマッチを戦っている自覚が全くなかったのだ。

 ただ漠然と何かがおかしいとは、ずっと思ってはいた。

 それにしても、医師の口から“ハンデがある”と実際に言われるとなかなか堪える物がある。

 今まで散々、“天然”とか“おかしい”とか言われ続けてきたが、自分はその範疇ではなく、“ほんまもん”だったのだと思うと何かやり切れない気持ちになった。

「先生、乗り越えられるんでしょうか…?」

 心が乱れているせいか全く意味のない質問が口をつく。

 乗り越えられるかどうかなんて人に聞くものではないし、そう聞かれて「無理です」と言う医師なんているわけがない。

 劣勢を跳ね返せるのは、当人の強い意思だけだ。

 そんな事は痛い程、わかっている筈だが聞かずにはいられなかった。

 しかしこんな面倒くさい質問に対しての医師の応答が秀逸だった。

「何を言ってるんですか?乗り越えるも何もあなたはもう乗り越えてるじゃないですか。会社だって解雇されるわけじゃないでしょう。障害があるからってあなたの奥さんは離婚する様な人なんですか?」

 確かにミスは普通の人よりは多いかもしれない。

 しかし何とか利益を出せているから、僕は会社から淘汰されずに済んでいる。

 ただこの先、会社での自分のポジションが変化するにつれて、それに対応して利益を生み出せるのかどうかには不安があった。

 そして医師が言う様にうちの嫁さんは、僕に障害があると知っても、動揺する様なタマではない。

 ただ新婚早々、旦那に障害があると発覚するのは、きついだろうなとは思う。

 障害が発覚した直後である。なかなか前向きな思考を構築する事は難しかった。

 今まで朦朧としていた物の輪郭がはっきりとし、実体を表したのだ。

 今までにない好機が訪れているわけで、ここで今後の対処を医師と相談しなければならないと頭では思うのだが、ハートがそれについてゆかない。

 とりあえず自分の脳髄が何故、機能していないのかその辺から知ろうと医師に尋ねてみた。

ドーパミンの量が、健常者の人に比べて六割くらいしか出ていません。そのせいで前頭葉が巧く機能していないんです」

 六割と言う数字が更に僕を暗澹たる気分にさせた。

「ただ心配する事ばかりではないのです。障害と言うのは、一つあるとそれをカバーしようと他の機能が発達します。あなたの場合もそうで、ある部分では健常者の方より劣っています。しかし違う部分では健常者の方より優れている部分もあるのです」

 マイナスばかりではなく、プラスの部分もあると言う事なんだろうか。

 医師のその言葉に僕の闘志が微かに反応した。ここに攻略の糸口があるのかもしれない。

「それ詳しく聞かせて下さい」

「健常者の方の様々な能力を五段階に分けるとします。個人差はあるでしょうが大体、三付近に均等に能力値が振り分けられるのです。あなたの場合は能力値が一の所もあれば、五の所もあるのです。脳の発達に偏りがあるだけなんです」

 野球に例えると普通の人はどんな投手が来ても大体、三割前後はヒットにする事ができる。

 しかし僕の場合は投手によって、三振かホームランかのどちらかしか結果が出ないと言う事だろうか?

 監督の立場なら三振かホームランかと言う人物よりも、手堅くどんな時も三割ちゃんと結果を残せる人物の方が安心して使える。

 だけど三振しかしないヤツよりは、たまにホームランを打てるヤツの方がよっぽどましではある。

 大体、僕は人生諦めたり辛いとか言ってる様なヤツは好きになれない。

 楽天的だとか何も考えてないとか言われ様が今よりも浮上しようと、足掻かなければ意味がないと思っている。

 すぐに医師に、この障害のマイナス面とプラス面を聞いた。途中、話しが聞けなくなるといけないので医師に頼んでそれを箇条書きにしてもらった。

 マイナス面
⚪集中力の欠落による、作業中のミスの増加。指示がうまく理解できない所がある。

⚪空間把握能力が乏しく、末端運動が巧く行えない、不器用。

⚪ワーキングメモリーの不調による頭の中の混乱。覚えておかなければならない事を忘れてしまったり、重要ではない事を覚えていてしまう。情報の整理ができない。

 他にもたくさんあるのだが、仕事に支障が出ているのは主にこの三つだと思われる。

 特に頭の中の混乱は酷く、仕事中に幾つかの仕事を振られると発狂しそうになる程、意識がうまく統一できなくなる。

 僕は以前、お笑いのライブをまとめなければならない立場にいたのだが、ライブ前にはしなければならない準備が多く、よくこの状況に陥っていた。

 プラス面
⚪いざと言う時の行動力、迷わず決断する力

⚪豊かな創造力と独創性

⚪人間関係に執着せず根にもたない

 医師が書き連ねてくれた、ずらりと並んだ箇条書きを見ているといかに自分の人生が、良かれ悪かれこの障害によって左右されて来たのかが理解できた。

 確かに仕事で支障が出ている部分はあるが、人間関係や行動力の部分で救われている部分も多いにあるのだ。

 医師が言った「この障害の特性を生かして成功している人も多くいます」と言う言葉にも頷けた。

 僕が恵まれていたのは、やはり障害を見抜いて通院まで進めてくれた人に巡り会えた事だ。

 このまま自分の障害に気付かず放置されてゆくとなると、かなり厳しい状況に自分は追い詰められていた事だろう。

 普通、仕事でミスを重ねるとなると駄目なヤツだと解雇されるか、他の部署に飛ばされて終わりだと思う。

 なかなかその原因まで掘り下げて考えてくれる人なんていない。

 感謝はしても仕切れないし、やっぱり凄い人と言うのはいるものである。

 障害と言うのは、病気とは違って治る事はない。

 これから僕は投薬と対処療法で、この障害と対峙してゆかねばならない。

 莫大な借金を抱えた人が開き直って、それを笑い話に変えたり、生死の境をさ迷った人の価値観が大きく変わる事が世の中にはある。

 三十代後半から初めて社会に出て、しかも障害まで発覚したとなるとこれはなかなか今の僕では手に負えない物がある。

 だからこそ僕は何とかこれを乗り越えて、大きく殻を破りたいとも思うのだ。

 最後に医師が僕の書いた症状等を説明した紙を見て「あなたは文章を書いた方がいい。聞く事で十分に得られない情報をあなたは読む事で補完してきたと思われます」と言った。

 確かに本は集中力が切れてきたら閉じてしまえばいいし、気が向いたらまた続きから読めば良い。

 肌身離さず、自分が何かの文庫本を持ち歩いている意味がわかった様な気がした。

 少しして僕はブログを書こうと思った。

 ある人が昔、僕につけてくれた“鉄人”と言うあだ名をタイトルに入れた。

 その人も様々な病気と戦っている人だ。

 クリニックを出ると、もう雨は止んでいた。

 濡れたアスファルトから懐かしい匂いが立ち込めていた。











 

 






 

  






 
 

 





 

小雨の中 1


 通院の日は、今月も雨が降っていた。

 診断が終わり、来月からの投薬量を決めると毎月、主治医と他愛もない話をする。

「お休みとれないんやったら、奥さんに区役所に行ってもらえばいいじゃないですか」

 主治医が言う通り、早急に区役所に書類を提出する必要があった。

 この書類を提出すれば、ばかにならない毎月かかる薬代の一部を、行政が負担してくれると言う。

 “とうとう、俺もお国の世話になる様になってもうたか。焼きが回ったな”

 と情けない気持ちが浮かぶ。

「そんなん嫁が、行ってくれると思います?嫌やぁ言われて終わりですよ」

 僕がそう返すと先生が笑った。

 紫煙を吐き出しながら、顔をしかめる嫁さんの姿が一瞬、浮かんだ。


 この年になるまで自分が、障害を抱えているとは思ってもいなかった。

 若い頃に抱いた夢を放棄し、三十代後半で僕は社会に出た。

 若くなく、今までアルバイトくらいしかした事がない人間が、すんなりと適応できる程、社会は甘くない。

 そんな人間が簡単に社会で活躍し、自分なりの幸せを容易く手に入れられたら、若い頃から社会で揉まれ続けた人達はどうなるのか。

 仕事は、なかなかうまくこなせない。

 サラリーマンとしての生活ペースにも、馴染む事ができない。

 そんな僕を拾ってくれた会社には、恩を感じるし、半年経った時点で適正なしと判断された時も色んな人が関わってくれて何とか僕は会社に残る事ができた。

 当然、会社の足を引っ張ているのだから僕は周囲から何度も叱責された。

 四十手前まで好き放題、生きてきたのは自分である。

 そんな物は自業自得であり、急に真っ当な生活をしようと舵を切ったのだから、全てを受け入れて何としてでも会社の役に立てる様になるしかない。

 しかしそうは思っていても、やはり日々続くこの戦いに音を上げて、僕は何度か仕事中に涙を流した。

 四十手前のオッサンが職場で泣き出すのである。

 回りの人は本当に大変だったと思うし、そう思えば思う程、情けなさと悔しさで涙は止まらない。

 しかし人目を気にしていられる余裕何て物は自分にはなかった。

 泣こうが喚こうが前に進んでゆくしかないのだ。

 若いうちから好きな事だけをし、回りにいかにちやほやしてもらっていたか、その時に初めて気がついた。

 しかしそんな僕でも、職場から孤立する事だけはなかった。

 週末になると上司や先輩や若い子達が、僕を飲みに誘ってくれたし、仕事中も必ず誰かがフォローしてくれた。

 仕事ができずに塞ぎ込み、周囲と溶け込めずに辞めて行く人を何人も僕は見た。

 だから暗く沈んでゆく事だけはしてはならない、気持ちだけは折れてはならないと自分に毎日、言い聞かせていた。

 そんな僕を周囲の人達は、懐深く受け入れてくれた。

 いつも出会う人には、自分は恵まれ過ぎている。

 ただ僕も、漫然と虚ろな夢を追っていたわけではないのだ。

 若い頃から楽屋で先輩達には、自分から切り込んでいかなあかんと叩き込まれていたし、積極的に何処でも前に出ないと何も掴み取る事等できないと知ってもいた。

 その根底に根付いた精神は社会でも、十分に自分の武器になり得ると途中から気付いた。

 相変わらず、なかなか仕事で成果を上げる事は出来なかったが僕は喰らいつき続けた。

「あいつは根性だけはある」とそこだけは一定の評価をしてもらう事もできた。

 必死であがいていると時間は、まさに飛ぶ様に過ぎてゆく。

 気がつくと入社してから二年が経っていた。

 その間に僕は念願だった結婚もした。

 時が経っても、仕事でのミスは減らない。

 様々な事を自分なりに試してみたが、一向に改善されない。

 周囲からの目は、日に日に厳しくなってゆく。

 当たり前である。

 この仕事で金銭を得ている以上、結果が全てなのだ。

 何を試そうが工夫しようが、結果に変化がなければそれは、何も改善していないのと同じと見なされる。

 お笑いの賞レースもネタ合わせを幾らしようが、客席からの笑い声やネタに光るセンスが伴わなければ上にゆく事等、できない。

 正直、もう八方塞がりで、どうこの局面を乗り越えようかその手立てが全く見えなくなっていた。

 そんな時に僕は、親会社の上司に呼び出された。

 “あぁ、もう戦力外通告を下されても何も言えないな”と僕はびくびくしていた。

「何か異常があるのかもしれない。一回、ちゃんと見てもらえや」

 鋭い目で上司は僕にそう言った。

 僕はそんな風に自分は見られていたのかと一層、情けなくなり、あろう事かその上司からの助言を笑って誤魔化した。

 人としてどうかしている。

 人の機能に異常があるかもしれないなんて軽々しく口にできる事ではない。

 ある程度の確信と、後に起こるであろう波を受け止める覚悟がないと、なかなかそんな事は口にできないだろう。

 そんな事には何も考えを巡らせず、自分が受けるダメージを少しでも和らげようと笑って誤魔化す。

 そんなヤツは社会に適応できるかとか言う以前に、根底がもう腐り果てている。

「だからお前は真剣じゃない。もう結婚もしたんやろ…もういい…」

 上司は、こいつに言っても、徒労でしかないと感じたのかそこで言葉を濁した。
 
 さすがにこれは堪えた。

 親身になってくれる人からの助言を受け止めずに、自分が傷つかないためだけにかわす。

 いつも優先事項は保身や自衛であり、関わってくれてる人達の思いや労力に報い様としない。

 そんなヤツの何処に根性や精神力があると言うのか。

 何とかすんでの所で、自分を省みた僕は上司の言葉を回避せずに正面から受け止め様とした。

 自分に異常がある…?

 そんな事は考えもしなかった。

 確かに昔から何をやっても器用にこなせなかったし、人より時間をかけないと何でも一定の水準まで持っていく事ができない。

 ただそれは、自分が要領が良くないからだとずっと僕は思っていた。

 そして一番、自分でも説明がつかないのが仕事や家庭での不注意の原因である。

 はっと気がつくと仕事でミスを犯していたり、家では嫁さんから咎められて初めて自分が何かをしでかしたらしい事に気づく。

 その間の記憶が、ごっそりと抜けていて幾ら考えようともその原因がよくわからないのだ。

 そこには、自分が思いもかけない原因があるのだろうか。

 もしかしたら自分でコントロールできる範疇の外に、その答えがあるとしたら…。

 しかしもし自分が何かの障害を抱えていたとしても、それがこの年齢になるまで発覚しないなんて言う事が、果たしてあるのだろうか。

 家に帰り早速、パソコンで自分の症状について調べてみた。

 直ぐにある障害にぶち当たり、チェックシートが着いていたので、それをやってみる。

 幾つかの質問に答えて、キーを押すと結果が画面に表示された。

 “早急に医師の診断を受けて下さい”と警告文が出ていた。

 それでも半信半疑だった僕は、その障害について特集している動画を見てみた。

 それを見ている途中にはっとし、全身に鳥肌が立ってゆくのがわかった。

 動画では、ある障害を持った方がインタビューに答えている。

 その内容が、僕が今まで周囲の人達に漏らしていた事と類似していたのだ。

「集中力の照準が合わない…」

 僕が、それを話した人達はみんな不可解な顔をしていた。

 いつもそう言うリアクションが返ってくるので、僕はそれを余り言わない様になった。
 
「ヤバい事になってもうたな…」

 それから僕は、この障害を受診できる病院を探した。

 市内にも数件しかなかった。

 その全てに連絡を入れて、一番早くに診てもらえる所に予約を入れた。

 それでも予約がとれたのは、一ヶ月半後だった。

 今直ぐにでも診察してもらいたい僕は、悶々と日々を送る事となった。


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昇りくる太陽


 暑くなった所為か、仕事終わりの電車の中で僕は酷く疲れていた。

 もう何も考えられないくらい疲弊し、自分の中の、何かが確実に磨り減ってゆく。

 あと一駅で最寄りの駅だ。

 一刻も早く家に帰りたいと思う反面、こうやって呆けながら、電車にもう少し揺られているのも悪くないと思った。

 何気なく携帯電話で昔の仲間のブログ等をチェックする。

 小さな液晶画面に、ライブ情報が溢れ返る。

 相変わらず皆、戦っていた。

 当然、自分だけがもがいているわけ等なく、いや僕以上に皆、命を燃やし、

 自分が置かれた状況や事情やら感情やら、人が生きてゆく上で抱えているあれやこれやを引きずりながら、皆あがいている。
 
 それは何か心強い物があった。

 あるライブの告知に目が止まる。

 それは自分が一時期、深く関わったライブのスピンオフ企画の告知だった。

 微かに携帯を持つ手が震え出す。

 何気なく見ていた画面から、不意に自分にとって強烈なメッセージが放たれたのだ。

 心の準備等、していよう筈もなく幾つもの感情が溢れ出す。 

 “ああぁぁあぁぁぁ…”

 気がつくと回りの客が、驚いて振り返るくらいの唸り声が自分から発せられていた。

 同じ職場の人が車内にいたらどうしようと一瞬、思ったがすぐに

 やかましい!俺は今、それ所ちゃうんじゃい!と盛り返す。

 こんな時に自分は、何を糞みたいな事を気にしているんだろう。

 電車を下り、自転車に乗ってもその興奮は冷め止まず、何故か家まで立ち漕ぎで帰った。

 意味もなくその途中で、幾度か嫁さんの名前を叫んだりした。

 ライブに向かう彼らは、痺れるくらいにカッコ良く思え、立ち漕ぎしながら嫁さんの名を叫んでいる自分は酷く不様に思えてきた。

 不恰好だろうが卑小だろうがいい。そんな物は後でどうとでもなる。

 とにかく僕は今、突き動かされたのだ。
  
 どんな生き方をしていようと、人の心を打てない者に道は開けなかったりする。  
 
 彼らは、何も言わずして僕の心を強く打っていた。


 引退してから一つわかったのだが、僕はあまりお笑いを熱心に見る方ではなかったと言う事だ。

 現役の時は毎日、毎日、浴びる程、見ていた。

 その当時は、見て分析したり研究した気になっていたが今、思えば安心したかっただけだ。

 自分は無為に日々を送っているわけじゃない。ちゃんと前に進んでいる。そう思いたかっただけだ。

 引退してから、あまりお笑いのネタ等を見なくなってしまった。

 お笑いを見ると、昔を思い出し感傷的な気分になる。だからお笑いを避ける。

 生憎、そんな微細な感情を僕は持ち合わせてはおらず、単純に余りお笑いに興味を持てなくなってしまったのだ。

 会社の人達と飲みに行ったり、野球を観に行ったりはするし、嫁さんとは映画もよく観に行く。

 しかしお笑いを見に劇場へ足を運ぶ気には、ならなかった。

 自分と昔、大切な時間を過ごした仲間達のライブですら“行きたいな”とは思っても、途中で億劫になり結局、行かずに終わってしまう。

 しかしこのライブは違った。

 何が起ころうとも、見にいや目に焼き付けに行かなくてはならない。

 彼らがどれ程の物をくぐり抜け、そこに辿り着いたのかそれがわかる。

 正直、自分がそこに辿り着けなかった事への寂しさみたいな物もある。

 だが今更、それが何だと言うのか。

 彼らがそうしている様に自分も今を懸命に生き切るしかないのだ。

 
 彼らとともに戦っている頃、ライブのラストで僕は必ず、石野卓球の“risingsun”を流した。

 そこに込めた想いは、言わずもがな。

 6月22日ー

 昇りくる太陽を、心に焼き付けに行こうと思う。



 



 

 

   

  

 

 

 

 
 

 
 

 

 

あの頃の梅雨明け 2


 夜が更けていた。

 女子短期大学の紫陽花寮は、僕達が集団生活を送る寮から徒歩五、六分の所にあった。

 酒の勢いと、その場に発生したわけのわからないエネルギーに引き摺られて、紫陽花寮へ今から行こうと言う事になった。

 こんな夜更けにそこに行ってどうなるわけでもない。

 うちの寮の様に、男ばかりが集団で暮らしているのとは違い、紫陽花寮は年頃の女学生を親元から預かっているのだ。

 セキュリティも万全だろう。

 警備会社か警察にでも通報されて捕まるかもしれない。

 しかしそんな後先の事を、頭から放り出す破壊力が“寮長さんが巨乳”と言う言葉にはあった。

 紫陽花寮に行こうと決めたものの、僕達はすぐには狭い部屋から出なかった。

 アルコールと集団生活からくる欝屈で吹っ飛んだと思われた理性と恐怖が実は、少なからず残っていたからだ。

「普通の大学生はコンパに行く金もあるし、女と自由に電話もできる。何故、俺達はエロビデオすら見れず、電話すら好きに使えないのか!そんな俺達なんだからちょっと紫陽花寮を覗くくらい許される筈だ!」

「寮長さんの巨乳を拝む!」

「俺達には、その権利がある!」

「よっしゃ行こう!」

「おっしゃ!巨乳!巨乳!」

 そんな具合に数分に一回は必ず場が沸騰するのだが、僕もコーヘイもナベも実際に立ち上がろうとはしない。

 僕達の感情が臨界点に達した刹那、必ず微妙な間が空き、何とも言えない空気が流れる。

 その空気に耐えられなくなって僕は読みもしない文庫本を開き、コーヘイは煙草に火を点け、ナベが袖で眼鏡を拭き出す。

 それからまたちびちびと酒を飲み初め、何かの話題で盛り上がり、最後には「よっしゃ!巨乳!巨乳!」となる。

 しかしやはり誰も立ち上がらない。そんな事が数回、続いた。

 お前らは本気か?

 俺は、お前らが行くんだったら行く覚悟は持ってるぞ。

 そんな腹の探り合いが白けた空気の中で永遠と続く。

 「よし!じゃあ紫陽花寮に行こうぜ!」と誰も立ち上がりはしないが「やべえって、やめとこう。行っても何もならないって…」とは誰も言わない。

 そこは男としての意地がある。

 こいつびびってんなと悟られたくないし、何よりつまんないヤツだなんて絶対に思われたくなかった。

 不意に野球部に凄いピッチャーがいるらしいなと言う話題になった。

 神林の事だ。

 この神林は先日あった他の大学との練習試合でデビューし、いきなり勝利投手になっていた。

 今で言うイケメンで実際、神林は女にもよくモテた。

 しかも実家も裕福らしく大学から少し離れた場所に部屋を借りて一人で暮らしている。

 勿論、神林は大学へ車で通っていた。

 僕達が飢えて、手にしていない物を神林は全て持っている。

 神林の車の事を二人に話した時に“しもたぁ”と僕は思った。

 車の話題は、今夜のこの貧相な宴会の根源であり、“紫陽花寮に行こうぜ!”と言う提案の出発点でもあったからだ。

 引くに引けなくなる。

 実際に僕は「巨乳!巨乳!」と喚き、何故か立ち上ってしまっていた。

 つられてコーヘイとナベも立ち上がり、何か事を起こさないと誰も納得しない雰囲気となった。

 僕は、そこで二人に確認をした。

「俺達は、ただのいやらしい気持ちだけで紫陽花寮に行くんやないやんな?大学にある不平等への抗議の意味もあって行くんやんな?」

 コーヘイとナベが真剣な目で「当たり前だろ!」と答える。
 
 紫陽花寮に行って捕まりでもしたら「本当に寮の奴らはどうしようもねぇな」と他の学生達に言われるだろう。

 それは幾ら何でも惨め過ぎる。

 僕達には多少、強引でも自らの行動を正当化させる必要性があったのだ。

 愚かな行為には、相応な大義名分が必要なのである。

 それから僕達は、寮の倉庫に向かった。

 倉庫には全共闘時代に寮生達が、かぶっていたヘルメットが今だにしまってあった。

 新入生歓迎会の準備をするために入った倉庫で、僕達はそのヘルメットを目にしていた。

 高度経済成長の中、若者達はその溢れる情動を社会のあらゆる矛盾にぶつけた。

 その波は我が大学にも波及し、激しい闘争があったと年配の教授が話してくれた事がある。

 大学生活に存在する不平等へ抗議するなら、全共闘運動の象徴であるヘルメットをかぶって行くしかない。

 何事も格好から入るのが、僕達の世代である。

 薄暗い倉庫には、足が折れたソファやぼろ布と化した布団に紛れて、埃を被ったヘルメットが積まれていた。

 ヘルメットを拾い上げると、側面に当時の学生達が書いたであろう文字が見えた。

“世界革命成就!”

 片田舎の大学で多少、暴れたくらいで本当に世界に革命が波及していくのか甚だ疑問だったし

 逆側には“生かされるんじゃない 生きろ!”
と言う口に出したら、声帯が大火傷しそうな言葉が書かれていた。

 僕らは、それを早速かぶってみた。

 しかしとても全共闘運動の戦士には見えない。

 これでは、ただの日雇いバイトに来た使えない学生である。

 これはいかんと言う事になり、コーヘイがスキー用のゴーグルを取りに部屋に行き、僕とナベも部屋にタオルを取りに戻った。

 ヘルメットをかぶって、スキー用のゴーグルを装着し、口元にタオルを巻くと、やっとそれなりに雰囲気が出始めた。

 何がそんなに可笑しいのか全く理解できないが、僕達はこの謎の作業の最中、けたけたとやたらと笑った。

 中でも一番、笑いを誘ったのがナベのフル装備姿だ。

 ナベは今で言う“鉄オタ”で、身長は百八十センチと長身なのだが、枯れ木の様に痩せ細っていた。

 そんなナベがヘルメットにゴーグルを装着し、口元にタオルを巻いた姿は何とも滑稽で僕達は過呼吸になるくらいまで笑った。

 せっかくだからこの姿を写真に撮ろうと言う事になり、ナベが部屋から電車撮影用のカメラを持って来てくれた。

 僕とコーヘイの撮影が終わりナベの番となった。

 僕がカメラを向けると

安田講堂死守!」

と言って、ナベがファイティングポーズをとる。

 機動隊が出動するまでもなく、学生課のおばさんにすら排除されるであろうその姿に、僕達はまた狂った様に笑った。

 外はもう明るくなり始めていた。

 いつの間にか夜が明けた様だ。

 笑い疲れて、倉庫にあった足の折れたソファに座り僕達は少し休んでいた。

 その時ー

「家に帰りたいな」

 とナベがポツリと言った。

 それは寮生の誰もの心にあって、誰も今まで口に出さなかった事だ。

 みんなその言葉から目を逸らし、馬鹿話で何とか誤魔化していた本音だった。

 誰かが口に出すと感情は、そっちへ引っ張られてしまう。

 暫く誰も口を開かず、ただ時間だけが過ぎてゆく。

 一瞬、地元の風景が頭を霞めたが今日、寝てないから練習やばいなと現実がそれを上回った。

「もう寝るか…」

 と誰かが言い僕達は各々の部屋に帰った。

 寮の渡り廊下から見える朝の空の青が濃くなり始めていた。

 もう夏が近づいていた。


 僕達の学年の殆どの寮生が、大学三回生の時にあの寮を出た。

 そして僕達が四回生になった年に、「時代にそぐわない」と言う理由であの寮は廃寮となった。

 大学を出てからコーヘイやナベ、そしてあの寮の仲間達とは一度も会っていない。

 彼らも僕も、何とかこの社会で戦って、自分の家族を守る年代になっている。

 またあの寮の仲間達と会う機会があれば、色んな話をしながら、美味い酒を飲みたいと思う。
 

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あの頃の梅雨明け 1

 
 大学一回生の頃、僕は大学の敷地内に建つ古い寮に住んでいた。

 この寮は台所も風呂もトイレも共同で、一人に与えられる空間がわずかに三畳程度と言うまるで刑務所の様な建物だった。

 寮費が月に一万円。実家があまり裕福ではない学生や遠征費が嵩む運動部の学生が、この寮で大学生活を送っていた。

 寮生は五十人弱いたと思う。その人数に対し電話が一台しかない。

 しかも電話は玄関にあり、女の子と長話なんかしていよう物ならあらゆる方角から罵声を浴びせられ、嘲笑の的となる。

 何をするにも誰かと顔を合わさねばならず、集団生活にプライバシー等と言う物が皆無だと言う事を思い知らされる毎日だった。

 日々、遠ざかってゆく“キャンパスライフ“と言う瀟洒で甘美な言葉。

 寮生の誰もが想像していた未来と、己が直面している現実との落差に戸惑い、愕然としながらも宴会や麻雀に没頭し何とか日々をやり過ごしていた。


 その日、僕は夏の遠征を前に激しさを増す野球部の練習に疲れ果て、ふらつく足取りで何とか寮の自室まで辿り着いた。

 もうユニフォームを脱ぐ気力さえない。

 そのまま三畳一間に倒れ込む。

 当然、エアコン等あろう筈もなく畳がすぐに汗で濡れていく。

 ドアも窓も全開にしているのに、室内の温度は下がる気配すらない。    

 時折、廊下を通る仲間が僕に声を掛けてくる。しかし曖昧な返事しか返せない。

 横になりながら、リンゴジュースをパックのまま貪る様に飲む。

 みるみる細胞の隅々までが潤ってゆく様な感じがする。

 暫くそうして寝転んでいると、漸く体力が少しずつ回復してきた。

 畳の上に転がっていた夢枕獏の“荒野に獣慟哭す”を手に取り、読み始める。

 そうして活字の海を漂っている時に、誰かが僕の部屋にずかずかと上がり込んできた。

 体を起こすと情報学部のコーヘイと福祉学部のナベが立っていた。

 コーヘイは手に安酒がたっぷりと入った巨大なペットボトルを握っている。

 「コーヘイ。そんなもん先輩に見つかったらえらい事になるぞ」と言うと

 「知るか!」と言いながらコーヘイが畳の上に腰を下ろした。

 直ぐに長身のナベも空いているスペースに座り込む。

 「その酒、先輩に見つからへんかったやろな」と念を押すと、

 コーヘイが先程と寸分違わぬトーンで「知るか!」
と繰り返した。

 この安酒は寮の新入生歓迎会の折りに先輩達が、なけなしの金を叩いて僕達に用意してくれた物だ。

 歓迎会の日に北海道出身のフクちゃんが、先輩達に飲まされ過ぎて救急車で運ばれると言う春の大学あるあるの様な騒動が起こった。

 そのどさくさに紛れて僕達は、この安酒の巨大ペットボトルをくすねたのだった。

 そんな盗品を寮内で、堂々と持ち歩くなんて正気の人間がやる事ではない。

 案の定、コーヘイもナベも既に酷く酔っている。

 気がつくと狭い部屋には、もう酒の臭いが充満していた。

 先程から二人とも何かを捲し立てている。

 しかし酔いにまかせた二人からは、断片でしか話の内容が伝わってこない。

 どうも要領を得ないので僕も酒を飲む事にした。

 酔っ払いの話しは、酔って聞くのが礼儀と言う物である。

 巨大なペットボトルから湯呑みに酒を注ぎ、それをコーラで割る。

 一気に飲み干すと、安酒特有の口当たりが悪く荒い味が口内に広がり、喉から胃までの軌道が急激に熱を帯びた。

 練習で疲れている所為かすぐに酔いが回り出す。

 何故か痺れた頭の方が、二人との会話は噛み合った。

 「寮長が、買った車を見たか?」

 「見たよ。それがどうかしたんか?」

 我が寮の寮長、武井さんがアルバイトで貯めたお金で念願だった車を手に入れた事は僕も知っていた。

 寮の駐車場から、古ぼけた軽自動車に乗って颯爽と走り去る武井さんの姿を何度か目にした事があったからだ。

 最も、颯爽と走り去った武井さんの車が体育館横の駐車場に入って行くのを見て、歩いた方が早いだろうなと思ったし、

 アメフト部で鍛え上げた巨体を嬉しそうに軽自動車に押し込む武井さんを見て、普通より大分、燃費悪くなっているんだろうなとも思ったりした。

 「寮長、あそこまでして何であんな車しか買えねぇんだ!」

 「気の毒すぎるだろ!」

 また二人の語気が強まり出す。

 二人が“あそこまでして”と言う言葉には、僕も心当たりがあった。

 武井さんは寮の中でも倹約家として有名で、車を買うために大学の外にもあまり遊びに行かず節約していた。

 少し前に野球部の練習が長引いた事があった。

 もうとっくに日は暮れて、大学中の電灯も少ししか点いていない。

 寮に帰ろうと学食の前を通りかかると、人の気配がした。

 幾台か並んだ自動販売機の前に、分厚い身体をした男がうずくまっている。

 何をしているんだろう?

 不審に思った僕は、自販機の光に浮かび上がる男の動きを目で追った。

 男は低い姿勢で自販機の間を緩慢に動き、何かをしている。

 どうやら人気のなくなった学食で、自販機の釣り銭口を漁っているらしい。

 男が何をしているかもわかったし、その男が寮長の武井さんである事も同時に知ってしまった。

 自販機の虚ろな光に照らされる武井さんの顔は真剣だった。

 僕は気づいていないふりをして、その場を離れた。

 何故か僕には、武井さんのその行為が浅ましい物に思えなかった。

 武井さんとほぼ同じ状況に、自分がいる所為かもしれない。

 寧ろ目的や目標の為なら、あらゆる手段を尽くす武井さんに僕は好感を持った。

 そんな武井さんは、一時の人の視線や非難を意に介さない図太い人でもあったのだ。

 そこまでして武井さんは、中古の軽自動車に行き着いた。

 その車が、どうかしたのだろうか?

 「武井さんは苦労して中古の軽なのに、親に買ってもらったいい車、乗り回してるヤツもいるんだぞ!」

 「そんな事が許されていいのか!」

 二人が酒の勢いとは言え、ここまでまくし立てるのには理由があった。

 長野と言う土地すがら、車がないと生活範囲はかなり制限される。

 だから僕達も大学に入ってすぐに車を買うために貯金を始めていた。

 しかし日々の生活にすら窮している僕らが、数年でそこそこの車が買える貯蓄等できるわけもなく

 武井さんが買った中古の軽自動車は、僕らのそう遠くない未来を暗示していた。

 そして大学には入学早々、親や祖父等に買って貰った新車を乗り回している学生達も少なからずいた。

 田舎の私立大学である。裕福な家庭の子息も多かった。

 僕達が大学に通っていた90年代、この国の衰退はもう始まっており、一億総中流と言う言葉に亀裂が入り人を分け隔てる格差が徐々に広がりつつあった。

 僕達は何かに負けたのだろうか?

 同じ大学に入り、まだ何の勝負にも参加していない時点から差がついている。

 そんな不条理をすんなり受け入れるには、僕達はまだ若過ぎた。

 酒が入っている所為か僕も冷静さを失い、沸々とした怒りがどこからともなく沸き上がってくる。

「大体、俺達は大学の名を売るために毎日、毎日、練習してるんだ!そんな俺達がなんでこんな事に!」

 野球部の僕とスキー部のコーヘイが怒りをぶちまけると、社会福祉研究サークルのナベが何故か激しく同調した。

 もう全うな議論ができない程、僕達は酩酊していた。

 僕達の話はあらゆる方向に傾いたり、迷い込んだりしながらも、何かきっかけがあると車の話題に戻った。

 「こんな事を政府や大学当局がなぜ許しているのか!?」

 三畳の部屋に学生運動にまで発展しそうな程のエネルギーが充満してゆく。

 別にいい車に乗っているからと言って大学生活が充実する訳でもないし、中古車に乗っているからと悶々とした大学生活がいつまでも続いていくわけでもない。

 可愛い彼女でもできれば、そんな状況なんて物は一変する。

 また大学を卒業した後に待ち受けるあらゆる局面では、与えられてきた者は脆く、掴み取ってきた者はしたたかだったりするのだ。

 そんな事を知る由もない僕らは永遠と怒り続け、そろそろ臨界点を迎えそうなエネルギーをどこに放出するべきか、その落とし所を考えあぐねていた。

 「あいつらはコンパに行く金もあるのに、俺達はエロビデオすら自由に見られない!」

 酒を飲み始めて、三時間が経過した頃、漸く話題は大学生の男達にとって健全なゾーンに着地した。

 「そう言えば、紫陽花寮の寮長さんはすごい巨乳らしいよ!」

 「マジけ!?」

 ナベが放ったその一言は、酒でぼやけた僕の思考回路を更に痺れさせた。

 紫陽花寮と言うのは、僕らが通う大学に隣接する女子短期大学の寮の事だ。

 うちの大学の男子学生は何故か同じ大学の女子学生との交際より、隣の女短の女学生との交際を求める傾向にあった。

 心なしか女短の子達の方が、うちの大学の女学生より華があるように僕達には映っていた。

 それから一時の間、僕達は巨乳と言う言葉を連呼する事に情熱を注いだ。

 誰からともなく

 「今から紫陽花寮の寮長さんの巨乳を拝みに行こうぜ!」

 と言う何かに縛りつけられた僕達を解放してくれるであろう画期的な提案がなされた。

 少し前には、学生運動が始まりそうな程の物騒なエネルギーが部屋に充満していたのだ。

 今夜、何かしらの行動を起こさないと気が済まない様な精神状態に僕達は突入していた。

 長野の夜空の大気は、今日も澄んでいた。





 


 

 

 

 

 

 


  

 


 


  


 

 



 

 

  



 

 
 

沢木


 夕刻から沢木耕太郎が書いた本を何冊か読んでいるうちに強い焦燥感に駆られた。

 こうしてはいられない。

 自分の胸のうちに広がってゆく青臭い感情に辟易しながらも、まだまだこう言う感情こそが僕にとっては必要やないんかなとも思う。

 少し前から小説の真似事をしていて、そこにこの行き場のないエネルギーを放出するのが最善なんだろうけど、どうも気が乗らない。

 僕の場合、何事も本戦に入って行くのに助走が必要だったりする。

 自分の感情に熱が宿ったのは、相変わらず沢木耕太郎の書く文章が素晴らしかったからだ。

 “流星ひとつ”

 読んでいると、沢木耕太郎が最も読み手に伝えたかったと語る藤圭子の“水晶のように硬質で透明な精神”と言った物がじわりじわりと僕の胸にも迫ってきた。

 この“流星ひとつ”は様々な理由で長らく発表されずに封印されていた物らしい。

 藤圭子が夭逝されて、娘である宇多田ヒカルが発表したコメントを目にした時に沢木耕太郎は“流星ひとつ”を世に出す決心をしたと言う。

 僕も何かの機会に、そのコメントを目にした事がある。

 宇多田ヒカルのコメントから滲み出る切迫した状況と、その心労に僕の胸も痛んだ。 
 
 自分の母親が、壊れてゆくのを間近で見続けねばならなかった宇多田ヒカルの胸中は察するに余りある。

 崩壊したのが“水晶のように硬質で透明な精神”であったなら尚更だ。


 次に読んだのが、同じく沢木耕太郎の“奇妙な航海”と言う短編。

 この短編では、沢木耕太郎ロス疑惑三浦和義と過ごす事になったまさに奇妙な数日の事が書かれている。

 沢木耕太郎は、相手が時代の歌姫であろうが胡散臭い犯罪者であろうが全く分け隔てしていない。

 取材対象に、どこまでも真摯に向かい合っている。

 清濁合わせ飲むとは、こう言った事を指すんだと思う。


 この三浦和義の話は大学生の頃に一度、僕は読んだ事がある。

 当時、僕は小さな河の隣に建てられた学生アパートに住んでいた。

 昔から人見知りをしない性格のせいか、ひっきりなしに色んなヤツが古橋を渡り僕の部屋にやってきた。

 野球部の先輩や後輩。
 
 同じゼミのヤツら。

 休みになればバックパックを背負ってやたらと旅に出て行くヤツラ。

 お笑い同好会のライブ仲間。

 大学で話した事もなければ、見た事すらないヤツ。 
 
 彼女…。

 何か熱に浮かされた様な日々だった。

 窓に洒落たカーテン等ある筈もなく、建てつけの悪い障子が辛うじて西日を遮っていた。

 その障子も訪問者達と酒を酌み交わす度に一枚、また一枚と破れてゆき

 最後には、骨格に肉片が絡みついている様な状態になった。

 夜になると破れた障子の隙間から長野の澄んだ星空が見えた。

 そんな部屋で僕は、古本屋で買い漁った沢木耕太郎の文庫本をよく読んでいた。

 
 三浦和義への取材を続ける内に沢木耕太郎はあろう事か彼を少しずつ理解してゆく。

 その心の移り変わりが、丁寧で緻密に書かれているため読者もまた三浦和義と言う特異な人物を何となく知って行く事となる。

 しかしこの短編は三浦和義が逮捕されて呆気なく唐突に終わる。

 三浦和義が逮捕され、ホテルには沢木耕太郎が一人残される。

 そこで沢木耕太郎三浦和義に「吐くな」とエールまで送るのだ。

 このラストが印象に残り、学生時代の残滓と共に今だに僕の頭を掠めたりする。